第10話:殴る役、切る役、逃がす役
二日後の夜。
詰めるべきことは、日が沈む前にすべて詰め終わっていた。
あとは動くだけだった。
誰が前に出るか、誰が中へ入るか、どこまで壊して、どこを残すか。机の上ではもう決まっている。だから今さら小部屋に戻って、もう一回同じ顔で地図を囲む気はなかった。
保護棟の裏口を開けると、夜気が頬に刺さった。昼のあいだ続いていた工事の音は止んでいて、広場は骨組みのまま暗がりに沈んでいる。木材の匂いと、湿った土の匂い。明るい場所を作ってる途中の景色なのに、今はやけに静かだった。
その静けさの中で、ゆうりが荷物を確認している。
「縄、鍵外し、刻印止めの札、予備の短剣。はい、ひなた、これ」
「なにこれ」
「投げないで持っとく用のナイフ」
「私が投げる前提じゃん」
「違うの?」
私は受け取った短い刃を見て、ちょっとだけ口を尖らせた。
「で、結局どこで誰をぶん殴ればいいの?」
「そこから始めるな。確認は歩きながら」
呆れた声。だけど、昨日までみたいに止めるための声じゃない。進むための声だった。
ラグナはもう外套を羽織っていて、谷側へ抜ける裏路地の方を見ている。
「私は先に出る。旧交易路の保守坑が生きていれば、そのまま見張りの背後へ回れる」
「見張り、やっぱりいる?」
私が聞くと、ラグナは当然だという顔をした。
「移送に使う線だ。いない方がおかしい」
グレイさんが裏口の柱にもたれて腕を組む。
「こちらの門は開けておく。戻る時は北側の小門を叩け。記録も少し遅らせる。王都側の追手は、できるだけ鈍らせよう」
「助かる」
ゆうりが短く返した。
私はグレイさんを見る。
「保護棟、頼んだよ」
「言われずとも」
その一言で十分だった。あの人は、こういう時に長く言わない方が頼もしい。
ミレナは裏口のすぐ内側に立っていた。夜風に当たらないよう毛布を肩にかけているのに、顔色はまだ少し青い。けど、昼よりはちゃんと立てている。
「……乗換地点は、止まるというより、遅くなる感じです」
喉に触れながら、慎重に言葉を選ぶ。
「だから、列車の前を壊すより……護送の足を乱した方が、子どもたちには安全だと思います」
「うん。そこは守る」
私はすぐ答えた。
「車両は壊さない。中にいる子を怖がらせるだけになるし」
ミレナが少しだけほっとした顔になる。
「ありがとうございます、ひなた様」
「そこ、様いらないって」
「でも……」
「今はいいから。戻ってきた子たちの顔を見て、あとで考えて」
ミレナは小さく頷いた。
その時、後ろで布の擦れる音がした。振り向くと、エリスが大きめの毛布を両腕に抱えて立っていた。本人の体より毛布の方が大きく見える。
「ひなたお姉ちゃん……」
「起きてたの?」
「うん」
眠そうではある。でも、昨日みたいな怯え方じゃない。ちゃんと自分でここに来た顔だった。
エリスは毛布を抱えたまま、私じゃなくて、先にゆうりを見た。それからラグナ、グレイさん、最後にもう一回私を見る。
「わたしにも、できること、ある?」
胸の奥で、何かが一回だけ詰まった。
危ないことはさせたくない。ここにいてほしい。そう言いかけて、でも、それをそのまま口にすると何かを間違える気がした。
「エリスは——」
「ここで待ってろ、は駄目よ」
私より先にゆうりが言った。
「あの子を助けられるだけの側に置き続けるのも違うでしょ」
ラグナも頷く。
「守るだけでは、人は立てん」
エリスは黙ったまま、毛布をぎゅっと抱き直した。小さい指に力が入っている。
「わたし、戦えない」
「うん」
「こわいのも、なくならない」
「うん」
「でも……戻ってきた子、さむいの、やだ」
私はそこで、ようやく息を吐いた。
