第十八話 雪の日
きてくれてありがとうねー。
翌朝、雪が積もっていた。
窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。庭が白かった。木の枝に雪が乗っていた。道路も、屋根も、全部白かった。
ルミナが隣で目を覚ました。
「雪だ」とルミナが言った。起き上がって、窓の外を見た。「積もってる」
「うん」
「やった」ルミナが笑った。昨日言っていた通り、嬉しそうだった。「二人で見ようって言ってたやつ」
「うん」
ルミナが窓に近づいた。白い息が、少し出た。
「きれいだね」
「きれいだね」と僕も言った。
きれいだった。本当に、きれいだった。
でも、きれいだと思いながら、別のことを考えていた。
シエルの家にも、雪が積もっているだろう。シエルは今頃、窓から見ているだろうか。一人で。
その考えを、打ち消した。
今は、ルミナと雪を見ている。それでよかった。
その日、学校は午前中で終わった。
雪のせいで、午後の授業が休みになった。帰り道、雪が少し残っていた。ルミナが「雪玉作ろう」と言って、道端の雪を集め始めた。
「そんな量じゃ無理じゃない」
「いいじゃん、やってみれば」ルミナが雪を丸めた。形が崩れた。「あ、崩れた」
「言ったじゃない」
「アイルも手伝ってよ」
仕方なく、隣にしゃがんで雪を集めた。手が冷たかった。手袋をしていなかった。
「手袋してないの?」ルミナが気づいた。
「忘れた」
「もう、貸してあげる」ルミナが手袋を外した。「はい」
「いい」
「いいから」ルミナが僕の手を取って、手袋をはめた。「冷たくなったら、あったまらないんだから」
手袋は少し大きかった。ルミナの手の形をしていた。
温かかった。
悪くなかった、と思った。でも、自分の手袋を取りに帰ることはできなかった、と気づいた。自分の家に手袋があった。でも、自分の家に寄ることを、考えなかった。
雪玉は、結局うまくできなかった。二人で笑って、諦めて、また歩き始めた。
ルミナの家に帰ると、ルミナの母がホットチョコレートを作ってくれた。
「冷えたでしょう」と言いながら、マグカップを二つ出してくれた。
「ありがとうございます」と言った。
温かかった。手が少しずつ戻ってきた。
ルミナの母が「アイルちゃん、最近ずっといてくれるから、助かるわ」と言った。「ルミナが安心してるみたいで」
「そうですか」
「うん。ルミナ、一人だと不安定になることがあって」ルミナの母が少し声を落とした。「アイルちゃんがいると、落ち着いてるから」
落ち着いてる。
その言葉を、僕は少し頭の中で転がした。
ルミナが落ち着くために、僕がいる。それが、今の状態だった。悪いことではない、と思った。誰かの役に立っている、ということだから。
でも、何かが引っかかった。
引っかかりの正体を探す前に、ルミナが部屋から出てきた。「お母さん、何話してたの」と言った。
「何でもないよ」とルミナの母が笑った。
僕も何も言わなかった。
夕方、ルミナが少し眠そうにしていた。
「疲れた。昼寝してもいい?」
「いいよ」
「アイルも寝る?」
「起きてる」
「じゃあ隣にいてくれる?」ルミナが言った。「目が覚めた時に、いてほしいから」
目が覚めた時に、いてほしい。毎朝そう言う。昼寝から覚める時も、そう言う。
「いるよ」と答えた。
ルミナがベッドに横になった。すぐに寝息が聞こえてきた。
僕は窓際に座った。
外はまだ白かった。雪が残っていた。日が傾いて、白い雪が少しオレンジがかって見えた。
一人だった。
久しぶりに、一人だった。ルミナが起きている間は、常にルミナがいた。今は眠っているから、一人だった。
静かだった。
この静けさが、少し懐かしかった。
スマートフォンを取り出した。
昨夜は送らなかった。今日の昼も送れなかった。今は一人だった。
シエルとのトーク画面を開いた。
打とうとして、少し止まった。
何を送ればいいか。昨夜の続きのような気がして、なんとなく送りにくかった。昨夜は「眠れない」という理由があった。今は、ただ一人だから、送りたいだけだった。
