第7話 魔王の娘、野営をする
灰狼の森を抜けた頃には、すでに日が沈みかけていた。
森の外に広がる草原は、夕日に照らされて赤く染まっている。
ルナリスはじっと草原を見つめる。昼間の状態ならば、綺麗だと思えただろう。
だが今の彼女には、そんな余裕はなかった。
「……まさか今日、野宿をするの?」
馬車の窓から外を見ながら、ルナリスは嫌そうに呟いた。
「野宿ではありません。野営です」
馬車の外を歩くソフィアが、即座に訂正する。
「同じでしょうが」
「違います。野宿は無計画に外で眠ること。野営は安全確保、食料管理、見張り、退路の確認まで含めた計画的な宿泊行為です」
「長々と説明されたけど、外で寝るのは変わらないわよね?」
「そこは変わりません。外で寝ます」
ソフィアはあっさり認めた。
「橋が崩れていた影響で、予定より大きく時間を使いました。次の宿場町まで進むのはリスクが多いです。今日はここで休み、明朝に出発します」
「私、魔王の娘よ?」
「はい」
「和平の証よ?」
「心得ています」
「そんな相手を、草原で寝かせるの?」
「ご安心を。そこは安全な場所を選んで寝かせますので」
「もっと申し訳なさそうに言いなさいよ!」
馬車が止まる。
護衛騎士たちは手際よく周囲の確認を始め、馬を繋ぎ、荷物を降ろしていく。
ソフィアも馬車から少し離れた場所へ向かい、地面を観察していた。
「何をしているの?」
ルナリスが尋ねる。
「地面の状態を確認しています」
「見れば分かるわ。地面の、何を確認しているのかを聞いてるのよ」
「魔物の足跡、毒草の有無、穴、地盤の緩み、風向き、退路、敵が近づきやすい方向です」
「一夜過ごすだけなのに、そんなこと確認するの?」
「そうです。……ふむ」
すると、ソフィアは腕を組み、何かを考え込んだ様子を見せた。
「これは例え話ですが、ルナリス様が寝室で休む時、周りを気にしますか?」
「しないわね。だって施錠しているもの。窓も特別製を使っているから、安心して眠れるわね」
「この行為はその安心材料を作っているのと同義です。万が一にも敵の強襲がないように、潰せる可能性を潰しているのです」
不覚にも、ルナリスはソフィアの説明を聞き、一発で重要性を理解した。
それが何だか悔しかった。
「……野営って、思ったより面倒なのね」
「えぇ。安心して眠るということは一苦労なのです」
「急に重いこと言わないで」
ソフィアは何もなかったように立ち上がる。
「問題ありません。この場所で野営します」
「その『問題ありません』、今日だけで何回聞いたかしら」
「十六回目です」
「数えてるの!?」
「記憶しています」
「怖いわよ!」
◆ ◆ ◆
日が完全に沈む頃には、草原の中央に小さな野営地が出来上がっていた。
焚火。馬車。護衛騎士たちの天幕。
そして、少し離れた場所に用意された一つの大きな天幕。
ルナリスはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「これが私の寝る場所? 最悪、馬車でも良いかなと思ってたんだけど」
「はい。なんなら馬車より安全です」
「馬車より?」
「馬車は目立ちます。襲撃者が来た場合、最初に狙われる可能性が高いです」
「あの天幕で眠らせてもらうわね」
その絵面が容易に想像できただけに、ルナリスはそれ以上、ソフィアに意見を言わなかった。
「ルナリス様の天幕の周囲には、護衛騎士を二人ずつ配置します。私もすぐ近くで見張ります。つまり、安眠をお約束します」
「……あんたも?」
「はい」
「眠らないの?」
「眠れますが……」
「じゃあ寝なさいよ」
「護衛が眠るのはあり得ません」
ソフィアは当然のように答えた。
「それに、ルナリス様は人間領での野営が初めてでしょう」
「……それは、そうだけど」
「不安であれば、呼んでください」
ルナリスは一瞬だけ言葉に詰まった。
言い方は相変わらず硬い。
優しい声でもない。
けれど、これはたぶんソフィアなりの気遣いなのだろう。
「別に、不安じゃないわよ」
「そうですか」
「でも……呼んだら来なさいよ。ちょっと寂しくなるかもしれないから」
「当然です」
ソフィアは即答した。
その即答が、ルナリスは少しだけ嬉しかった。
◆ ◆ ◆
「で、これは何?」
焚火の前。夕食の時間である。
ルナリスは木の器に入った謎の液体を見つめていた。
白っぽい。湯気が出ている。そして、妙に嗅ぎなれた甘い匂いがする。
「兵站用のミルク粥です」
ソフィアが答える。
「……お粥?」
「乾燥乳、穀物、蜂蜜、あと少しだけ白葡萄酒を混ぜています。胃にも優しく、野営中でも栄養が取れます」
「なんで私の分だけ、そんな甘いものなの?」
「焼き菓子を食べる速度から、甘味を好むと推測しました」
「観察してたの!?」
「護衛対象の嗜好は、把握するべき情報です。その情報は、今後の貴方の士気にも大きく関わってくると判断しました」
「別に、甘いものが好きってわけじゃ」
言いかけて、ルナリスは器の中を覗き込んだ。
甘い香り。温かい湯気。
今日は馬車酔いもあった。
空腹だった。
「……食べてあげなくもないわ」
「どうぞ」
ルナリスは匙を口へ運ぶ。
とろりとした優しい甘さ。
蜂蜜の香り。
