第30話:聖女の明日を返せ
奥の通路へ駆け込んだミレナの背を追いながら、私は叫んだ。
「ゆうり、炉を止めて! ラグナ、流れ切って!」
「言われなくても!」
「承知した」
返事は短かった。
地下の奥では、半開きの扉の向こうに小さな寝台がいくつも並んでいた。繋がれたままの子、座り込んだまま動けない子、怯えて泣くことすらできない子。ミレナは震える手で一番近い子の拘束具を外しながら、息を詰めた声で言う。
「もう従わなくていいです。走ってください。出口は、こっち」
最初の一人は動けなかった。
けれど二人目の肩を支えた時、ようやく小さく足が動く。
「そうです……大丈夫、こっち」
その横で、白い光が弾けた。
セラフィナだ。
炉と繋がった祈りの輪が床から立ち上がり、私の足首を絡め取ろうとする。私は身を捻って外し、そのまま真正面から踏み込んだ。
「まだ止めるの?」
「止めます」
静かな声だった。
「ここで断てば、もっと多くが苦しむ」
「嘘つくな」
言い返すと同時に、光の帯が腕を掠める。焼けるように痛い。けど今は、痛いかどうかなんてどうでもいい。
「見えないように隠してただけでしょ」
「世界は、きれいごとだけでは保てません」
「だからって、嫌だって言ってる子どもを繋ぐ理由にはならない」
セラフィナの足元で、炉の脈が一段強く跳ねた。
***
王都の療院では、イリーナが苦しそうに肩で息をしていた。
喉元の赤金の紋が、さっきより濃い。隣の寝台の子も泣き出して、部屋全体がじわじわ揺れているみたいだった。
エリスは唇を噛んだあと、イリーナの手を握り直した。
「こわくても、いこう」
自分にも言い聞かせるみたいに、もう一度言う。
「だいじょうぶ、いっしょ」
「おてて、はなさないで」
グレイが扉を開ける。
「別室へ移す。歩ける者から動かすぞ」
エリスはこくんと頷いた。
それから、毛布を抱えた小さい子の前に立つ。
「いくよ。ゆっくりで、いいの」
イリーナが熱に浮かされた目でエリスを見る。
「……エリス、ちゃん」
「うん。いっしょ」
その一言で、イリーナはふらつきながらも立ち上がった。
***
ゆうりは炉の外周に刻まれた輪へ鞘を叩き込み、ラグナは壁を走る導管へ影を差し込んでいた。光の流れが暴れ、地下全体がきしむ。
「ひなた! 長くは持たない!」
「十分!」
私はセラフィナの光を正面から受け止める。眩しくて目が焼けそうなのに、その向こうの顔だけは不思議なくらい静かだった。
「あなたは、壊したあとのことを考えていない」
「考えてるよ」
息を切らしながら、私は言い切った。
「だから止めに来たんだ」
一瞬だけ、セラフィナの目が揺れた。
その揺れを逃がさず、私は一歩前へ出る。
「お前が守ってるのは信仰じゃない。怯えた子を黙らせて、都合よく使うための仕組みだ」
「……違います」
初めて、声が少しだけ硬くなった。
「違わない」
私は彼女の腕を払う。光の帯が外れ、床に走った。
「上でどれだけ綺麗なこと言っても、下でこれをやってる時点で終わってる」
その背後で、ミレナの声が響く。
「こっちです! 走ってください!」
子どもたちが、ようやく動き始めていた。
その光景を見た瞬間、セラフィナの動きがほんの一拍だけ遅れた。
私はそこへ踏み込んで、彼女の肩を強く弾き飛ばす。倒れた体を追撃はしない。そのまま炉へ走る。
「ゆうり!」
「今!」
ゆうりが最後の輪を断ち、ラグナが影で導管を一気に裂いた。白い光が逆流する。
私は炉の中心へ手を伸ばした。
熱い。眩しい。痛い。
でも、その奥にあるのは、祈りなんかじゃない。奪われた声だ。
「返せ」
その一言と一緒に、私は中枢へ力を流し込んだ。
次の瞬間、聖印炉がひび割れた。
壁を走っていた導管が次々に砕け、拘束寝台の輪が沈黙する。地下を満たしていた祈りの唸りが、ぶつりと途切れた。
***
療院で、イリーナの喉元の紋がゆっくり薄れていく。
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いた。
エリスは手を握ったまま、じっと顔を覗き込んでいる。
「……ねつ、さがってる」
グレイが低く息を吐いた。
「収まったな」
イリーナは目を細めて、小さく笑った。
「……ひなた、さま……とめた」
エリスも泣きそうな顔で頷く。
「うん。とめた」
***
地下の揺れが止み、逃げ出した子どもたちの足音だけが通路に残った。
ミレナは最後の一人の背を押してから、その場でようやく息を吐く。
ラグナは崩れた導管を見上げ、短く言った。
「切れたな」
「ぎりぎりだったけどね」
ゆうりは壁に背を預けて笑う。疲れているのに、少しだけ得意そうだった。
倒れたままのセラフィナが、炉の残骸を見ていた。
その白い手袋は煤けている。けれど私は、もう彼女を踏みつける気にはなれなかった。
「……これで、終わりじゃない」
セラフィナが掠れた声で言う。
「そうだよ」
私は答える。
「でも、ここから先は、お前らが勝手に決める番じゃない」
地下から上がると、白い壇の上にはもう“神意”の顔は残っていなかった。
祈りの振動を失った広場で、大司教の声も、観衆の沈黙も、全部違って聞こえる。
私は塔を見上げなかった。
代わりに、逃げ延びた子どもたちを見る。
ミレナを見る。
隣で肩を上下させているゆうりとラグナを見る。
王都で、今もイリーナの手を握っているエリスのことを思う。
終わったんじゃない。
奪われていた明日を、ようやく返させた。