それは、理由になるのだろうか。
しばらく考えて、打った。
『今日、雪が積もりました』
送った。
すぐに既読がついた。
『そうですね。こちらも積もっています』
シエルも、雪を見ていた。
なんとなく、そう思っただけで、少し胸の中が動いた。
『きれいでしたか』と打った。
『きれいでした』シエルからすぐ返ってきた。『アイルさんは』
『きれいだった』
『そうですか』
少し間があってから、また来た。
『アイルさんと、雪を見たかったです』
読んで、少し止まった。
シエルがそういうことを言うのは、珍しかった。直接的に、こうしたかった、と言うのは。いつも遠回しで、言いかけてやめるシエルが、そう言った。
なんと返せばいいか、少し考えた。
『来年は、一緒に見よう』と打った。
送ってから、来年、と書いたことに気づいた。来年も、こうして別々に雪を見ているのか、という意味になった。
そうじゃなかった。そういう意味で書いたわけじゃなかった。
でも、送ってしまっていた。
シエルからの返信が来た。
『……はい』
それだけだった。
その一言の重さが、画面の前で少し、胸に刺さった。
来年、と書いてしまった。今年は一緒に見られない、ということを、自分で認めた形になっていた。
それが、正しいのかどうか。
考える前に、ルミナが寝返りを打った。気配がした。まだ眠っていたが、目が覚めそうだった。
僕はスマートフォンをしまった。
窓の外の雪を、もう一度見た。
オレンジがかった白。夕暮れの雪。
きれいだった。
シエルも、同じ雪を見ていた。別々の場所から、同じ雪を。
それが、なんとなく、寂しかった。
寂しい、という感情が自分の中にあることを、久しぶりに感じた気がした。
その夜、ルミナと夕飯を食べながら、ルミナが言った。
「今日、楽しかった?」
「うん」
「雪、きれいだったね」
「きれいだった」
「来年も、一緒に見ようね」
来年も、という言葉が、また引っかかった。シエルにも来年と書いた。ルミナにも来年と言われた。
来年の自分が、どこにいるのか、今の僕には分からなかった。
「うん」と答えた。
ルミナが笑った。
僕も、笑った。
笑い方を、いつから練習していたのか、分からなかった。でも、いつの間にか、笑えるようになっていた。中身が追いついていなくても、顔だけは笑えるようになっていた。
それが、どういうことなのか。
夕飯の続きを食べながら、考えないようにした。
夜、またルミナが眠った後。
今夜は、スマートフォンを取り出した。
シエルとのトーク画面を見た。昼間のやりとりが見えた。
来年は、一緒に見よう。
……はい。
その二行を、しばらく見ていた。
シエルは、来年を待つつもりなのだろうか。来年、アイルが帰ってきて、一緒に雪を見る、それを待つつもりなのだろうか。
待っています、とシエルはよく言った。
待っている間、シエルは何を思っているのか。
聞いたことがなかった。
聞けるかどうか、考えた。
打とうとして、やめた。
今夜は、これ以上送らない方がいい気がした。理由はうまく言えなかった。ただ、送ったら、何かが変わりそうな気がした。変わることが、今は怖かった。
何が怖いのかも、うまく言えなかった。
スマートフォンを置いた。
天井を見た。
窓の外は、静かだった。雪が残っていた。夜の雪は、音を吸い込むから、いつもより静かだった。
シエルが、今頃どうしているか、考えた。
眠っているかもしれなかった。それとも、窓から雪を見ているかもしれなかった。
一人で。
その言葉が、また胸に落ちた。
一人で雪を見ているシエルを想像すると、今夜も胸が少し痛んだ。
痛みを、今夜は少しだけ、言葉にしようとした。
なぜ痛いのか。
シエルが一人だから。
なぜシエルが一人だと、痛いのか。
そこまで考えて、止まった。
答えが、どこかに見え始めていた。
でも、見てしまったら、どうすればいいのか分からなかった。
だから、目を閉じた。
雪の静けさの中で、答えの手前で、目を閉じた。
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