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涙と蝶  作者:
8章 Dezember 藍の街
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 プラウゼンには、人と異なる存在がいる。

 噂が広がるのには、さほど時間を要しなかった。


 ミュンヒ騎士団を吸収し新生ライゼガング騎士団と名称を変えたノルベルト・レーニッシュ率いる一大勢力は、皮肉にもエルケが藍の街パウルゼンで行動を起こしたとほぼ同時期に、ヨープの宮殿から突如姿を消したヨープ選帝侯ブラル大司教の庶子クラウスを騎士団総長に据え、白の都市ヨープへ向けて行動を開始した。

 政治に事細かく口を出していたヨープに残るほぼ半数近くの教会関係者も、同胞ともいうべき騎士団が次々と起こした行動に口を噤み、巻き込まれる前に我先にと教会の扉を閉じる。

 修道院、孤児院は彼らの管轄であったがこの時期を境に教会との連結は途絶え、白の都市ヨープ付近の村や都市からその不安の連鎖は広がっていった。

 まず保護されていた孤児院からは身寄りのない子供たちが排出された。

 過去、ヨープの女領主であったグレーテ・エンマ・クラウゼヴィッツが確立したシステムは、宗教都市ヨープを中心として総ての福祉を動かす仕組みだった。つまり総ては騎士団の得た金銭と寄付によって補われていたに過ぎない。

 今や資金源を断たれた各孤児院・修道院に個人運営する余力はなかった。

 所領の弱体化によってこの時期を待たずともその繋がりはいつか破綻したに違いない。しかし冬という過酷な季節というのもあり対策が急務となった。

 ライゼガング騎士団は宗教騎士団という本質を覆さず、狙ったかのように追い出されたその身寄りのない子供たちや修道士たちの保護を優先し、迅速だった進軍をヨープの手前で止めたのだ。


 一方、内部に煮え滾る内紛の火花を抱こうともマルプルク公国がヨープ選帝侯領分裂の好機を逃すはずもない。

 雪解けの進む春まで動かないとみていたマルプルク公国が動きを見せたのは、エルケが助力を乞うたパウルゼン騎士団が、ライゼガング騎士団の進軍とは時少し遅くしてヨープ選帝侯ブラル大司教第二子クルトを擁立し団旗を掲げた僅か数日後のことだ。

 雪降りしきるヨープ選定候領プラウゼンとヨープの丁度中間に位置する小さな村に進軍して来た軍を迎え撃つのが、のちに『ゼークトの人魚姫』と呼ばれるエルケの初陣となった。

 ただし、因縁の地ゼークトを間近に置きマルプルク公国との戦の只中にもかかわらず、その藍の紋章を掲げた馬首は遠く離れたヨープを睥睨している。

 白の都市を挟みパウルゼン騎士団とライゼガング騎士団は共に父親に剣を向けるために本意ではなくとも睨み合う形となった。

 ヨープにいる正式な嫡子である長男エッカルトは、元々が父親に似ず繊細でかなりの生真面目な性格であることも災いして、心労で宮殿の奥に閉じこもり早々に権力争いから姿を消す。

 軍を取り仕切る全ての羽を奇しくも嫡子ではない子供たちにそれぞれもぎ取られた領主は、ヨープの門を閉じヨープを自らの鳥籠として閉じこもるしか残された術はなかったのだ。

 実質その時に、ブラル大司教の治めるヨープ選帝侯領は終わりを告げた。

 


 その色は、価値ある石を求めて争う炎の色とも、残酷にも同族を斬殺し石を呼んだ海の色とも呼ばれている。

 ベルンシュタインの色は赤だけではなく、心休まる緑も眩しい金色にも似た黄色も夕暮れの空にも似た橙もあるというのに、エルケの髪は過去の罪を体現しているかのように赤い。

