エピローグ:これから
朝の光が、療院の中庭へまっすぐ落ちていた。
洗ったシーツが風に揺れる。薬草の匂いが薄く漂って、その下に、子どもたちの小さな声が混じっている。
少し前まで、この場所にあったのは、息を潜めるための静けさだった。
泣き声を押し殺す静けさ。怯えを隠す静けさ。次に何をされるのか分からなくて、ただ固まるしかない静けさ。
今あるのは、それとは違う。
まだ全部が消えたわけじゃない。夜中にうなされる子もいる。大きな音で肩を跳ねさせる子もいる。けれど、それでも朝がちゃんと来て、起きて、食べて、外へ出てこられる。
その“次の朝”があること自体が、前とは違った。
「ひなたお姉ちゃん!」
呼ばれて振り向くと、エリスが手を振っていた。
その隣で、イリーナも少しだけためらってから、小さく手を上げる。前みたいに毛布へくるまったままじゃない。まだ細くて、顔色も万全じゃない。けれど、自分の足で立っていた。
「おはよう」
二人のところまで行くと、エリスが机の上の紙を勢いよく差し出してきた。
「みて。きょう、なまえのれんしゅうしてるの」
紙の上に、まだ少し歪んだ文字が並んでいる。
エリス。
イリーナ。
その隣には、昨日ようやく自分の名前を教えてくれたばかりの子の文字。
番号じゃない。
候補生の印でも、適性の記号でもない。
自分の名前だ。
「……上手くなったね」
私が言うと、エリスは得意そうに胸を張った。
「イリーナちゃんも、いっぱいかけたの」
「エリスちゃんが……おしえてくれたの」
イリーナが少し照れたように紙を抱える。喉元にはもう赤金の紋は浮かんでいなかった。
その少し向こうでは、ミレナが別の子どもたちのそばに座っていた。
紙を押さえて、鉛筆の持ち方を教えている。
「ここは、こうです。ゆっくりで大丈夫ですから」
声はまだ大きくない。でも、震えに飲まれてはいなかった。
怖さごと抱えたまま、それでも人の隣に座っていられる顔をしている。
「見すぎ」
背後から声がして、振り返る。
ゆうりだった。紙束を抱えたまま、呆れた顔でこっちを見ている。
「そんな顔して突っ立ってると、庭番に怒られるわよ」
「感動してたんだけど」
「分かるけど、感動したまま止まる気はないでしょ」
その通りだ。
私は肩をすくめて、ゆうりの持っている紙束へ目をやった。
「それ、なに」
「あんたが進めてた癒し学校の件。正式に通ったって」
差し出された紙を受け取る。
療養棟の増設案。読み書き担当の人員。生活指導の配置。記録公開の範囲。予算配分。まだ穴はある。でも、もう“夢物語”ではなかった。ちゃんと形として動き始めている。
「ようやく、か」
思わず口から出る。
「遅い」
「そうね」
「でも、通ったならいい」
私は紙を閉じた。
「ここから先は、通っただけじゃ意味ないし」
ゆうりが片眉を上げる。
「随分落ち着いてるじゃない」
「落ち着いてるわけじゃないよ」
私は中庭の方を見た。
名前を書く子どもたち。まだぎこちない手つき。けど、確かに自分の名前をなぞっている指先。
「やっと始められるって思っただけ」
「……へえ」
少しだけ、ゆうりの口元が緩む。
「読み書きと癒しだけで終わらせない」
私は紙を持ったまま続けた。
「痛い時に痛いって言えること。嫌な時に嫌って言えること。黙って耐えるしかないって勝手に決められないこと。そういうのまで込みで教える場所にする」
ミレナが顔を上げた。
エリスも、イリーナも、こっちを見ている。
「“見える位置”に置くのも続ける。帳簿も、会議も、運用も。誰かが勝手に密室で決めて、あとから“必要でした”で押し切れないようにする」
「休む気あるのか?」
いつの間にか来ていたラグナが、壁際から言った。
「あるよ」
私は即答した。
「でも、止まらないだけ」
ラグナは短く息を吐いた。呆れているのか、少しだけ笑ったのか、よく分からない顔だった。
「まあ、お前はそういう顔だな」
その後ろから、レオニール王子も現れた。
「なら、こちらも止まるわけにはいきませんね」
「うわ、増えた」
「失礼ですね」
王子は柔らかく笑う。けれど目は真面目だった。
「聖都側の整理はまだ続きます。白冠連盟の残党もいる。制度の穴も多い。だが、もう前の形には戻させません」
「うん」
私は頷いた。
「戻さない」
それは、誓いみたいな言葉だった。
でも大げさに言う気はなかった。ただ、当たり前みたいに言いたかった。
エリスが、私の袖をちょんと引く。
「ひなたお姉ちゃん」
「ん?」
「つぎ、なにするの?」
その問いかけが、少しだけ可笑しかった。
前なら“次”なんて、きっと怖い言葉だった。
次に何をされるか。次に何を奪われるか。そういう意味でしかなかったはずだ。
でも今の“次”は違う。
私はしゃがんで、エリスとイリーナの目線に合わせた。
「まずは、この場所をもっと過ごしやすくする」
「うん!」
エリスが即答する。
イリーナも、紙を抱えたまま小さく頷いた。
「それから、勉強」
「べんきょう……」
「うん。でも、難しいことばっかりじゃないよ」
私は紙の上の文字を指さした。
「自分の名前を書くこと。食べたい時に食べること。眠れない時に眠れないって言うこと。嫌なことを嫌って言うこと。助けてほしい時に助けてって言うこと」
イリーナが静かに聞いている。
その隣で、エリスが何度も頷く。
「それ、全部」
私は二人を見た。
「これからは、勝手に奪われなくていいようにする」
少しの沈黙のあと、イリーナが紙を持ち上げた。
「ひなた様」
「ん?」
「これ……じぶんで、かけた」
見せられた紙には、少し歪みながらも、ちゃんと名前があった。
イリーナ。
誰かに振られた番号じゃない。
適性で切り分けるための印でもない。
この子がこの子として持っているものだ。
「うん」
私はそれを見て、ゆっくり頷いた。
「いい名前だね」
イリーナは嬉しそうに紙を抱えた。
エリスがその肩に寄り添う。
ミレナは別の子の紙を押さえたまま、少しだけ笑う。
ゆうりは次の紙束をめくっていて、ラグナは相変わらず壁際で全体を見ている。レオニール王子は、その光景を静かに眺めていた。
誰も祈っていない。
誰も跪いていない。
それでも、この朝はちゃんと守られている。
聖女って、なんなんだろうと、ふと思う。
昔ならきっと、答えはひとつしか許されなかった。
祈る者。捧げる者。削られる者。
でも今は違う。
痛いと、嫌だと、行きたくないと、ちゃんと言える朝を残すこと。
名前を名前のまま持っていられる場所を守ること。
そのために、見えないところへ押し込められていたものを引きずり出すこと。
それを聖女と呼ぶなら、悪くない。
私は立ち上がって、中庭を見渡した。
返ってきた朝の光。
紙と鉛筆。
名前を書く小さな手。
ここから先を、生きていくための場所。
終わったんじゃない。
ここから、ちゃんと始めるんだ。
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