第18話 ルナという少女
ミレア村へ続く下り坂の途中で、フィオナは足を止めた。
「はーい。村へ入る前に最終確認ね」
夜明け前の薄暗い空。坂の下には、小さな村の灯りが見えている。
ソフィアは周囲を警戒したまま、フィオナへ視線を向けた。
「時間が惜しいです。早く確認内容を」
「んじゃ手短に。私達の身分と役割について確認するよ。ここから先は、全員ちょっとだけ別人になってもらうから」
フィオナは親指を自分へ向けた。
「まず私は旅商人の娘。近くに住む親戚を訪ねる途中よ」
続けて、ルナリスを見る。
「そんで、ルナリスちゃんは私の遠縁の妹。名前はルナ」
「……ルナ」
ルナリスは、小さく繰り返した。
名前を隠すこと自体は理解できる。……理解できるのだが。
「何だか、私じゃないみたいね。変な感じ」
「あはは。偽名って、そういうものだからね」
フィオナは悪びれずに答えた。
「でも、無理に別人を演じなくても良いからね? 愛想よくしなきゃ、とか考えなくていい。疲れた旅人の妹が、知らない人へペラペラと何かを喋る方が変でしょ?」
「……それもそうね」
フィオナは、今度はソフィアを見る。
「ソフィは私とルナリスちゃんの護衛役。剣を持ってるし、その格好だし、そこは隠せない」
「承知しました」
ただし、とフィオナは指を立てる。
「聖騎士っぽくはしないでね。誰かを威圧しなくても良いし、騎士としての喋り方もナシ」
「……難しい要求です」
「普段より少し無口で、少しだけ怖くない顔をすれば大丈夫」
「異議があります。私は怖い顔をしているつもりはありません」
「はい、今まさにそういう顔をしていますー。笑顔、とは言わないけど少しだけ口元の力を抜きな」
フィオナは肩をすくめた。そのやり取りを見ていたルナリスは少しだけ笑う。
――すると、ソフィアが静かな声で呼んだ。
「ルナ」
「……何?」
「村の中ではルナとなります。呼び間違えないよう、今から慣れておきます」
真面目な顔だった。ただ偽名を確認しただけ。
それだけのはずなのに。ルナリスは、ほんの少しだけ胸が妙に騒ぐ。
「……ええ。そうして」
「承知しました、ルナ」
フィオナが二人を見比べた。
「うん。良い感じ。偽装は順調そうだね」
「もちろんです。私に不足はありません」
「頼もしいねぇ。そんじゃ、行こうか」
◆ ◆ ◆
ミレア村の入口には、簡素な木柵があった。
柵の脇には小さな詰所。眠そうな目をした若い男が二人、槍を持って立っている。
そして、その横の看板には、見覚えのある紙が貼られていた。
『注意。赤い魔力を操る魔族の少女を見かけた者は、直ちに巡回兵へ報告せよ』
反射的に、ルナリスは深く被ったフードを僅かに下げる。
フィオナが、何でもない風に前へ出た。
「おはようございまーす。早朝からお疲れさまです」
「止まれ」
見張りの一人が、手を上げる。
「どこから来た」
「北の街道ですよ。親戚の家へ向かう途中なんだけど、馬がちょっと疲れちゃってね。水と飼葉だけ分けてもらえないかな?」
「……旅商か?」
「その通りでーす! 私は旅商人の娘。こっちは妹。それで、後ろの子は雇ってる護衛」
フィオナの答えに迷いがない。口調も、あまりに自然だった。
見張りの視線が、ソフィアへ向く。
「剣を持っているな」
「はい、護衛なので」
ソフィアは短く答えた。
普段なら、その後に安全保障や任務内容の説明を加えてしまいそうなところだ。
だが今日は、それ以上を言わない。
「お前はそこの娘の妹、だったな?」
見張りの目が、ルナリスへ向いた。
一瞬だけ、ルナリスの呼吸が止まる。
自分は魔王の娘。人間の国で、一部の人間以外には名を隠している。
「……ルナです」
偽名を口にする。
「あぁ、ごめんなさいね。この子、少し疲れていて」
自然にフィオナはルナリスの前に立ち、話を打ち切る。
見張りは、怪しむようにルナリスを見た。
……だが、やがて視線を逸らした。
「村の中で騒ぎは起こすな」
「もちろん。ありがとうございます」
フィオナは笑った。
「うちの妹、びっくりするくらい大人しいから」
「誰がよ」
ルナリスが、思わず小さく言い返す。
フィオナが笑いそうになる。
見張りは呆れたように息を吐いた。
「早く行け。水場は中央広場だ。馬用の場所があるから、そこから飲ませろ」
「ありがとねー」
三人とクロは、村の中へ入った。
◆ ◆ ◆
