第21話:イリーナの発熱
保護棟に戻っても、胸の奥の熱は全然引かなかった。
痛みは必要というセラフィナの声が、まだ耳の奥にこびりついている。
ふざけんな。
そう何度も思うのに、広場では殴れなかった。その反動みたいに、体の内側だけがずっとざらついていた。
部屋に戻っても眠れそうになくて、私はそのまま見回りをする。何かしていないと、あの女の言葉ばかり思い出してしまいそうだった。
見張りの騎士に軽く声をかけながら廊下を進み、ついでにミレナの部屋を覗く。
寝台の脇の丸椅子に、エリスが座っていた。その隣に、小さな女の子がぴたりと寄り添っている。
あの時、いちばん最初に私の方へ走ってきた子だ。
昼間より少しだけ顔色はいい。でも、まだ肩に力が入っているようだ。
「まだ起きてたんだ」
声をかけると、エリスが振り向いた。
「……ねむれなくて」
それから、隣の子の手をそっと握る。
「この子、イリーナっていうの」
私は少しだけ目を見開いた。
あの時は、名前を聞く余裕もなかった。
「イリーナ」
しゃがんで目線を合わせると、その子はびくっと肩を揺らしたあと、小さく頷いた。
「……はい」
かすれた声だった。まだ喉がうまく開いていないみたいな、頼りない音。
ミレナが寝台の端で毛布を直しながら、小さく言う。
「さっき、やっと教えてくれたんです……エリスちゃんが、ずっと一緒にいてくれて」
エリスは胸を張るには少し自信が足りない顔で、それでも言った。
「おみず、のめたの。あと、こわいゆめみないようにって……いっしょにいた」
イリーナは、エリスの袖をきゅっと掴んでいた。
少しずつだけど、懐いてきてる。それが分かって、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「そっか。二人ともえらい」
そう言って頭を撫でると、エリスははにかんだ。イリーナは撫でられる瞬間だけ目を閉じたけど、逃げなかった。
そのまま眠ってくれればよかった。
本当に、そうだったらよかったのに。
***
夜半過ぎ、耳を裂くみたいな叫びで目が覚めた。
「ひなたお姉ちゃん!」
エリスの声だった。
私は寝台から飛び起き、そのまま廊下を走る。戸を開けた瞬間、むっとする熱気が頬にぶつかった。
イリーナが寝台の上で苦しそうに身をよじっていた。頬は真っ赤で、息が浅い。喉元を押さえた指の隙間から、赤金の細い紋がじわじわと浮かび上がっている。
見たことのない印だった。さっきまでは、なかった。
「イリーナ!」
額に触れた瞬間、背筋が冷えた。熱い。普通の熱じゃない。
私はすぐに癒しを流す。
「大丈夫、大丈夫だから。痛いのどこ? 聞こえる?」
でも、熱が落ちない。
むしろ私の光に反応するみたいに、喉の下の紋が淡く脈打った。
「なんで……っ」
「ひなた、離れて」
ゆうりが低く言った。いつの間にか来ていて、もう剣を持っている。
「病気じゃない。これ、外から引っ張られてる」
「外って……連盟?」
「でなきゃこんな趣味の悪い反応しないでしょ」
ラグナが喉元を見下ろし、短く告げる。
「追跡か、呼び戻しの祈り印だな。表に出ていなかっただけで、深く埋め込まれていたらしい」
腹の底が、一気に冷えた。
「……まだ、この子たちに触ってるってこと?」
「そういうことだ」
ミレナが青ざめたまま、一歩だけ近づく。
「……見たこと、あります」
声が震えていた。
「祈りの前に、こうなる子がいて……そのあと、連れていかれて……」
エリスが泣きそうな顔でイリーナの手を握る。
「いりーな、だいじょうぶ。わたし、ここにいるよ」
その声に、イリーナの唇がかすかに動いた。
「……やだ……」
熱に浮かされた、掠れた声。
「もどるの……やだ……」
その一言で、胸の奥の何かが決まった。
広場でセラフィナに向けていた怒りとは、少し違う。今あるのは、もっと近くて、もっと嫌な感情だ。
目の前の子を、また奪われるかもしれないという恐怖。
「戻さない」
気づいたら、声に出していた。
「絶対に戻さないから」
私はもう一度、イリーナの額に手を当てた。熱を消そうとするんじゃない。暴れている痛みを、ひとつずつ撫でて鎮めるみたいに、ゆっくり光を流す。
「大丈夫。ここにいるよ。もう、言うこと聞かなくていい」
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
喉元の紋も薄くなった。けど、消えない。
完全には切れていない。それがいちばん最悪だった。
ゆうりが小さく息を吐く。
「応急処置ってとこね。時間はあんまりないかも」
ラグナも頷いた。
「保護棟の位置も、子どもたちの状態も、向こうに拾われている可能性が高い。来るぞ、早ければ夜明け前だ」
部屋がしんと静まる。
エリスはまだイリーナの手を握ったままだった。離したら、この子がまた遠くへ行くとでも思っているみたいに。
私はその横で、静かに拳を握る。
救い出しただけじゃ、終わりじゃない。
守り切るまで、終わらせない。
もし向こうがまだこの子たちを数に入れてるなら――次は、守るだけじゃ済まない。




