第17話 偽りの月、白狼砦の外
フィオナの足跡を踏みながら、三人と一頭は夜の森を進んでいた。
道は相変わらず細い。木々の根は地面を這い、湿った土は足を取ろうとする。
控えめに言って、歩きづらい。だがスムーズに進めているのは、ひとえにフィオナのおかげだった。
「そこ、跨いで。クロは左から」
フィオナは小さく指を差す。
「その石は踏まない。下が空洞になってる」
振り返らず、次の指示を出す。
「ルナリスちゃん、そこ枝あるよー」
ルナリスが少しだけ身を屈める。
「分かってるわよ」
「ごめんごめん。分かってそうだったけど、言ってみた」
「まぁ……でも、ありがとう」
フィオナの歩みに迷いはない。
軽い口調。適当そうな笑顔。全てがいつも通り。
しかし彼女は、クロの蹄が沈まない地面を選び、枝がルナリスの外套へ引っかからない場所を選び、ソフィアが剣を振るえる程度の幅を残して進んでいる。
彼女の案内は、道案内ではない。
全員を生かして通すための、彼女なりの作戦行動だった。
「フィオナ」
ソフィアが声を落とす。
「何、ソフィ」
「包囲網を抜けたと判断できる地点は、まだですか」
「あと少し」
フィオナは足を止めずに答えた。
「この先に炭焼き場の跡がある。そこを越えたら、白狼砦の外側へ出られるよ」
「敵が追跡に来ている可能性は?」
「正直、あると思っている」
フィオナの声から、ほんの少しだけ軽さが抜けた。
「敵は私たちが西へ逃げたと思っている。さっきも言ったかもしれないけど、声の術式が完全な嘘だと気づくまで、少なくとも時間はかかる」
「数十分、ね」
ルナリスが呟く。
「そう。数十分」
フィオナは頷いた。
「でも数十分あれば、私たちは白狼砦から抜けられる。敵が包囲を完成させた頃には網の外」
「……つまり」
ソフィアが言う。
「今が、一番急ぐべき時間ですね」
「せーかい」
フィオナは、少しだけ笑った。
「さすがソフィ。そういう時だけ、すっごく話が早い」
「常に話は早いはずです」
「戦いの話だけね? 日常の話はびっくりするくらい遅いからね?」
フィオナはジト目で答えた。
◆ ◆ ◆
森を抜けた先。木々が少しだけ途切れた。
そこには、崩れた炭焼き小屋があった。
屋根は半分落ち、壁も朽ちている。
けれど、その向こうには細い下り坂が続いていた。
下り坂の先。遠くの暗がりに、いくつもの灯りが見える。
「さて、白狼砦はっと」
フィオナが、短く言った。
ルナリスは息を呑む。
森の外れ。岩壁に囲まれた狭い道。
その奥に、古びた砦の影が見える。
松明が、いくつも揺れていた。
人影が動く。
門の前。砦の上。森へ繋がる道。
遅れて、包囲網が閉じようとしている。
「……間に合ったのね」
ルナリスが呟いた。
「ええ」
ソフィアは、砦を見つめた。
「敵は、私たちが西へ逃げたと判断したということですね」
「その通り」
フィオナは、珍しく大きく息を吐いた。
「ったはー! 疲れた。これでようやく一安心よ」
「お疲れ様です、フィオナ」
「ほんとよ、ほんと。それよりもクロは? ここでクロがバテたんなら、話変わるけど?」
クロが、疲れたように鼻を鳴らす。
ソフィアはすぐにその首筋へ手を置いた。
「疲労はあります。ですが、脚に異常はありません」
「ちょっとだけ休ませる?」
ルナリスが言う。
ソフィアは周囲を見回した。
目に見える炭焼き小屋。しかし壁は崩れている。
森からは少し離れているが、完全に安全とは言えない。
続けてソフィアは仲間を見る。フィオナは問題ない。クロは疲労状態。ルナリスも表情に疲れが見える。
追われている状態だが、完全に動けなくなってからでは遅い。
ソフィアは折衷案を取った。
「二分だけ休息を取ります」
「二分?」
「クロに水を与えます。それと、私たちも呼吸を整えるべきです」
「……分かったわ」
ルナリスは頷いた。
ソフィアが水筒の水を少しだけ器へ移し、クロへ差し出す。黒馬は慎重に、水を飲んだ。
その様子を見ながら、ルナリスは、崩れた小屋の壁に視線を向けた。
「……あれ」
視線は壁の裏へ。石材の隙間に、赤い光が見えた。
微かだ。けれど、確かに……。
「どうしました?」
ソフィアがすぐに反応する。
「待って。何かある」
ルナリスは壁へ近づく。
石の表面には、赤い月を思わせる、歪な術式の跡が刻まれていた。
見た目だけならルナリスの魔力を思わせる。だが――。
「これは……」
ルナリスの顔から、血の気が引く。
「私の魔力を真似している」
フィオナの笑顔が消えた。
「真似?」
「ええ。完全じゃない」
ルナリスは、術式へ指を近づける。
「筆跡を見よう見まねで書いたみたい。似せようとしてるけど、細かい癖が違う。私なら、こんな形で魔力を流さない」
「では、敵が魔王の娘の魔力を模倣しようとしている、と」
ソフィアが静かに言う。
「そういうことになるわ」
ルナリスは唇を噛んだ。
「これが人間の村で見つかったら。魔力を正確に読めない人間なら、私が何かをしたように見える」
