第十九話 クリスマス前
きてくれてありがとうねー。
十二月の下旬になった。
街が明るくなっていた。商店街にイルミネーションが灯って、夜になると色とりどりの光が道を照らした。学校の帰り道にその光の下を通ると、ルミナが「きれい」と言った。僕も「きれい」と言った。
きれいだった。
きれいだと思いながら、少し遠い感じがした。イルミネーションの光が、どこか現実ではないもののように見えた。きれいなのに、触れられない感じ。そういう感覚が、最近増えていた。
「クリスマス、一緒に過ごそうね」とルミナが言った。
「うん」
「何かしたいこととかある?」
「ルミナが決めていい」
「私が決めていいの?」ルミナが少し嬉しそうにした。「じゃあ決める。絶対楽しくするから」
絶対、という言葉を、ルミナはよく使った。
僕は頷いた。
その日の夜、珍しくシエルから連絡が来た。
ルミナが先に眠っていた。スマートフォンに通知が来て、画面を見ると、シエルからだった。
『アイルさん、起きていますか』
起きていた。眠れない夜が、また続いていた。
『起きてる』と返した。
『そうですか』少し間があってから、続いた。『少し、話せますか』
『うん』
また間があった。シエルが何かを考えているのが、文字越しでも分かった。
『アイルさん、今月、家に帰ってきていないですね』
そうだった。十二月に入ってから、一度も帰っていなかった。先月は週に一度くらいは帰っていた。今月は、一度も。
『……そうだね』
『何かあったわけでは、ないですか』
『ない。ただ、なんとなく』
『そうですか』
またシエルが黙った。今度は長かった。
どうしたのか、と聞こうとして、待った。シエルが何かを言おうとしている時は、待った方がいい。それは、長い付き合いで分かっていた。
しばらくして、来た。
『アイルさんに、一つだけ聞いていいですか』
『何』
『今、幸せですか』
画面を見たまま、止まった。
幸せ。
ルミナも、同じことを聞いたことがあった。シエルも、同じことを聞いた。でも、二人が聞く「幸せ」は、少し違う感じがした。ルミナが聞く時は、答えが「うん」であることを確認しているような聞き方だった。シエルが聞く時は、本当に分からないから聞いている、という感じがした。
しばらく考えた。
幸せか、どうか。
悪くはなかった。ルミナがいて、必要とされていて、一人ではなかった。それは、以前にはなかったことだった。
でも、幸せかと言われると、よく分からなかった。
『……分からない』と打った。
少し間があった。
『そうですか』
シエルの返信は、それだけだった。
もっと何か言われると思っていた。でも、それだけだった。
『シエルは』と打った。『僕が幸せじゃないと思ってる?』
また間があった。
『分からないです』シエルが返した。『アイルさんの中が、僕には見えないので』
『そうだね』
『ただ』シエルが続けた。『アイルさんが幸せなら、それでいいです。でも、幸せじゃないなら』
そこで止まった。
続きを待った。
『幸せじゃないなら』と僕は打った。『どうするの』
また、長い沈黙があった。
ルミナの寝息が、静かに聞こえていた。
シエルからの返信が来た。
『……そばにいます』
それだけだった。
そばにいます。
シエルは今、家にいる。僕はルミナの家にいる。そばにいる、という言葉の意味が、少しずれていた。でも、シエルはそう言った。
『ありがとう』と打った。
『どういたしまして』シエルが返した。『眠れそうですか』
『たぶん』
『そうですか。おやすみなさい、アイルさん』
『おやすみ、シエル』
画面が暗くなった。
天井を見た。
そばにいます、という言葉が、頭の中に残っていた。
そばに、いる。
今はそばにいない。でも、シエルはそう言った。それが何を意味するのか、ゆっくり考えた。
考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌朝。
ルミナが目を覚ました。いつも通り、僕を見て、息を吐いた。
「おはよう」
「おはよう」
「よく眠れた?」
「……うん」
昨夜より、よく眠れた。シエルと話したから、かもしれなかった。でも、そのことをルミナには言わなかった。
朝食を食べて、学校へ向かった。
分かれ道を、今日もまっすぐ進んだ。でも、今日は足が重くなかった。昨夜シエルと話したから、少し軽くなっていた。
それが、少し、おかしいとも思った。
シエルと話すと、軽くなる。ルミナのそばにいると、重くなることがある。
その感覚を、言葉にしないようにした。