ああ、そっか。
逃がす役って、走らせるだけじゃないんだ。
戻ってきたあと、手を掴む人がいる。毛布をかける人がいる。水を渡す人がいる。泣いていいって言う人がいる。そこまであって、やっと救出なんだ。
私はエリスの前にしゃがんだ。
「じゃあ、お願いがある」
「……うん」
「毛布と、水と、あったかいスープ。あと、小さい子が泣いたら、一番最初に手を握ってあげて」
エリスが瞬きをする。
「わたしで、いいの?」
「エリスがいい」
私ははっきり言った。
「エリスは知ってるでしょ。怖くて、何が起きてるか分かんなくて、それでも泣くの我慢しちゃう感じ」
エリスの喉が小さく動いた。
「……うん」
「だから、その時に言ってほしい。ここでは怖がっていいって。泣いていいって」
エリスはしばらく黙っていたけど、やがて毛布を抱えたまま、こくんと頷いた。
「やる。ちゃんとやる」
「うん。頼んだ」
その横で、ゆうりが荷物を背負い直す。
「これで、殴る役、切る役、逃がす役、全部揃ったわね」
「いや、役の分け方が全体的に雑じゃない?」
「あんたが言い出したことでしょ」
「そうだった」
ラグナがもう半身を闇に向けていた。
「では、動くぞ。見張りが多ければ、合図を変える」
「合図って?」
「火を三つ。危険なら一つ。問題なければなしだ」
「なしが一番分かりにくくない?」
「見れば分かる」
「分からない時に困るんだけど」
ラグナは答えず、そのまま闇へ溶けた。ほんとにあの人、説明が足りない。
ゆうりが呆れた顔で肩をすくめる。
「ほら、行くわよ。あんたが遅いと、前衛いなくなる」
「前衛って言い方だと、ただの脳筋みたいじゃん」
「違うの?」
「違う。ぶん殴る聖女だよ」
「余計ひどくなってない?」
グレイさんが鼻で少し笑った気がした。
私たちは裏口を出て、王都の外れへ向かった。夜の道は冷たくて、靴の裏に砂利が小さく鳴る。道中の会話は少なかった。必要なことだけ短く交わして、あとは歩く。昼に比べると街は別の場所みたいで、工事途中の広場も、仮棟も、全部が息を潜めていた。
途中、北側の外門でグレイさんが止まる。
「私はここまでだ」
「うん」
「戻る場所は守る」
それだけ言って、踵を返した。重い足音が門の影に消えていく。
私は前を見たまま、拳を軽く握った。戻る場所がある。それだけで、足が少し軽くなる。
門を抜けた先で、ゆうりが声を落とす。
「ここからは喋るなとは言わない。でも無駄口は減らして」
「はいはい」
「返事も小さく」
「……はい」
小声にしたら、ちょっとだけ真面目に見える気がした。
しばらく進むと、遠くの斜面の上に小さな火が二つだけ揺れた。谷側だ。ラグナの位置だろう。
私は足を止める。
「二つ?」
「見張りはいる。でも通れる、ってとこね」
ゆうりが周囲を見回しながら言う。
「ここからあたしは車両側へ回る。ひなたは合図が出たら前。早すぎても駄目、遅すぎても駄目」
「難しいこと言うなあ」
「毎回それで殴って解決してきたツケでしょ」
「いや、だいたい解決してるじゃん」
「今回は中に子どもがいるの。そこ、忘れたら許さない」
私は頷く。
「忘れないよ」
今度は、ゆうりも何も言わなかった。
たぶん、ちゃんと伝わったんだと思う。
背後では、王都の灯りがもうだいぶ遠い。あっちでは今ごろ、エリスが毛布を並べてるのかもしれない。水を運んで、器を並べて、戻ってくる子たちのための場所を作ってる。
前では、ラグナが見張りを測ってる。
横では、ゆうりが刃物と札を確かめてる。
そして私は、前に出る。
誰が何を守るかは、もう決まっていた。
夜の風が線路の方から流れてくる。
その冷たい風の向こうで、かすかに鉄の鳴る音がした。




