第5話 人類最強の聖騎士、恋愛小説を読む
馬車はゆっくりと街道を進んでいく。
先ほどまで、ルナリスはソフィアの手を握っていた。
だが、馬車酔いも落ち着いた。いつまでもそのまま、というわけにもいかなかった。
「……あの、さっきから言ってると思うんだけど、もう良いわよ。いつまで握っているつもり?」
ルナリスが小さく尋ねる。
「ルナリス様が安全に移動できるまでです」
「大丈夫よ、あんたと話してたら、酔いも感じなくなってきたし」
「では、手を離しても大丈夫ですか?」
「えぇ」
ソフィアはすぐに手を離した。
「あ」
あまりにもあっさり離されたので、ルナリスは一瞬だけ自分の手を見た。
……ほんの少しだけ寂しいなどと思ったわけではない。
絶対に。あり得ない。そう、絶対に。
「どうしましたか?」
「っ! な、何でもないわよ」
ルナリスは誤魔化すように、隣に置いていた荷物を漁った。
黒い革鞄。
魔王領から持ってきた、数少ない私物の一つである。
その中から、一冊の本を取り出した。
「本ですか」
ソフィアがすぐに反応する。
「そうよ。気分転換に読書でもしようかと」
「もしや先ほどルナリス様が言っていた恋愛小説ですか?」
「そうよ、その恋愛小説よ」
ソフィアが珍しく、少しだけ目を見開いた。
ルナリスは口元を吊り上げる。
さすがの人類最強も、初めての恋愛小説には驚くのだろう。
「何だか意外な反応ね。もう少し冷静かと思っていたわよ」
「私もそう思います。全く触れたことのないジャンルは少しソワソワしますね」
「まぁ、そうでしょうね」
ルナリスは本を開いた。
題名は『月下の騎士は薔薇色の姫をさらっていく』。
魔王領でも人気の恋愛小説であり、ルナリスはすでに三度読んでいる。
人間領へ来る前、暇潰し用として鞄へ入れておいたものだ。
「大体あんた、恋愛小説って何か分かるわよね?」
「当然です。恋愛小説とは、男女が愛し合う物語です」
「そうよ」
「……ですが、愛し合うとは、具体的に何をするのですか?」
「そこから説明しなきゃいけないの!?」
ルナリスは思わず本を閉じた。
ソフィアは本気で聞いている。
碧い瞳には、知識への純粋な探究心しかない。
「……恋愛は、その、好きな人と一緒にいたいと思ったりとか、相手のことを大事にしたいと思ったりとか、とにかくそういうものよ」
「つまり護衛任務、ということですか。その小説は護衛任務のことが書かれているのですか?」
「全然違うわよ!」
「重要な相手と四六時中離れたくない、守りたい。……どう考えても護衛をする者の心構えにしか聞こえませんが」
「そこだけ聞けば少し近いかもしれないけど!」
ソフィアは少し考え込む。
「難しいですね、恋愛小説。読み解くには高度な知識が求められるのですね」
「恋愛を何だと思ってるのよ!」
「相手を守るための長期的な護衛契約かと」
「ほんと情緒が死んでるわね、あんた!」
ルナリスは深いため息を吐いた。
はっきりと違うと言いきれないのがもっと厄介だ。
(……こいつ、恋愛小説とか読んでロマンティックな気分になるのかしら?)
だが、少しだけ面白くなってきた。
この女が恋愛小説を読んだら、どうなるのか。
見てみたい。
いや、見てはいけない気もする。
でも、見てみたい。
「……読みたい?」
「よろしいのですか?」
「少しだけよ。絶対に本を傷つけないで」
「本を傷つける理由がありません」
「あんたの場合、内容に腹を立てて斬りそうなのよ。まぁ良いわ、はいこれ」
ルナリスは本を差し出した。
ソフィアは両手で丁寧に受け取る。
まるで重要な軍略書を受け取ったかのような真剣な顔だ。
「では、読ませていただきます」
しばらく、馬車の中に紙をめくる音だけが響いた。
ルナリスはちらりとソフィアを見る。
真剣だった。
あまりにも真剣だった。
眉間に皺を寄せ、文章を一行ずつ確認し、時折、小さく頷いている。
(……そういえば、誰かに自分の好きな本を読んでもらったことなかったな)
ルナリスは姫だ。その立場故、魔族領でも友達と呼べる者はいなかった。
読書が好きなルナリスの夢は、友人を集めての読書会だった。
まさかそんなささやかな夢の一部がこうして叶うとは。
自然とルナリスは緊張していた。
「……ど、どう?」
「感想ですか? 失礼ながら、読書したままでも?」
「もっもちろんよ。構わないわ」
「ありがとうございます。それでは――」
ソフィアは本から目を離さず答えた。
「この騎士は、夜間に姫の庭園へ侵入しています」
「そうね」
「警備上の問題があります。城を警備している者たちは何をしているのですか?」
