第2話 目指すは超山脈
どれほどの時間が経っただろうか。
感覚が麻痺し、時間の概念が砂時計の砂のように崩れ去った後、ウィリアムを現実へと引き戻したのは、鼻腔を突く「古い油と冷えたコンクリート」の匂いだった。
「……カハッ、……生き、てるか」
肺に溜まった淀んだ空気を吐き出し、ウィリアムはゆっくりと上体を起こした。
全身の関節が錆びついた機械のように悲鳴を上げる。彼は反射的に右手の『草薙(JTX)』を握り直したが、指先はひどく震えていた。
「ここは……屋内か?」
周囲を確認すべく、ヘルメットのタクティカルライトを点灯させる。
光の柱が切り裂いたのは、澄み渡る異世界の青空などではなく、埃の積もった冷徹な人工物だった。
剥き出しの配管、ひび割れたセラミックの壁、そして天井で力なく揺れる錆びついた非常用灯火。かつて新宿の地下で見た「観測施設」と酷似しているが、決定的に違うのは、壁一面に描かれた「旭日」をモチーフにしたエンブレムと、幾重にも張られた正体不明の「呪符」のような紙の束だった。
「情報を集めないと即死の世界だろうからな……。ピクニックに来たわけじゃないんだ」
ウィリアムは壁に手をつき、慎重に立ち上がった。
足元には、数十年前に放棄されたであろう精密機器の残骸が転がっている。彼は基地内を散策し始めた。ブーツの音が、嫌に高く反響する。
その時、脳内にノイズ混じりの電子音声が直接響いた。
JTX(草薙)のグリップから伸びた光の糸が、彼の神経系に深く食い込んでいる証拠だ。
『――警告。周辺環境に未知の言語体系を確認』
『JWT共通辞書:混合言語の翻訳データを検出。……外部機器へのアップロードは情報損失の恐れあり。脳内への直接インストールを推奨します』
「……脳に直接だと? 冗談はやめろ。ただでさえ、この銃のせいで頭が割れそうなんだぞ」
ウィリアムは毒付いたが、HUDに表示される周囲の看板やメモは、すべてラテン文字と漢字、さらには見たこともない幾何学模様が混ざり合った「文字列の暴力」と化していた。
「"God dammit."……いいだろう。やってくれ。どうせ、まともな神経じゃこの先やっていけないだろうからな」
許可を出した瞬間、視界が白濁した。
数万、数億という文字情報が、物理的な衝撃を伴って脳の海馬へと流し込まれる。
ウィリアムは膝をつき、自身の頭蓋を砕かんばかりの激痛に耐えた。
数秒後。
痛みが引き、再び目を開けた時――世界は一変していた。
壁に貼られた『立ち入り禁止』の警告。
デスクに放置された『カイル大陸・環境生存指針』。
そして、床に転がる白骨化した遺体が握っていた『遺書』。
それらが、はっきりとした意味を持って脳内に結像した。
「……カイル第1拠点、地下。……なるほど、ここは『地獄の玄関口』だったわけだ」
ウィリアムは遺体の手元から、一冊の革張りの手帳を拾い上げる。
そこには、この異世界が、地球人の「旧人類」にとってどれほど過酷で、どれほど救いのない場所であるかが、震える筆致で綴られていた。
「『新人類』以外は、呼吸をするだけで死に近づく、か……」
彼はJTXのセーフティを解除した。
脳内にインストールされた知識が告げている。この基地の分厚い防壁のすぐ向こう側には、魔力を餌にする怪物と、人を内側から食い破る寄生生物の支配する「魔原」が広がっていることを。
周囲の散策を終えたウィリアムは二つの選択に悩まされていた。
ウィリアムは手帳を閉じ、デスクの端に腰を下ろした。草薙のグリップから伝わる脈動が、インストールされたばかりの言語データと同期し、脳の奥をチリチリと焼く。
「さて、どっちに行くべきか……。選択肢があるだけ、マシと思いたいがね」
彼はHUDに投影された地図を指先で操作した。
南:ウリュー大陸(王国大陸)
利点: 特殊放射線の浄化技術が進んでおり、人間の文明が残っている。食料や休息、そして2144年の地球に「オーズ」を流していた黒幕に関する情報を得られる可能性が高い。
懸念: 旧人類の貴族たちが支配する階級社会。魔力を持たぬウィリアムは「無能」か「実験動物」として扱われるだろう。
北:ゼウス超山脈(その先は魔大陸レイン)
利点: 山頂にJWT A-0.8Ex『天照』が眠っている。さらにその先には、他の強力な遺物たちが散らばるレイン大陸が控えている。
懸念: 生存率0%の魔原。魔物、魔獣、そして寄生生物の巣窟。
「王国に行けば、美味い飯とまともなベッドにありつけるかもしれない。……だが、あの手帳の書きぶりじゃ、貴族様たちが俺のような『汚れ者』を歓迎してくれるとは思えん」
ウィリアムはJTX(草薙)の銃身を眺めた。刻印された『AOM』の文字が、暗い室内で青く浮かび上がる。
「それに、この銃が『反米』なら、王国の連中とも相性は最悪だろう。俺を売り飛ばしてオーズを独占しようとした国防総省の連中と同じ匂いがする」
