第14話:その子の名前はセラフィナ
保護棟の朝は、妙に静かだった。
昨夜助け出した子どもたちは、ようやく眠ったばかりだ。毛布にくるまった小さな体が並んでいて、誰も大きな寝息を立てない。眠ってるのに、まだどこか緊張してるみたいな寝方だった。
私は廊下を歩きながら、部屋の中をそっとのぞく。
エリスが椅子に座ったまま舟をこいでいた。銀髪がふらふら揺れて、今にも前に倒れそうになってる。たぶん、夜の間ずっと起きてたんだろう。毛布を抱えて、湯の番までしてたんだから。
「……あとでちゃんと寝なよ」
小さく言ってから、私は奥の部屋へ入った。
机の上には、列車から押収した書類が広げられている。ゆうりは腕を組んで紙をにらんでいて、ラグナは封印の刻印を確認していた。ミレナだけが少し離れた場所に立っていて、最初から顔色がよくなかった。
「十人分の名簿は合ってる」
ゆうりが紙束を軽く叩く。
「助けた人数とも一致。問題はこっち」
机の中央に置かれていたのは、細長い一枚だった。赤い封印が押されていて、ほかの名簿より紙質もいい。嫌な感じがした。こういうの、大事に扱われてる証拠だ。
「別枠か」
ラグナが封を切る。
「上位送致便の記録だな」
その言葉だけで、胸の奥がまた重くなった。
昨夜から、ずっとそこに引っかかってる。
一人だけいなかった。
止めた。殴った。助けた。
でも、一人だけ最初から別に運ばれてた。
ラグナの視線が書類を追う。
「移送先、連盟直轄育成棟。管理区分、特級」
「人を荷物みたいに分けるなっての」
ゆうりが吐き捨てる。
私も同じ気分だった。特級、管理区分。そんな言葉で、子ども一人を数えるな。
ラグナがさらに下を読む。
「識別名――セラフィナ」
その瞬間、かすかな音がした。
ミレナの手から、湯呑みがずれた音だった。落ちはしなかったけど、縁から湯がこぼれて、机にぽたりと落ちる。ミレナは拭こうともしない。顔が一気に白くなっていた。
「ミレナ?」
呼ぶと、彼女はびくっと肩を跳ねさせた。
「……その名、知ってるの?」
ゆうりが声を落として聞く。
ミレナはすぐには答えなかった。喉に手を当てて、小さく息を吸って、それからようやくうなずく。
「あの子は……ただの候補生じゃ、ありません」
部屋の空気がぴんと張った。
「白冠連盟が、特別に育てている子です。小さい子たちの前に立たされて……見せられるんです」
「見せるって、何を」
私が聞くと、ミレナは目を伏せた。
「こうなりなさい、って……」
その声は、震えていた。
「泣かないこと。痛いと言わないこと。命じられた通りに祈ること。叩かれても、笑ってお礼を言うこと。セラフィナ様みたいになれたら、選ばれるって……そう教えられるんです」
胃のあたりが冷えた。
思わず口に出る。
「それのどこが、聖女なの」
「向こうでは、そうなんです」
ミレナが絞り出すみたいに言う。
「耐えられる子が、美しい。従える子が、正しい。苦しいと言わない子が、器として優れているって……」
ラグナが書類の別の箇所を指先で押さえた。
「“次代の柱”という記載がある」
「柱?」
「連盟全体の象徴候補だろう。各国の聖女制度を束ねる中心、とでも言いたいらしい」
「子どもに背負わせる言葉じゃないでしょ」
ゆうりの声が硬い。
私は黙って書類を見た。
セラフィナ。
綺麗な字で書かれたその名前が、すごくむかついた。
名前だけはちゃんとあるのに、その中身は最初から道具として並べられてる。
「……助けを求めないんです」
ミレナが言う。
「あの子は、自分が苦しいとも思っていません。そうあることが正しいって、本気で信じてるんです」
私は息を止めた。
それがいちばん嫌だった。
閉じ込められてるだけなら、壊せばいい。
鎖で縛られてるだけなら、外せばいい。
でも、自分からその檻を正しいと思ってるなら、話はそこで終わらない。
部屋の隅で、小さな布ずれの音がした。
昨夜助けた子の一人が、毛布を胸まで引き上げたまま、こっちを見ていた。眠そうな目なのに、言葉だけははっきりしていた。
「……しろい、おねえさん」
ミレナの指が震える。
「うたってた。いたいのは、きれいなことだって」
私はその子のところへしゃがみこんだ。
「もう、ここでそれ言わなくていいよ」
その子はしばらく私を見て、それから小さくうなずいた。でも、うなずき方がぎこちなかった。まだ半分は、向こうの言葉が体に残ってる。
私は立ち上がる。
「面倒なのが出てきたね」
「ええ」
ゆうりが答える。
「ただ連れ出せば終わる相手じゃない」
「でも、置いとく理由にもならない」
私がそう言うと、ラグナが短くこちらを見た。
「その顔なら大丈夫だな」
「どういう顔」
「殴りたいだけの顔ではなくなった」
私は鼻で笑った。
「殴りたいのは変わらないけど」
「知ってる」
そこで、ミレナがかすかな声で言った。
「あの子を……あのままにしないでください」
私はすぐにうなずいた。
「しない」
セラフィナ。
その名を頭の中で繰り返す。
次代の柱だろうが、連盟の象徴だろうが知ったことじゃない。
ただの候補生じゃないなら、なおさら放っておけない。
「今度は、置いてかない」
私は書類の上の名前を、もう一度まっすぐ見た。
***
白い部屋だった。
壁も、床も、天井も、余計なものが何もない。あるのは薄い香の匂いと、朝の光だけだった。高い窓から落ちた光が、石床の上を細く切っている。
その中央に、少女は膝をついていた。
白い法衣は皺ひとつない。小さな背中はまっすぐで、指先まで乱れがなかった。年はひなたたちが助けた子どもと、そう変わらないはずだった。なのに、その祈る姿だけは妙に出来上がっている。誰かが何年もかけて、そういう形に削ったみたいに。
少女の手首には、うっすらと赤い痕が残っていた。
古いものと、新しいものが混じっている。痛かったはずの痕だ。けれど少女は一度もそこを気にしなかった。痛みがあること自体を、もう数に入れていないようだった。
扉の外で、神官たちの足音が止まる。
「お休みの時間です、セラフィナ様」
柔らかな声だった。子どもをいたわるような、静かな声。
少女――セラフィナは、祈りの姿勢のまま目を開ける。
「まだ、課程の途中です」
「長旅のあとです。お疲れでしょう」
「問題ありません」
答えは穏やかだった。拒むような強さも、怒りもない。ただ、そこに迷いがなかった。
「選ばれた者が疲れを理由に祈りを止めれば、下の子たちが真似をします」
扉の向こうで、神官が一瞬だけ黙る。
「……さすがです」
セラフィナは何も返さなかった。
ただ、もう一度目を閉じる。白い睫毛が静かに伏せられる。
痛みは誇り。
沈黙は美徳。
選ばれた者は耐える。
教え込まれた言葉を、セラフィナは心の中でなぞった。疑うためではない。息をするのと同じように、確かめるために。
外では、誰かが失敗した。
運ばれるはずだった子たちの一部は、途中で失われたらしい。
でも、それは揺らぐ理由にはならない。
弱い子はこぼれる。
耐えられる子が残る。
残った者が、次を導く。
それが秩序だと、セラフィナは信じていた。
細い光が、白い法衣の裾に落ちる。
祈る少女の姿は美しかった。
美しすぎて、見ている者の背中が冷えるほどに。