「そういうもんなのよ。特に気にしないで」
「しかも、姫に対して『君をさらいに来た』と宣言しています」
「その台詞ね! 月の光に照らされてその台詞を言うのが格好良いのよ!」
「明らかに姫の誘拐では? 国家へ仇なす賊として対応しなければならないかと」
「違うわよ! お互い、良い感じに想い合っているから問題ないのよ!」
「更に、姫の返答を待たず抱きしめています。賊ながら、見事な手際ですね」
「ちっがうわよ! それは愛情表現なの!」
ソフィアは、さらに数ページ読み進める。
「読み進めて思うのですが、この月下の騎士とやらは相当場数を踏んでいますね」
「何でよ」
「夜間の警備を搔い潜り、姫がいる領域へ侵入、拘束に成功しています。相当な訓練を積んでいると見ました」
「恋愛小説の主人公を犯罪者扱いしないで!」
ぴたりと、ソフィアはページをめくる手を止めた。
「ですが、姫は喜んでいます」
「そうよ。何せ、想っていた騎士がようやく自分の目の前に来てくれたんですもの。これを喜ばずして、どうするのよ」
「……不可解です」
「恋愛ってそういうものなの!」
「危険人物に近づくなと、幼少期から教育されてきました」
「それは正しい教育なんだけど! あぁもう!」
ルナリスはとうとう耐えきれなくなった。
「ふふっ……!」
声が漏れる。
最初は小さな笑いだった。
だが、ソフィアの真面目すぎる考察を思い出すたびに、可笑しさが込み上げてくる。
「あはははっ! 何よそれ! あんた、本当に真面目に読んでるの!?」
馬車の中に、ルナリスの笑い声が響いた。
ソフィアは本を持ったまま固まっている。
「……私は、何か間違えましたか? もしや恋愛小説には適切な本の持ち方でもあるのですか?」
「違うわよ! あんたの考えていることが間違えすぎなのよ! でも、そこが面白いの!」
「面白い……ですか?」
「そう。あんたが真顔で、恋愛小説を犯罪記録みたいに読むから」
「……恋愛小説とは犯罪記録のカテゴリーではないのですか?」
「違うわよ!」
ルナリスは笑いながら、目尻に浮かんだ涙を拭った。
魔王領を出てから。
いや、人間領へ入ってから。
こんなに笑ったのは、初めてかもしれなかった。
ソフィアは、ルナリスの笑顔をじっと見つめる。
何も言わない。ただ、少しだけ本を閉じる。
「ルナリス様」
「何よ」
「初めて笑顔を見ましたが、ルナリスは笑っている方が良いと思いました」
「! ば、馬鹿! 急にな、ななな何を言ってんのよ! この馬鹿! アホ!」
「私は基本的にまともです」
「それはない」
ルナリスは即答した。
ソフィアは少しだけ不服そうな顔をした。
「ところで、恋愛とは相手の隣にいたいと思うことなのですよね」
「……そうよ。特定の相手の隣にいたい。そういうもんなの」
すると、ソフィアは爆弾を投入する。
「では、ルナリス様が私を馬車に入れたのも、それに近いのですか?」
「はぁ!?」
ルナリスの顔が一気に赤くなる。
「ち、違う! ちっっがうわよ! 馬車酔い対策だから! あんたが外を歩いていたら、不安になるから!」
「不安」
「護衛として不安になるって意味よ!」
「なるほど」
「絶対に意味分かってないでしょう!」
「いいえ、心得ています。ルナリス様は私が近くにいた方が安心するのですね」
「言い方!」
ルナリスは本を奪い返し、顔を隠すように開いた。
その時だった。
馬車の外から、護衛騎士の声が飛ぶ。
「ソフィア殿! 前方の橋が崩れています!」
ソフィアはすぐに窓の外を見る。
「迂回は可能ですか?」
「可能ですが、灰狼の森を抜ける必要があります!」
「灰狼の森?」
ルナリスが本から顔を上げた。
「何、その名前。嫌な予感しかしないんだけど」
「ルナリス様、それは正しい感覚です」
ソフィアの声が、少しだけ低くなった。
「魔物が多く、盗賊も出ます。さらに近年、魔族の残党が潜んでいるという噂もあります」
「いきなり物騒になったわね」
「安心してください」
ソフィアは立ち上がり、馬車の扉へ手をかけた。
「私は専門家です。魔族が出るなら、私の得意分野ですよ」
「安心できる要素が一つもないわよ!」
馬車はゆっくりと速度を落とし始める。
一気に警戒態勢と移り変わる。ソフィア始め、護衛騎士の雰囲気が切り替わった。
恋愛小説は、途中までしか読めなかった。
だがルナリスは本を胸に抱きながら、ほんの少しだけ思った。
(ふん、さっさと無事に抜けさせてね)
この最低な護衛が隣にいるなら。
森くらいなら、案外どうにかなるかもしれない。