「偽の証拠です」
ソフィアの声が低くなる。
「ええ」
フィオナが、石壁の跡を観察する。
「んー。何かこれ、めんどくさそうだね」
「どういうこと?」
ルナリスが尋ねる。
「この魔力の痕跡、数日前のものだよ。雨と風で少し削れてる」
フィオナは、指先で石の縁をなぞった。
「敵は今からルナリスちゃんの魔力を使おうとしてるんじゃない。前から、ずっと模倣しようとしているね」
空気が冷えた。
ルナリスの脳裏に、ここ最近のイベントが蘇る。
王城での襲撃。
偽の黒炎。
灰狼の首輪。
水鏡の眼。
それぞれが、独立した事件ではなかったのかもしれない。
そういう可能性がある事自体、ルナリスは嫌な気分になってしまった。
「……私の魔力を使おうとしているのね」
ルナリスが呟く。
「断言はできません」
ソフィアが言う。
その瞳には冷静な意思が込められていた。
「ですが、可能性は高い。ルナリス様を生かして連れて行こうとしていることも、魔力の偽装と繋がります」
「うん」
フィオナが頷く。
「ルナリスちゃんを攫う。あるいは、魔力を使える状態で確保する。そして、人間と魔族の両方が怒るような事件を起こす」
「この私が何かをやった、ということにして、和平を壊すために」
ルナリスが言う。
「そう」
フィオナは短く答えた。
「私達を狙っている敵はただ戦争を続けたいだけじゃない。戦争を起こせるだけの材料を、先に集めてる」
ソフィアは、石壁の術式を見る。
「許容できませんね、全く」
「ソフィの言うとおりだね。これは陰険が過ぎる」
フィオナは笑わなかった。
「こんな偽物の魔力で、私が何かをやったと思われるの……?」
ルナリスは、赤い術式を見つめる。
自分の魔力を、存在を、戦争を続けるための道具にされる。
――それだけは、絶対に嫌だった。
「ソフィア!!」
「はい」
「私は、ラディアへ行くわ」
ルナリスの声は、震えていなかった。
「何があっても、敵が何をやってきても、私は和平の場に立つ。絶対にね」
「心得ています」
ソフィアは迷わず頷いた。
「ルナリス様は必ずお連れします。それが私の戦いなのですから」
フィオナが、ほんの少しだけ表情を緩める。
「ソフィもルナリスちゃんも覚悟が決まってるね。なら、次の問題に対応しよう」
「問題?」
「この先、人のいる場所を通らなきゃいけない」
フィオナは、遠くに見える灯りを指差す。
「夜明けまでに、あの村を抜ける。村の名前はミレア村。白狼砦を避けてラディアへ向かうなら、物資と馬の水を補給できる最後の場所」
「村へ入るの?」
ルナリスが言う。
「私たちを探している人間がいるのに?」
「だから、入る時は少しだけ別人になってもらうよ」
フィオナは、にこりと笑った。
いつもの笑顔。けれど、先ほどまでの軽さだけではない。
敵の目を越えるための、仕事人の顔だ。
「ルナリスちゃんは、今日から私の遠縁の妹になってもらう。名前はどうしようかな、うーん――ルナで」
「安直ね」
「呼びやすいでしょ?」
「そういう問題じゃないわ」
「角は隠す。外套は深く被る。魔力はなるべく使わない」
フィオナは続ける。
「ソフィは護衛役。私は旅商人の娘。私達は王都から離れた親戚を訪ねる途中。そういうことで」
「偽装ですね」
ソフィアが言う。
「そう。偽装」
「必要であれば、行います」
「オッケ。ノリが良くて助かるよ」
フィオナは頷いた。
「ただ一つだけ注意。村で赤い魔力の事件が起きても、いきなり剣を抜かないでね」
「……善処します」
「そこは承知しましたって言ってよ」
「状況次第です」
「うん。ソフィだもんね」
ルナリスは、少しだけ笑った。
一行は村へ向かう。
村へ続く下り坂の脇。古い道標に、紙が一枚打ち付けられていることに気づく。
夜の風に揺れる紙。そこには、赤い染料で大きく書かれていた。
『注意。赤い魔力を操る魔族の少女を見かけた者は、直ちに巡回兵へ報告せよ』
ルナリスの足が止まる。
「……もう」
フィオナは笑い飛ばす。
「敵の動き早いねー。こういう仕事の速さは見習っていきたいところだね」
ソフィアは紙を見つめる。
やがて、紙を千切り、握りつぶした。
「フィオナ、予定を変更しますか」
フィオナは首を横に振った。
「まさかでしょ? しない」
その声は、静かだった。
「逃げるだけなら、敵の作った道を歩くことになる。村へ行く」
「もしもバレたら危険です。私はその可能性をあえて口にします」
「何言ってんのよソフィ。『この程度』のことで変更なんかしないよ」
フィオナはルナリスを見る。
「ルナリスちゃんが、魔王の娘だからじゃない」
そして、真っ直ぐに言った。
「一人の女の子として、ここを通る権利があるから」
ルナリスは、少しだけ目を見開いた。
ソフィアは剣の柄へ手を置く。
「ならば、護衛を継続します」
フィオナは頷く。
「よろしい。んじゃ、夜明けまでにミレア村へ」
白狼砦を抜けた先。三人と一頭は、敵が先回りして作った恐怖の中へ進み始めた。