彼は立ち上がり、北の壁――その向こうにそびえるはずのゼウス超山脈の方角を見据えた。
「『天照』に『伊邪那岐』、それに『天十握剣』か。日本人が残したこれだけの『力』が、この世界のどこかに転がっている。……皮肉なもんだが、地球を救うため、あるいは俺がここで生き残るためには、この呪われた武器たちをすべて回収し、地獄の根源を焼き払うしかなさそうだ」
ウィリアムはヘルメットのバイザーを下ろし、酸素供給システムのフィルターを最大出力に設定した。
「"Sorry, Your Highnesses. I'm not in the mood for bowing today."(悪いなお貴族様方、今日はお辞儀をする気分じゃないんだ)」
目的は決まった。
まずは北へ。雲を突き抜けるゼウス超山脈の頂を目指し、疑似太陽『天照』を手に入れる。それが、レイン大陸という真の地獄へ踏み込むための「唯一の鍵」になるはずだ。
ウィリアムは、厚い防塵扉のロックを解除した。
錆び付いた油圧プレスが断末魔のような音を立てて開き、その隙間から、紫色の不気味な陽光と――肺を焼くような死臭を孕んだ風が、容赦なく吹き込んできた。
「さあ、お仕事の時間だ。草薙、お前の力見せてもらおうか」
彼は迷いなく、外の世界へと足を踏み出した。
防塵扉が開いた瞬間、ウィリアムの視界を埋め尽くしたのは、2144年の地球ではもはや失われた、狂気すら感じるほど強烈な「光」そしてエベレストの10倍の高さを誇るであろうゼウス超山脈によって目に映る景色の半分は巨大な陰で覆われていた。
だが、それで終わるほど異世界は甘くない。紫がかった空から降り注ぐのは、網膜を刺し、細胞の奥底を掻き毟るような暴力的なエネルギーの奔流。HUDには「放射線量限界突破」の警告がこれでもかと並び、視界の端々をデジタルノイズが塗り潰していく。
「……ハッ、こいつは愉快だ。まるでレンジの中で焼かれるチキンの気分だな」
ウィリアムは不敵な笑みを浮かべ、砂塵にまみれた一歩をカイル大陸の土に刻んだ。
目の前に広がるのは、白化した岩と枯れ果てた植物の残骸がどこまでも続く「魔原」。そしてその地平線の果て、空を二分するように聳え立つ巨大な壁――ゼウス超山脈が、絶対的な拒絶の意思を持って彼を見下ろしていた。
その時だった。
「グ……ル、ル……ッ」
乾燥した風の音に混じり、耳障りな低周波の唸り声が鼓膜を震わせた。
ウィリアムのプロフェッショナルな本能が、瞬時に音の主を捕捉する。前方の巨大な岩の陰から、不自然なほど左右に肥大化した肉体を持つ「四足の獣」が這り出してきた。
かつては狼に似た魔獣だったのだろう。だが、その背中からは赤黒い血管のような「糸」が幾重にも噴き出し、頭部には本来あるはずのない「複眼」が、蠢く肉塊に埋もれるようにして輝いている。
寄生生物に侵食された魔獣――バイオハザードの異界における「最初の住人」との邂逅だ。
「さあ、お仕事の時間だ。草薙、お前の力を見せてもらおうか」
ウィリアムが『草薙』を構えた瞬間、彼の神経系に食い込んだ青い光の糸が、まるで獲物を見つけた猛毒の蔦のように激しく脈動した。マガジンが「オーズ」のエネルギーを過充填し、スライドの隙間からプラズマの残光が漏れ出す。
「ギャアアアアッ!」
寄生魔獣が、重力を無視したような瞬発力で跳躍した。
死臭を孕んだ牙がウィリアムの喉元に迫る。
だが、ウィリアムの指がトリガーを引く方が一瞬速かった。
――ドォォォォンッ!!
銃声ではない。それは、空間そのものが爆ぜるような重低音だった。
JTX(草薙)の銃口から放たれたのは、青白き光の礫。魔獣の眉間を貫いたそれは、着弾と同時に内部で爆発的なエネルギーを解放し、寄生生物のネットワークごと、肉体を分子レベルで霧散させた。
一撃。
かつてのHK416なら数マガジンは要したであろう怪物を、一発の光弾が文字通り「消去」したのだ。
「……ヒュー。とんだじゃじゃ馬だな、この鉄屑は」
「そしてやっぱりこいつ(草薙)は空気中の特殊放射線を自動的に吸収してやがる、それがエネルギーとなってこいつ自身に蓄積されている」
『弾切れの心配はないみたいだな』
ウィリアムは反動で痺れる腕を軽く振り、銃口から立ち昇る、火薬とは違う「焦げた魔力」の匂いを嗅いだ。
足元には、塵となった魔獣の残骸。HUDの地図は、山脈の頂へ至るルートを非情なほど冷静に指し示している。
「これなら、あのデカい山を焼くっていう『天照』の威力も、あながち法螺じゃなさそうだ」
彼は再び歩き出す。
背後の旧日本軍基地は、すでに砂嵐の中に消えかけていた。
退路も、援軍も、安息もない。
あるのは、脳に刻まれた10振りの神器のリストと、右手に宿る反米の意志。
「待ってろよ、ゼウス。テッペンにある『太陽』を、俺が回収しに行ってやる」
ウィリアム・クラークの、異世界における孤独な軍事作戦が、今、本格的に幕を開けた。