昼休み、ルミナが「クリスマスのこと考えた」と言った。
「何するの」
「ケーキ買って、うちで食べる。あと、プレゼント交換しようよ」
「プレゼント?」
「うん。お互いに。何がほしいか、考えといて」ルミナが笑った。「私はもう決まってるけど」
「何がほしいの」
「アイルにずっとそばにいてほしい」ルミナが当たり前のように言った。「それだけ」
プレゼントじゃない、と思った。でも、ルミナにとっては、それがプレゼントなのだろうと思った。
「……うん」と答えた。
「アイルは何がほしい?」
しばらく考えた。
何がほしいか。
いくつかのことが、頭に浮かんだ。でも、どれも、ルミナに言える言葉ではなかった。
「……考える」と言った。
「うん」ルミナが笑った。「ゆっくり考えていいよ」
ゆっくり考えていいよ、と言うルミナの声が、優しかった。
優しかったから、余計に、言葉が出てこなかった。
その日の放課後、ルミナがトイレに立った。
教室に一人になった。
窓の外を見た。冬の空が、薄い青だった。
シエルのことを、また思った。昨夜の「そばにいます」という言葉を、また思った。
自分の家に帰りたい、という気持ちが、久しぶりに、はっきりと出てきた。
帰りたい。
その感情が、自分の中にあることに、少し驚いた。帰りたい、という感情が、いつの間にか薄くなっていたから。それが今日は、少しはっきりしていた。
でも、帰れない。
なぜ帰れないのか、考えた。ルミナがいるから。ルミナが不安になるから。ルミナが、僕がいないと落ち着かないから。
ルミナの母が言っていた。ルミナは一人だと不安定になる、と。
だから、僕がいる。
でも、それは、正しいことなのか。
考えかけたところで、ルミナが戻ってきた。
「待たせてごめん」
「待ってない」
「そっか」ルミナが席に着いた。「帰ろっか」
「うん」
鞄を持った。
帰りたい、という気持ちが、まだ胸の中にあった。でも、足はルミナの家の方向に向かっていた。
それが今の僕の「帰る」だった。
ルミナの家に着いた。
玄関を入った。靴を脱いだ。リビングを通った。部屋に入った。
鞄を置いた。
窓の外を見た。夕暮れが始まっていた。オレンジと紺が混ざった空だった。
シエルにメッセージを打とうとして、やめた。
今日は、昼間に帰りたいと思った。それをシエルに話したかった。でも、話したら、シエルが何かを言うかもしれない。何かを言われたら、考えなければいけなくなる。
考える準備が、まだできていなかった。
スマートフォンをしまった。
ルミナが「お茶飲む?」と聞いた。
「うん」と答えた。
温かいお茶を、もらった。
飲みながら、窓の外を見た。
空がどんどん暗くなっていった。オレンジが消えて、紺になって、黒くなった。
夜になった。
また一日が、終わっていった。
夜、ルミナが眠った後。
今夜は、シエルに送らなかった。
送りたかったが、送らなかった。
昼間に帰りたいと思ったことを、話したかった。でも、話せなかった。理由は、うまく言えなかった。
ただ、怖かった。
話したら、シエルが「帰っておいで」と言うかもしれない。そう言われたら、帰りたくなる。帰りたくなったら、ルミナを置いていくことになる。ルミナを置いていったら、ルミナが不安になる。不安になったら、鞄に手を入れるかもしれない。
そこまで考えて、止まった。
そういう流れが、頭の中に自動的にできていた。
帰る→ルミナが不安→鞄に手を入れる。
だから帰れない。
その回路が、いつの間にか、頭の中にできていた。
いつからそうなったのか、分からなかった。でも、確かにあった。
天井を見た。
シエルが「そばにいます」と言っていた。でも、この回路がある限り、そばに帰ることができなかった。
それが、正しいのかどうか。
正しくないかもしれない、という感覚が、今夜は少し、はっきりしていた。
でも、はっきりしていても、どうすればいいかが分からなかった。
窓の外は、暗くて、静かだった。
クリスマスまで、あと少しだった。
ルミナはケーキを買うと言っていた。プレゼント交換をすると言っていた。ずっとそばにいてほしい、と言っていた。
ずっとそばにいる。
それが、これからも続くのだろうか、とぼんやり思った。
考えが、そこで止まった。
これ以上考えると、眠れなくなると思ったから。
目を閉じた。
シエルの声を、頭の中で思った。
そばにいます。
その言葉だけを、静かに持ったまま、夜の中にいた。
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