第19話 ルナリスは逃げない
「赤い目の少女を見た者はいないか!」
巡回兵の声が、村の広場から響く。
三人とクロは路地奥の壁際に身を寄せていた。
フィオナが先頭で、ルナリスがその後ろ。そしてソフィアは、最後尾から二人と一頭を守っている。
「正門は無理ね」
フィオナが、小さく言った。
「鐘を聞いた連中が、あっちに集まってる。今の私たちが正面から出たら、どう見ても怪しい旅人になっちゃう」
「では、裏道を使いますか」
ソフィアが問う。
「使うんだけど……。ただし、少しだけ待って」
フィオナは路地の角から、広場の方を窺った。
村人たちが集まっている。その表情は不安そうだった。
話し声が聞こえる。
「赤い光だったんだろう?」
「貼り紙に書いてあった魔族じゃないのか!?」
「でも、穀倉は燃えていないぞ!」
「光だけだったって話だ!」
恐怖がありありと見える。だが、彼らはまだ、何が起きたのかを知らない。
「敵の狙いは、ルナちゃんを見つけてもらうことだけじゃない」
フィオナの声が低くなる。
「村人達に、赤い目の少女が何かをしたって思わせることだね。そして、その疑いを広げて、人間側を怒らせるんだ。『あぁ、やっぱり魔族は悪い奴らなんだ』ってね」
「フィオナ」
「怒らないでソフィ。嫌なことだろうけど、それが事実なんだからさ」
ルナリスは、フードの奥で唇を噛んだ。
「だから、私は何もしていないって言っても……すぐには信じてもらえない」
「うん」
フィオナは頷いた。
「けどね、全員に信じてもらう必要はないよ」
「え?」
「敵の嘘が、絶対の真実じゃなくなればいい」
フィオナは、細い路地の先を指差す。
「そのために、今から敵に仕掛ける」
「敵を?」
ソフィアの瞳が細くなる。
「どこにいますか?」
「穀倉の上」
フィオナは、屋根の方へ視線を上げた。
「さっきから、ずっとこっちを見てる。私たちが逃げるか、赤い魔力を使うか、待ってるんだと思う」
「敵の監視役ですね」
「間違いなくね」
ルナリスも、目を凝らす。
夜明け前の屋根。薄い霧。そこに、僅かな赤い魔力が見えた。
「ほんとだ、いるわ」
ルナリスが、小さく言う。
「屋根の端。黒い外套を被ってる。あの人の手元に、小さな魔具があるわ」
「第二の術式ですか」
「ええ。たぶん、私たちを見つけた時に使うもの」
フィオナは、僅かに笑った。
「なら、話が早い」
「ソフィ」
「はい」
「逃げる前に、あれだけ壊して」
ソフィアはすぐに頷く。
「捕縛は? 苛立ちを覚えているので、半殺しまではさせてもらいますが」
「駄目。追わないよ。相手が逃げるんなら、そのまま行かせる」
「……みすみす逃がすのですか?」
「この前と同じだよ。敵の人数も、村の地理も、まだ完全には分からない。ここでソフィが一人だけ追えば、また敵の思う壺になる」
フィオナは、まっすぐソフィアを見る。
「簡単な話だよ。最初の任務を徹底すればいいだけなの。そしてその任務とは、ルナちゃんの隣を離れないこと。……分かって」
ソフィアは、短く息を吐いた。
「承知しました」
ルナリスは、少しだけ目を見開く。
以前の彼女ならば。きっとソフィアは「捕縛して情報を得るべきです」と言っていただろう。
けれど今は、フィオナの判断を了解している。
「ルナ」
ソフィアが呼ぶ。
「何?」
「最速で仕掛け、最短で壊します。狙うべき場所を指示してください」
ルナリスは、赤い瞳を細める。
「魔具は相手の右手よ。小さな石板みたいな形をしているから、すぐ分かると思う」
「破壊すれば術式は止まりますか?」
「止まるわ。だから本人を傷つける必要はない」
「分かりました」
ソフィアは剣を鞘へ戻した。
その代わりに地面から、少し大きめの石を拾い上げる。
「フィオナ、距離を」
「二十五歩くらい」
「風向きは」
フィオナが答えた。
「西から。けど、強くはない」
ソフィアは石を指先へ乗せる。曲げた親指には力が込められていた。
静かに息を吐き、そして――。
「ならば、楽な仕事ですね」
親指が跳ね上がる。直後、石が飛んだ。
それはまるで矢のように。否、矢よりも速い。
石はどんどん速度を上げる。
黒い外套の人影が何かを掲げた――その寸前。
石は、右手の魔具だけを正確に打ち抜いた。
パキンと、乾いた音が鳴る。赤い光が一瞬だけ弾け、そして消えた。
「なっ……!?」
屋根の上の男が、初めて声を上げた。
黒い外套が翻る。男は屋根の反対側へ飛び降り、そのまま村の東へ走り出した。
「……逃げましたか」
「追いかけたそうよ、ソフィア」
ソフィアは、ルナリスの前へ戻る。
