第6話 灰狼の森
灰狼の森。
その名を聞いた時、ルナリス・ヴェルグリムは嫌な予感しかしなかった。
そして実際に森の入口へ到着した今、その予感が正しかったことを確信していた。
「暗いわね。日光が遮られているわね」
昼間だというのに、森の中は薄暗い。そしてジメジメとしている。
空へ向かって伸びた木々が、日差しをほとんど遮っているからだ。
枝と枝が絡まり合い、木漏れ日は細い線のようにしか地面へ届かない。
風が吹くたび、葉の擦れる音が森の奥から聞こえてくる。
それはまるで、狼の唸り声にも聞こえる……。
「魔物が好む環境ですね。ルナリス様、ここからは十分に気を付けてください」
ソフィアは馬車の横に立ち、森の奥をじっと見つめていた。
その表情は、先ほどまで恋愛小説へ真面目すぎる考察をしていた時の表情とはまるで違った。
彼女の碧い瞳からは冷たいモノがにじみ出ていた。
「護衛騎士の皆さん。馬車の周囲を固めてください。馬を最優先に守ります。最悪の状況は、馬が暴れ、移動手段も荷物も失うことです」
「了解!」
護衛騎士たちが即座に動く。
森へ入る前から、空気が張り詰めていた。
ルナリスは馬車の窓から身を乗り出す。
「あのさ、ソフィア。灰狼って何なの?」
「魔物です。狼に似た姿をしていますが、通常の狼より大きく、魔力を持ちます。群れで行動し、特に馬を狙います」
「馬を?」
「はい。馬は奴らの好物です」
「なら、私もついでパクー! ってのもあり得るの?」
ルナリスは冗談がてら聞いてみたが、ソフィアは至極真面目に返した。
「可能性は非常に高いです。ルナリス様のような純度の高い魔力は、馬の次に大好物ですから」
「……馬に負けているのは、何だか納得がいかないわね」
「何を言っているんですか。馬で満足すれば奴らは引き上げます。最悪、私達が全滅しても、ルナリス様の生存確率が少し高くなるのですよ」
「はぁ……前向きに受け取って良いのかどうか、悩ましいわね」
警戒を崩さないまま、ソフィアは律儀にルナリスとの会話を続ける。
「安心してください。奴らとの戦いは心得ています。灰狼は獲物を見つけると、数匹が正面から姿を見せます。その間に残りが横や後ろへ回り込み、逃げ場を潰します」
「な、何も安心できない……」
ソフィアは少しだけ首を傾げた。
「そうですか? 知識は生存率に直結しますよ」
「生存率の話だけは好きよね、あんた」
「大切ですので」
森の中へ、馬車がゆっくりと入っていく。
木々の間を進むたび、車輪が枝を踏み、乾いた音を立てる。
さっきまで鳴いていた鳥の声は、いつの間にか消えていた。
静かすぎる。
ルナリスは胸元の外套を少しだけ掴んだ。
「……何か、いるわね」
「良い勘をしていますね、ルナリス様」
ソフィアが答えた。
「既に囲まれています」
「はぁ!? 早く言いなさいよ!?」
「手際が良い、ということで」
次の瞬間。
草むらの奥で、低いうなり声が響いた。
ぐるるるるる、と。
森の闇の中から、二つの黄色い目が浮かび上がる。さらに一つ、二つ。
現れた灰狼たちは、通常の狼より一回りも二回りも大きかった。
灰色の毛並み。鋭い牙。地面を引っ掻く太い爪。
その数は、正面だけで五匹。
「……あんたの言ったとおりね。ほんとに多いわ」
「少ないですよ。正面に見えている数だけをカウントするのならば、ですが」
「え?」
「後方に四。右に三匹。左に二匹」
ソフィアは淡々と告げた。
「合計十四匹。おそらく、あと数匹は離れた場所で待機しています」
「ほんとに多いわね!? というか、何で数えられるのよ!」
「鳴き声と足音です。それに奴らは頭は良いですが、殺気までは隠しきれない。索敵も楽というものです」
「人間やめてない?」
「聖騎士です」