ミレア村は、朝を迎えかけていた。
家々の窓から淡い灯りが漏れ。
焼きたてのパンの匂いが、冷えた空気へ混じっている。
今日も村人は一日を始める。
水場へ向かう人、荷車を引く人、眠そうな子供の手を引く母親。普通だ。どこにでもある、人の暮らしだった。
ルナリスは、少しだけ歩みを緩めた。
――人間の村。
今までなら、ただ警戒すべき場所だと思っていた。
魔族を恐れ、憎み、何かがあればすぐに敵と呼ぶ者たちの住む場所だと認識している。
けれど、ルナリスの眼には違うモノが映っていた。
眠そうに父親へ抱きつく子供、朝の支度をする母親、クロを見て、小さく笑う老人。
全く違う。そこにいる者たちは、戦場で見た兵士とは違った。
「良い馬だねえ」
水場の近くで、年配の女性がクロの首筋をそっと撫でた。
「こんな夜道を歩いてきたんだろう? 偉い子だねぇ」
クロが、小さく鼻を鳴らす。
「……褒められていますね」
ソフィアが言った。
「見れば分かるわよ」
ルナリスは答える。
「そう、ですね。クロは嬉しそうです」
フィオナは水桶を満たしながら、少しだけ笑った。
「ソフィ、最近ちょっと分かるようになってきたよね」
「何がですか」
「色々、ね」
フィオナは、それ以上を言わなかった。
「私は悪友として嬉しいってことさ。それよりも――」
次の瞬間、フィオナの目から笑みが消えた。
「あれ、見える?」
「視界のあちこちから飛び込んできますよ。……全く同じものがね」
看板や家の壁などなど。村の目につく所には、同じ紙が貼られている。
赤い染料かつ太い文字。しかも、急いで書かれたような文面。
フィオナは、広場の掲示板へ近づいた。
「んー、これ村の人が貼ったものじゃないね」
「分かるの?」
ルナリスが尋ねる。
「村の掲示板に何か貼るなら、普通は村長か見張り番の印がいる。これにはない」
フィオナは、紙の端へ触れた。
「貼り方も雑。夜中に誰かが入って、村の人が起きる前に貼って回ったんだと思う」
「敵は嫌な立ち回りをしますね。……村人の先入観を作ってしまった」
ソフィアが言う。
「そういうこと」
フィオナの声は静かだった。
「ルナちゃんが何かする前に、『赤い魔力を使う魔族の少女は危険だ』って空気を作ってる」
ルナリスは、紙を見つめた。
自分はまだ、何もしていない。誰も傷つけていない。
それでも、もう自分がいるだけで、人々が恐れるための理由が作られている。
「……最低ね」
「うん」
フィオナは短く頷いた。
「効果的だよ。だからこそムカつく」
その時だった――村の東側。
鐘の音が、激しく鳴り響いた。
カン、カン、カン、と。
これは朝を知らせる鐘ではない。
何かを知らせる、慌てた鐘の音だった。
「穀倉の方だ!」
「また赤い光が出たぞ!」
広場にいた村人たちが、一斉に東を向く。
屋根の向こうからは赤い光が、空へ細く伸びていた。
まるで、夜明け前の空へ赤い月を描くように。
ルナリスの顔が、強張る。
「……私じゃないわよ」
「うん、分かってる」
フィオナは即座に答えた。
だが、村人たちは知らない。
赤い光と貼り紙。そして、黒い外套を被ったルナリス。
その全てが、あまりにも分かりやすく繋がっている。
「敵は、私たちが村へ入ったことを知っています」
ソフィアが言う。
「うん。これは歓迎の花火だね」
「笑えないわよ」
「大丈夫、私も笑ってない」
フィオナは、すでに周囲を見ていた。
鐘へ向かって走る村人。広場へ集まる見張り。東側へ急ぐ巡回兵。
このまま留まるのは分が悪いと感じたフィオナは、この場から離れることを決める。
「正面から穀倉へ行けば、人の目が集まる。ソフィ、ルナちゃん。こっち」
「……私は手助けに行くべきだと思います」
ソフィアが即座に尋ねる。
「もちろん行くよ。でも、敵が用意した舞台の真ん中じゃなくてね」
三人とクロは、広場を離れた。
フィオナは村の裏手へ回り込み、穀倉の背後へ続く細い路地へ入る。
そこには、倒木の根元にあった声の術式とよく似た、赤い魔力の痕があった。
「見えるわ」
ルナリスが、低く言う。
「赤い光を出してるのはあの穀倉の中。術式の核は、壁の向こうにある」
「ルナリス様――こほん。ルナ、危険度は?」
「火を起こすための術式ではない」
ルナリスは赤い瞳を細める。
「危害を加えるモノじゃない。これはただ見せるための術式よ。人を怖がらせるためだけの偽物」
「では、止められますか」