「いえ、追いません。フィオナがそう判断しました」
その答えに、フィオナがほんの少しだけ笑った。
「よし偉い」
だが、屋根の上で魔具が砕けた音は広場にも届いていた。
村人たちの視線が、穀倉の屋根へ向く。
「今のは何だ?」
「誰かがいたぞ!」
「黒い服の男が逃げた!」
「けどあの光は何だったんだ!?」
ざわめきが、広がった。そして――路地の入口にいた、あの小さな少女が声を上げる。
「みんな、いい加減にして! 全然違うよ!」
少女は広場の方を向いていた。
「赤い目のお姉ちゃんは、あの光を止めてくれたの! あの光は怖がらせるための魔法だって言ってた!」
村人たちの間に、沈黙が落ちる。
少女の母親が、慌てて駆け寄る。
「こら、危ないからこっちへ――」
「本当だよ!」
少女は、母親の服を掴みながら言った。
「お姉ちゃんたち、穀倉の裏にいたよ! あの赤い光を消してた!」
「……穀倉の光を?」
先ほど門に立っていた見張りの男が、少女を見る。
そして、屋根の方を見る。
逃げた黒外套。砕けた魔具。消えた赤い光。
そのどれもが、貼り紙に書かれた話とは違っていた。
「ソフィ、とりあえず出ようか。これ以上は隠れていても無駄な気がする」
「……了解です」
フィオナは『風向き』が変わったのを感じた。
今ならば、どうにかなるかもしれない。直感を信じ、フィオナは判断を下した。
「お前たち」
ソフィア達に気づいた見張りの男が、こちらへ近づいてくる。
ソフィアの手が、剣の柄へ触れる。
「ソフィ、絶対に抜かないで」
フィオナが小さく呼びかけた。
「承知しました」
見張りの男は、三人の前で止まった。
赤い瞳を隠した少女。
剣を帯びた護衛。
旅商人の娘を名乗る少女。
彼はしばらく、何も言わなかった。
やがて――。
「村の外へ出るなら、南の水車道を使え」
低い声で言った。
「正門は今、混乱している。水車道なら見張りも少ない」
「見逃すのですか?」
ソフィアは真顔で尋ねる。
男は少しだけ眉を寄せた。
「お前たちが何者かは知らないし、興味はない」
それから、広場の貼り紙を見た。
「だが、今朝から村で起きたことが、全部この紙の通りだとも思えなくなった」
男は、踵を返す。
「子供の言葉を信じたわけじゃない。俺は自分の目で見たものを、少しだけ信じることにしたよ」
そう言って、男は広場の方へ戻っていった。
フィオナは、静かに息を吐く。
「私達の勝ちだ」
「勝ち?」
ルナリスが問う。
「あいつらの目的はこの村全体、というか人間達全てに魔族への不信感を植え付けること。けど、もうそれは不可能だ」
フィオナは笑った。
「だから私達の勝ちだ。へへっざまーみろ」
そう言って、フィオナは舌を出した。
◆ ◆ ◆
南の水車道は村の外れにある細い下り道だった。
古い水車小屋の脇を抜け、森とは反対の低い丘へ向かっている。
村の灯りが、少しずつ遠くなる。
クロは水を飲み、少しだけ足取りを戻していた。
「ルナリス様」
ソフィアが、隣を歩くルナリスへ言う。
「何?」
「あの時の対応は適切でした」
「何の話かしら?」
「あの少女へ、嘘をつきませんでした」
ソフィアは、少しだけ言葉を探す。
「だから、彼女は私たちを見てくれたのだと思います」
ルナリスは、歩みを少しだけ緩めた。
偽名を名乗り、フードで角を隠し、村人たちの目を避けた。
だからと言って、自分のしたことまで隠さなかった。
「……あんたに褒められると、嬉しいけど困るわ」
「何故ですか? 説明を求めます」
「何でもないの」
ルナリスは、前を向いた。
「いやあ。ルナリスちゃん、すっかりソフィの教育係だね」
「違うわよ!」
「そうです。ルナリス様は教育係ではありません。教わるなら戦闘技術も教わりたいので」
「ソフィも即答しないで! というかそんなの無理に決まってるわよ!」
少しだけ三人の間に、いつもの空気が戻る。
だが、フィオナは村を出る直前に拾った小さな欠片を、掌で転がしていた。
屋根の上の男が落とした、砕けた魔具の一部。
そこには赤い文字で、短く刻まれていた。
『第一灯、破損。月、南へ』
『第二灯、ラディアにて待機』
フィオナは真剣な顔でその文字を読んでいた。
「……うーん、本当に面倒なことになった」
ソフィアとルナリスが、振り返る。
「何がですか?」
フィオナは、欠片を二人へ見せた。
「敵は村でだけ待ってたんじゃないってことよ」
ソフィアはその赤い文字を、ゆっくり読む。
内容を理解し、僅かに目を細めた。
「あーあラディアでももう待ってるや、これ」
遠い中立都市の方角から、朝の光が少しずつ空を染め始めていた。