「聖騎士って化け物の代名詞だったのね」
灰狼の一匹が、馬車へ向かって跳びかかった。
「来ます!」
護衛騎士の一人が剣を抜く。
だが、その剣が振るわれる前に。
白銀の閃光が走った。
「一匹目」
灰狼の身体が横へ吹き飛ぶ。
地面に転がった灰狼は、苦しそうに身を丸めながらも、まだ息があった。
「ルナリス様には指一本触れさせません」
ソフィアは剣を構え、灰狼の群れへ向かって歩き出す。
「ソフィア!」
「馬車から出ないでください」
「言われなくても出ないわよ!」
「そうだ、恋愛小説を読んでいてください。恐らく一冊読む間には片を付けられます」
「こんな状況で読めるかぁ!」
灰狼たちが一斉に唸る。
だが、ソフィアは止まらない。
「護衛騎士は馬車を守ってください。灰狼は私が処理します」
「そ、ソフィア殿。一人でですか!?」
「十四匹程度なら問題ありません」
「問題あるでしょう! 数字の感覚が壊れてるわよ!」
ソフィアは地面を蹴った。
次の瞬間、彼女の姿が木々の影へ消える。
――銀閃光のソフィア。
その異名の通り、森の暗闇に白い光が走った。
灰狼の悲鳴。
木が揺れる音。
何かが地面へ叩きつけられる鈍い音。
ソフィアは容赦がなかった。
狼の爪を剣で弾き、首元へ柄を叩き込み、別の一匹の足を払う。
跳びかかってきた灰狼を肩で受け止め、そのまま地面へ投げ捨てる。
銀閃光という華麗な名とは裏腹に、ひどく泥臭い戦いを行う。
これこそがソフィア・ストレイルの戦闘だ。
「三匹目」
「四匹目」
「五匹目」
「数えなくていいから!」
ルナリスは思わず叫んだ。
「討ち漏らしがないかの確認です。ご理解のほどを」
次の瞬間だった。
「……待って」
ルナリスの赤い瞳が、一匹の灰狼を捉える。
他の灰狼とは、明らかに様子が違う。
目が赤い。いや、様子が違うのは、目だけではない。
首元の毛の下に、黒い金属の輪が見えた。
「あれ……魔具?」
ルナリスは窓を開け、目を凝らす。
灰狼の首には、細い首輪のようなものが嵌められていた。
そこから黒い霧のような魔力が漏れ、狼の身体へ流れ込んでいる。
魔王の娘たるルナリスの『眼』は、魔力の流れを正確に読み取ることが出来る。
そんな彼女の眼が、違和感を訴えていた。
「ソフィア! あの一番大きい狼、殺さないで!」
森の奥で、ソフィアが一瞬だけ動きを止めた。
「理由を」
「首に魔具がある! あれで無理やり狂わされているのよ!」
ソフィアの目が、灰狼の首元へ向けられる。
確かに、黒い首輪を見つけられた。
そしてそこから発せられる魔力は、魔物由来のものではなかった。
ソフィアの決断は早かった。
「理解しました」
今、ルナリスは自分がすぐに認識できなかったものを認識出来た。
そんな彼女の言葉を、ソフィアは信頼することにした。
「……分かったの?」
「えぇ、首輪を壊せばいいのですね」
「そうよ。でも狼を傷つけないで! 首輪だけを――」
灰狼の巨体が、ソフィアへ飛びかかる。
死をもたらす爪牙が迫る。
ソフィアは一歩だけ踏み込んだ。
「申し訳ありません。傷つけるな、という要望は無理です」
ソフィアは狼の前足を掴んだ。そのまま、巨体を半回転させる。
「――――ッッ!?」
灰狼は地面へ叩きつけられた。灰狼の酸素が吐き出される音が聞こえる。そして、土煙が上がった。
ソフィアは狼の背へ跨がり、暴れる頭を片腕で押さえつけた。
「ルナリス様!」
「何よ!」
「魔具を壊す方法は!」
「魔力の流れを止めればいいの! 首輪の中央にある黒い石へ、浄化系の魔法を当てて!」
「大変言いづらいのですが、私は浄化魔法が使えません!」
「はぁ!? あんた聖騎士なのに!?」
「私は斬る専門です。魔法はほとんど使えないと認識していただければ!」
「偏りすぎでしょうが!」
