第二十三話 三が日
きてくれてありがとうねー。
元日の朝、ルミナが「お雑煮作ろう」と言った。
ルミナの母と三人で、キッチンに立った。ルミナの母が出汁を取って、ルミナがお餅を切って、僕は言われたものを渡した。料理は得意ではなかったが、手伝えることはした。
お雑煮ができた。
三人でテーブルに座って食べた。温かかった。お餅が柔らかかった。ルミナの母が「美味しい?」と聞いた。「美味しいです」と答えた。
本当に美味しかった。
でも、食べながら、去年の元日はどうだったかを考えた。
覚えていなかった。
シエルがお雑煮を作ったかどうか。食べたかどうか。二人でどんな朝を過ごしたか。思い出せなかった。
それが、少し、悲しかった。
悲しい、という感情が自分の中にあることに、少し驚いた。
昼過ぎ、ルミナが「初詣行こう」と言った。
近くの神社に、二人で行った。参道に人が並んでいた。屋台が出ていた。いい匂いがした。
列に並びながら、ルミナが「何お願いするの?」と聞いた。
「考えてない」
「私はもう決まってる」
「何を願うの」
「アイルとずっと一緒にいられますようにって」ルミナが笑った。「毎年これだけど」
毎年、という言葉が少し引っかかった。去年もそう願ったのだろうか。去年の元日、ルミナはどこで初詣をしたのだろう。付き合う前だったから、一人か、別の誰かと、だろう。
「去年も同じことを願ったの?」と聞いた。
「去年は、好きな人ができますようにって願ったかな」ルミナが少し恥ずかしそうに笑った。「そしたらアイルと付き合えたから、神様って本当にいるんだなって思った」
そうか、と思った。去年のルミナの願いが叶った形が、今のこの状況だった。
「アイルは何願う?」
また聞かれた。
しばらく考えた。
何を願うか。
正直に言えば、いくつかのことが頭に浮かんだ。でも、どれもルミナには言えないものだった。
「……考えながら願う」と答えた。
「なにそれ」ルミナが笑った。「まあ、いいか」
列が進んだ。賽銭を入れた。鈴を鳴らした。手を合わせた。
目を閉じた。
何を願うか、本当に考えた。
ちゃんと考えられますように、と思った。
シエルに「ちゃんと考える」と言った。その言葉を、守れますように。
それだけを、静かに願った。
目を開けた。
ルミナが隣で手を合わせていた。目を閉じていた。真剣な顔をしていた。
何を願っているのか、分かった。
ずっと一緒にいられますように、と願っているのだろう。
その願いと、僕が願ったことは、少しずれていた。
そのずれが、どういう意味を持つのか、今日は考えないようにした。
神社の帰り、屋台でたこ焼きを買った。
二人でベンチに座って食べた。熱かった。ルミナが「あちち」と言いながら食べていた。僕も熱かったが、少し待ってから食べた。
「アイルって、いつも落ち着いてるよね」とルミナが言った。
「そう?」
「うん。私がわーってなってる時も、アイルは静かだから」
「落ち着いてるというか、どうすればいいか分からないだけかも」
「それが落ち着いて見えるんだよ」ルミナが笑った。「私の周りにいる人の中で、一番落ち着いてると思う」
落ち着いている。
自分ではそう思っていなかった。毎晩眠れなくて、天井を見て、シエルのことを考えている。それが落ち着いているとは、思えなかった。
「そうかな」
「そうだよ」ルミナがたこ焼きを一つ食べた。「だから好きなんだけど」
好きだから、という言葉は、いつも真っ直ぐだった。ルミナはそういうことを、すらすらと言えた。
僕は何も言わなかった。たこ焼きを食べた。
空が青かった。冬の青い空。
シエルも、今頃空を見ているだろうか、と思った。
元日の空は、きれいだった。
夜、ルミナが眠った後。
今夜は、すぐにシエルに送った。
『元日、何してた?』
少し待つと、既読がついた。
『掃除と、本を読んでいました』シエルが返した。『アイルさんは』
『初詣に行った』
『そうですか。何を願いましたか』
少し考えた。
正直に言おうか、と思った。ちゃんと考えられますように、と願った、と。
『秘密』と打った。
少し間があった。
『そうですか』シエルが返した。それから、少し間があってから、続いた。『僕には言えないことですか』
『……言えないことじゃないけど、言葉にするのが難しくて』
『そうですか』
また、それだけだった。シエルは聞き返さなかった。いつもそうだった。聞いてほしくなさそうな時は、聞かない。
それが、少し、ありがたかった。
『シエルは、何か願いたいことある?』と打った。
少し間があった。
『あります』シエルが返した。
『何?』
また少し間があった。
『アイルさんが、自分のことを大切にできますように』
読んで、少し止まった。
自分のことを大切に。
その言葉が、どこかに刺さった。自分のことを大切にする、ということが、今の自分にできているかどうか、考えた。
できていないかもしれない、という気がした。
『大切にできてないかな、僕』と打った。
『……分かりません』シエルが返した。『ただ、アイルさんが自分のために何かを選んでいるところを、最近見ていない気がして』
自分のために何かを選ぶ。
その言葉を、頭の中で転がした。
最近、何かを選んでいたか。服も、一人称も、帰る時間も、全部ルミナに合わせてきた。自分が選んだと思っていたが、本当に自分が選んだのか、改めて考えると、よく分からなかった。
『シエルは、僕が自分で選んでないと思ってる?』
『思っていない、と言いたいところですが』シエルが返した。少し間があってから、続いた。『……少し、心配しています』
『そっか』
『すみません、余計なことを言いました』
『余計じゃない』と打った。『シエルが言ってくれないと、僕は気づかないから』
少し間があった。
『そうですか』シエルが返した。声が、少し柔らかくなった気がした。文字なのに、そう感じた。
『シエル』と打った。
『なんですか』
『ちゃんと考えてる。昨日言った通り』
『分かりました』シエルが返した。『待っています』
待っています。
またその言葉だった。でも、今夜のその言葉は、責めている感じが全くなかった。ただ、静かに、待っている。そういう言葉だった。
『ありがとう』
『どういたしまして』シエルが返した。それから、少し間があってから、続いた。『アイルさん』
『うん』
『今年は、会えますか』
会えますか。
シエルと、最後に会ったのはいつだったか。自分の家に帰った時が最後だった。それが、いつだったか。十一月か、十二月の初めか。はっきりとは覚えていなかった。
一ヶ月以上、会っていなかった。
『会いに行く』と打った。
今度は「帰りたい」ではなく、「会いに行く」と打った。どちらも同じことを指していたが、少し違う感じがした。
『そうですか』シエルが返した。少し間があってから、続いた。『楽しみにしています』
楽しみにしています。
シエルが、楽しみにしていると言った。
その言葉が、今夜は一番温かく、胸に落ちた。
『おやすみ、シエル』
『おやすみなさい、アイルさん』
画面が暗くなった。
天井を見た。
会いに行く、と言った。
いつ行けるか、まだ分からなかった。でも、言った。言葉にした。
言葉にするたびに、少しずつ重くなっていった。重くなることが、悪いことではない気がしていた。
重さが、本当のことの証みたいな気がしたから。
目を閉じた。
三が日が、静かに続いていた。
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