「止められる。でも……」
ルナリスは、少しだけ言葉を止めた。
「私が魔力を使って止めたら、誰かに見られた時点で終わりよ。赤い目の魔族の少女が、赤い魔力を使った。それだけで、敵の狙い通りになる」
「……一理ありますね」
ソフィアは壁を見る。
「なら、私は何をすれば?」
フィオナが、細い鏡を取り出した。
鏡の表面に、穀倉の内部がぼんやりと映る。
「術式の核は、壁際の穀物袋の裏。赤い石を囲む、細い銅線があるでしょ?」
「あります」
「赤い石は壊さないで。銅線だけ切れば、術式は形を保てなくなる」
「承知しました」
ソフィアは地面から、小さな石を拾い上げた。
「ルナ、指示をください」
「何の?」
「石を当てる場所を、正確に教えてください」
ルナリスは、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに赤い瞳を細める。
「……赤い石の右下。銅線が二本、重なっている場所よ」
「距離は」
「ここからなら、十二歩先。壁を抜けて、指二本分ほど右」
「分かりました」
ソフィアは石を構える。何の変哲もない、ただの小石だ。
だが、彼女の指先へ収まると、それは矢よりも危険な投擲武器になる。
「三、二、一」
ルナリスが数える。
「今!」
石が飛んだ。
壁板の隙間を抜け。穀物袋の陰へ滑り込み。直後、乾いた音を立てる。
次の瞬間、村の上空を照らしていた赤い光が、ふっと消えた。
鐘の音だけが、しばらく村に残る。
「成功です」
ソフィアが短く言う。
「ええ」
ルナリスは頷いた。
「綺麗に切れたわ」
「さっすがソフィ。そんじゃこっからは私の仕事ーっと」
フィオナは、音もたてず、穀倉の裏口から中へ入った。
しばらくして――フィオナは小さな紙片を持って戻ってくる。
その紙には、短い文字が書かれていた。
『月が村へ入れば、第一灯を灯せ』
ルナリスの顔が、強張る。
「……私たちが入ったから、あの術式を起動したのね」
「そうだね」
フィオナの声は低かった。
「偽装は、入口の時点で見抜かれてる。たぶん村の中に、敵の目がいる」
「では、すぐに出ますか」
ソフィアが問う。
「出来ればね、そうしたい」
フィオナは紙片を握り潰した。
「でも、正門は鐘を聞いた巡回兵が集まってる。今出れば、逆に疑われることになる」
その時――路地の入口から、小さな声がした。
「……お姉ちゃん」
三人が振り返る。
そこには、七つか八つほどの少女が立っていた。
不安そうに。だけど、逃げずに。
少女はルナリスを見ている。
赤い瞳。深いフード。それは貼り紙に書かれた、魔族の少女。
少女は、震える声で言った。
「さっきの赤い光……お姉ちゃんが消したの?」
ルナリスは、答えられなかった。
自分が魔力を使ったと知られれば、また敵の思惑へ近づく。
「……フィオナ、どうしますか? 出来れば口封じはしたくない」
「こんな子供に手を出したら、私は二度と聖騎士と名乗らせなくしてやるわよ」
「冗談です。だが、マズいのは確かです」
「ルナリスちゃんを信じましょう」
ソフィアとフィオナの視線を背後に受け、ルナリスは思考を巡らせていた。
本当は誤魔化したい気持ちでいっぱいだ。だけど、嘘をつけば。
この子の目の前で、自分自身を否定することになる。
「……私たちが止めたわ」
ルナリスは、ゆっくり答えた。
「誰かを怖がらせるための光だったから」
少女は、しばらく黙っていた。やがて、小さく頷く。
「……じゃあ、悪い魔族じゃないの?」
ソフィアが、半歩だけ前へ出た。
だが、剣には触れなかった。
ルナリスは、少女を見る。
「悪いことはしない」
赤い瞳を逸らさずに言う。
「少なくとも、あなたを怖がらせるために魔法を使うことは、絶対にしないわ」
少女は、少しだけ息を吐いた。
――その時。
広場の方から、男の大きな声が響いた。
「赤い目の少女を見た者はいないか!」
巡回兵の声だ。
敵が作った恐怖は、すでに村の中を走り始めている。
フィオナが、いつもの笑顔を作った。
けれど、その目は笑っていなかった。
「さて。偽名の初日から、ちょっと大変なことになってきたね」
ソフィアは、ルナリスの前へ立つ。
「ルナ。ここからは、私の後ろへ」
ルナリスは、一瞬だけ目を見開く。
それから――。
「……ええ」
赤い光を消したばかりの村で、一行は出口へ向かって走り出した。