焼き菓子とは違う、温かい甘味。
「……」
ソフィアがじっと見ている。
「どうですか」
「別に」
「またですか」
「別にって言ってるでしょう」
「では、口に合わなかったということで」
「違うわよ!」
ルナリスは慌ててもう一口食べる。
「……悪くないわよ。美味しい」
「それは良かったです」
「ただし、焼き菓子の方が上ね」
「比較対象があるのは良いことです。次回の物資申請に反映します」
「本当に菓子とご飯を物資として考えてるのね」
「食事は重要です。戦場ではそれがあるのかないのかでは、戦意に直結します」
「それはその通りだけど!」
ルナリスは少し笑った。
焚火の向こうで、ソフィアもまた兵站食を食べている。しかし、明らかに長方形の食べ物だ。
味は薄い。固そうだ。明らかに自分のものより美味しくなさそうだった。
「もしかしてあんた、自分の分はそれだけ?」
「はい」
「美味しいの?」
「栄養があります」
「質問に答えてないわよ」
「美味しいかどうかは、任務に関係ありません。適切な栄養を補給できるかが重要です」
「あぁもう! 私はそういうことを言ってんじゃないのよ!」
ルナリスは自分の器を少し持ち上げる。
「ほら! 半分あげる」
「ルナリス様の食事です」
「私があげるって言ってるの。嫌なの?」
ソフィアは少しだけ迷った。
「……いただきます」
ルナリスは匙を差し出す。
ソフィアはそれを受け取り、ミルク粥を一口食べた。
「どう?」
「甘いです」
「それだけ?」
「……美味しいです」
ルナリスの赤い瞳が、少しだけ丸くなる。
ソフィアは本当に、少しだけ笑っていた。
それは微かなものだった。
けれど、確かに笑顔だった。
「あんた、笑えるのね」
「笑っていますか?」
「今、少し笑ったわよ」
「自覚はありません」
「もったいないわね。笑うと結構良かったのに」
ソフィアは一瞬、動きを止めた。
「……そうですか」
それだけ言って、また匙を動かした。
だが、少しだけ耳が赤いように見えた。
◆ ◆ ◆
夕食の後。
ソフィアは灰狼の首輪の破片を、焚火の光へかざしていた。
「ルナリス様」
「何よ」
「この首輪を見てください」
ルナリスは近寄る。
黒い金属片。
砕けた黒石。
人間が作った、魔物を操るための魔具。
だが改めて見ると、首輪の内側には小さな術式が刻まれていた。
「……これ」
「分かりますか? 生憎、この手の術式は勉強不足で」
「もちろん分かるわよ、これ制御用の術式じゃない」
ルナリスの赤い瞳が、術式を見つめる。
「これは、信号を送るためのものよ」
「信号?」
「首輪が壊れた時、持ち主へ知らせる術式。操られていた灰狼が解放された瞬間に、誰かへ魔力の反応が送られたはず」
「つまり」
「私たちが灰狼を助けたことも、首輪を壊したことも、向こうはもう知ってる」
焚火が、ぱちりと音を立てた。
ソフィアの目から、静かに熱が引いた。
「敵は、こちらの位置も把握している可能性がありますね」
「高いわ。大体、大まかにでも位置を知らせる術式がセットになっているはずだから」
「分かりました」
ソフィアは立ち上がった。
「護衛騎士の皆さん。夜間警戒を倍にしてください。火は一つ残し、他は消します。馬の周囲には結界具を最警戒段階で配置。申し訳ないですが、急ぎ対応をお願いします」
「了解!」
護衛騎士たちが動き出す。
ルナリスは首輪の破片を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「ねえ、ソフィア」
「何ですか」
「橋が崩れていた。灰狼には人間製の首輪が付いていた。ここまで全部、偶然だと思う?」
「一つだけなら偶然だと思います。しかし、状況は私達にとって悪いです。偶然ではなく、意図的を疑うべきかと」
「……なら、誰かが私たちを灰狼の森へ追い込んだのかもしれない」
「可能性は高いです」
「怖くないの?」
ルナリスの声は、少しだけ小さかった。
ソフィアは迷わず答える。
「怖いです」
「え?」
「敵がどこにいるか分からないことは、怖いです。護衛対象が傷つく可能性もあります。最悪、死なせる可能性も」
ソフィアは剣の柄に手を置く。
「私は怖い。だからこそ警戒します。警戒すれば、生存率を上げられます。あらゆる状況に対応できます」
「また生存率」
「大切ですので。特に貴方の生存率は」
ルナリスは、少しだけ笑った。
「……ほんと、あんたらしいわね」
その時だった。
草原の向こう。
灰狼の森の入口付近で、赤い光が一つ灯った。
それは一瞬だけ。
だが、ルナリスは見逃さなかった。
「あれ……」
ソフィアも同時に振り向く。
「人間の術式です」
赤い光は、ゆっくりと消えていく。
誰かがいる。
こちらを見ている。
ソフィアは剣を抜いた。
「ルナリス様。天幕へ」
「嫌よ」
「お願いです」
「私も見たわ。あれは首輪と同じ術式だった。私がいた方が役に立つ」
ソフィアは一瞬、黙った。
そして。
「……私の近くから離れないでください」
「最初からそのつもりよ」
ルナリスは外套を握りしめる。
草原の向こうで消えた赤い光は、まるで次の戦いを告げる合図のようだった。
魔族嫌いの聖騎士と、人間嫌いの魔王の娘。
二人の旅は、まだ始まったばかりだった。