灰狼が再び暴れる。
ソフィアの腕が僅かに押し返される。だが、彼女は離さない。
「ルナリス様、協力を依頼します。貴方がこの首輪を破壊してください」
「私が!?」
「魔具に詳しいのでしょう?」
「知識があるのと、実際に使えるのは別でしょうが!」
「ですが、可能性はあります。やって失敗するのと、やらないで終わるのとでは、まるで結果が違います!」
「無茶を言わないで!」
「ルナリス様」
ソフィアの声が、少しだけ低くなる。
「この狼は、助けたいのでしょう?」
ルナリスは黙った。
狼は暴れている。牙を剥き、唸り、今にもソフィアへ噛みつこうとしている。
けれど、その赤い目の奥には――。
ほんの少しだけ、苦しそうな色があった。
「……あんた」
「はい」
「十秒だけ、押さえていて」
「――了解」
ルナリスは馬車の扉を開けた。
「ルナリス様!?」
護衛騎士たちの声が飛ぶ。
「近づかないで! 私はソフィアの所に行くの!」
ルナリスは外套を翻し、灰狼へ向かって走った。
怖くない、なんて嘘になる。足は少し震えている。
でも――。
自分が出来ることを、目の前のソフィアが信じた。
ならば、逃げるわけにはいかない。
灰狼の首輪へ手をかざす。
「――『月影よ、静かに沈め』」
赤い魔力が、ルナリスの掌から溢れた。
黒い首輪へ流れ込む。黒と赤の魔力がぶつかり、火花が散る。
「うっ……!」
首輪の魔力は強い。ルナリスの腕が震える。
だが、ソフィアが狼を押さえている。
「まだですか!」
「うるさい! 今やってる!」
「あと六秒です」
「何で数えるのよ!」
「十秒と言ったのはルナリス様です」
「律儀すぎるのよ!」
ルナリスは歯を食いしばる。
「壊れなさい!」
ぱきん、と。
黒い石に亀裂が入った。
首輪が砕ける。
同時に、灰狼の目から赤い光が消えた。
「……っ」
巨体が、ぐったりと地面へ沈む。
森に静寂が戻った。
ソフィアは狼の上から降り、首輪の破片を拾い上げた。
「ルナリス様、これを」
破片をまじまじと見るルナリス。すぐに彼女はソフィアの言わんとしていることを理解した。
「魔族の魔具じゃない……これ、人間が作った物ね」
「はい。しかも粗悪品ですね。魔物を操るためだけに作られています」
ルナリスは荒い息を整えながら、灰狼を見る。
狼はまだ生きている。
赤い目は、もう戻っていた。
灰狼はゆっくりと起き上がる。
ソフィアへ牙を剥くかと思った。
だが狼は、ルナリスを見た。
そして。
小さく一度だけ、頭を下げるように首を下げた。
その無言の所作の意味を、ルナリスは確かに受け取っていた。
「……どういたしまして」
ルナリスは、小さく呟いた。
灰狼は森の奥へ消えていく。
恐らくあの灰狼はリーダーだったのだろう。残っていた灰狼たちも、それに続いていった。
ソフィアはルナリスを見る。
「怪我は」
「ないわ」
「無茶をしましたね」
「……あんたに言われたくないわよ」
「私は専門家です」
「なら、私は魔王の娘よ」
「専門家ではありません。斬られれば死にます」
「分かってるわよ! 少しくらいはノリなさいよ!」
「ですが」
ソフィアは少しだけ間を置いた。
「助かりました。ありがとうございました、ルナリス様」
ルナリスは目を見開いた。
ソフィアが。
この女が。
自分へ、真っ直ぐ礼を言った。
「……ふん。あんたが十秒押さえられたからよ」
「殺さずに十秒押さえられたのは良い経験でした。この経験はどこかの魔族戦に生かします」
「最後の一言が、ほんっと余計ね!」
森の中に、ルナリスの声が響いた。
こうして一行は、灰狼の森を進む。
人間と魔族。
聖騎士と魔王の娘。
仲良くできるわけがない。
それでも今日。
二人は初めて、同じ敵を助けるために力を合わせた。