 何度、ヤンに苦言を呈されようともエルケはその目立ちすぎる髪の毛を隠そうとはしなかった。

 緋色の髪の毛に男のものとはさほど遜色のない鎧をつけ漆黒の軍旗を持つ姿は、敵にも味方にも見つけられやすい。

 神が描いた白い絨毯の上はすでに赤と黒で蹂躙され、馬と人の足跡で埋め尽くされている。

 雪に残る残酷で凄惨な戦の跡。

 その先はどこまでも赤く決して天の灰色とは交わることがない。

 戦は、終演を迎えようとしているせいかエルケの周りには騎士団の数名しか気配がなく、残りは戦いの先端に集結しているようだった。遠くからでも歓声にも似た戦の声と剣戟が聞こえる。

 鬨の声を聴いてからそんなに時間がたったようには思えない。

 戦とは相反的に清く澄み渡るこの射し込む空気が深呼吸するたびに胸に入り込んでくる。何度も小さな戦をする度に心が凍り付いていく気がしていた。最初こそ息を飲んだこの染まった雪にも今は何の感銘も受けはしない。

 男性が持つものとは違いいささか小振りに作られた中剣を手に、血に濡れたアンゲリカの馬首を戦場に向けたエルケは、後ろを振り返ることなく口を開いた。

 アンゲリカではない馬首が近寄ってくるのを察したからだ。

「クルト、僕は守られるのを好かないよ」

「そんな『なり』してよく言うよ。雪だるまにでもなりたいんなら別だけど」

「さっきのはちょっと寒さで手が強張っていた所為だから」

「あはは。随分と強気な言い訳だね」

「…………放っておいてよ」

 切りつけられた勢いを殺せずそのまま足元に転がってくる馬体を、エルケはもつれる雪の中に刺さったアンゲリカの片足をわずかに動かすだけで避けた。

 強い風にあおられる長い髪の毛をエルケはうっとうしげに睨み付ける。次こそは無様な真似をしないようにと手を離さないように手綱を強く握りしめた。

 今現在は雪こそ降ってはいない。

 とはいえ。昨夜まで降っていたせいで冷たく突き刺さる空気にはまだほのかにまだ積もりたての軽やかな雪が混じっているのだろう。風が吹くたびに冷え切った細かい雪が舞い上がっていく。

 慣れない雪道での進軍で疲れていたのか、それともほんの少し気が抜けたのか。エルケは本陣の中で新雪で足を取られ揺らいだアンゲリカの背から転がり落ちた。

 帷子に包まれた肩は情けないことに動かすたび痛みを主張してくる。

 寒さを防ぐためにとまとった漆黒の軍衣には雪原に転がった時の跡が解けることなくついたままだった。雪でなく、すでに氷となってしまったのだ。ならばもう気にしても今更だろう。

 エルケは灰色の薄汚い天を仰いだ。

 ―――――――――雲が、低く厚い。

「そろそろ雪が降ってくる。多分、今日の戦はここまでだ」

「それも人魚の意思かい?」

「……ただの『人の知恵』だよ」

 人魚であるエルケへ、嘆きで石を呼び出すこと以外に望まれているのは人知の及ばない存在であることだ。

 天候までそう簡単に左右しては畏怖される存在になりかねない。人魚の力は人の世に交わりにくい。

「僕にはそんな力なんてない。せいぜいこの身を削って人にわずかな奇跡を届けるくらいだよ」

「……随分と今日の人魚姫は自虐的だね」

 吐き捨てると、クルトが眉をひそめる。とはいえ、彼もまた兜をかぶっているので眉をひそめたと感じたのは単なる気配だ。

 抜いたままだった剣を血をぬぐうことなく腰に戻すと、遠くから漆黒の塊となってヤンが戻ってきた。

 常に先陣を務めるヤンが戻ってくるということはエルケの予想通りにマルプルクの軍は撤退を開始したらしい。

(まるで雪原を走る死神だ)

 軍衣を羽織る誰もが漆黒の装いとはいえ、ヤンのそれは特に物騒だ。

 色のおかげで目立たないものの、恐らく風に翻る軍衣は相当な血を吸っているに違いない。

 人魚じゃなくとも肌を刺す空気でわかる。今日の夜は冷えるだろう。

 寒さに慣れた騎士団にももしかすると死人が出るかもしれなかった。野営の準備を急がなくてはいけない。

 ルッツの背から飛び降りたヤンの軍靴が外気に冷やされた雪原を踏み、さくりと小気味よい音を立てた。

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