第13話 魔王の娘、護衛を休ませる
川を抜けた後の話だ。
ソフィアたちは、そのまま森の奥へ進んだ。
川沿いを進めば馬の足跡は薄くなる。敵の目を避けるには、実に合理的な道だった。
だが、合理的であることと、楽であることは別の話だ。
ぬかるんだ地面。濡れた草。足を取ろうとする木の根。いずれも進軍の命取りになる要素ばかりだ。
そして、川を渡ったばかりの『十二番』ことクロは、明らかに歩みが遅くなっていた。
「……ソフィア」
「はい」
「クロ、疲れてるわよね?」
ルナリスは、黒馬の耳を見た。
先ほどまで警戒するように動いていた耳が、少しだけ下がっている。
呼吸も、さっきより荒い。
ソフィアはすぐにクロの様子を確認した。
「疲労を確認できます」
「それなら……」
「まだ進行可能です」
「そういう話じゃないのよ」
ルナリスは少しだけ声を強めた。
「この子は朝から悪路を歩いて、川まで渡ったのよ。しかも、私たち二人を乗せて」
「任務上、必要な移動です。クロも理解しているはずです」
「分かってないわね。理解しているのと、実際に不調を訴えているのとでは訳が違うのよ。……クロが脚を痛めて動けなくなったら、その後が厳しくなるでしょう?」
ソフィアは黙った。
ルナリスは続ける。
「私たちは二人だけ。クロは一頭だけ。そのクロがいなくなったら移動速度は大きく落ちる。どうせ、あんたが私を抱えて走ることはできるでしょうけど」
「それは可能です」
「そこは即答しないで。分かってるんだけど、そういう話をしていないの」
ルナリスは額を押さえた。
「とにかく。進行速度が遅くなるということは、敵に見つかる危険も上がる。だから、クロを休ませるのは任務のためでもあるの」
「……合理的な判断です」
ソフィアは小さく頷いた。
「それならば、前方に少し開けた場所があります。そこで休息を取ります」
「最初からそう言いなさいよ」
「ルナリス様が指摘しなければ、もう少し進んでいました。そして、別の休息場所を提案していました」
「それならそうと最初から言いなさい! あんたはあんた! 私とクロは私とクロ! 丈夫なあんた基準で考えたら、いずれ私とクロが潰れるのよ!」
その言葉を受け、ソフィアは目から鱗が落ちる思いだった。
何せ、自分がいけるのだから、きっとルナリスとクロも大丈夫という気持ちがあったからだ。
(……修正が必要な考えでしたか)
それを受けたソフィアは即座に頭の中で情報の更新を行う。
優しさ、ではない。全体が可能な行動を再把握しただけだ。
彼女にとって、思いやりという感情はもう少し先の感情なのかもしれない。
「反省します」
あまりにも素直だった。
ルナリスは少しだけ言葉に詰まる。
「……本当に、反省してる?」
「はい。仲間の状態を見落としました」
ソフィアは続ける。
「私基準ならもう少し行けると考えていましたが、もう少しルナリス様やクロの状態を把握したうえで、今後の提案をさせていただきます」
これは純粋なソフィアの気持ちだった。色々と考えてはみたものの、修正が必要な箇所に関して、ソフィアは一切の言い訳をしない。。
そんな彼女の言葉に、ルナリスは少しだけ、口元を緩めた。
◆ ◆ ◆
休憩場所は、崩れた石垣に囲まれた小さな空き地だった。
昔は猟師か、旅人が使っていた場所なのだろう。
風雨に削られた壁の一部だけが残り、周囲には柔らかな草が生えている。
ソフィアはまず周囲を確認した。いつもの安全確認である。
木々の上。石垣の裏。地面。遠くへ続く森の道。
敵の気配がないことを確かめてから、クロの鞍を外す。
「クロ。休息です」
黒馬は、ゆっくりと草へ顔を近づけた。
しゃく、しゃく、と。さっきまでの苦労が、何事もなかったように草を食べ始める。
「ほら。やっぱり疲れてたんじゃない」
「そうですね」
ソフィアはクロの前脚に手を当て、筋肉と蹄の状態を確かめていた。
「……うん、脚に異常はありません。蹄も問題なし。水に浸かったので、後で拭きます」
「あんた、ちゃんと世話をするのね」
「それは、仲間ですので」
ソフィアは当たり前のように答えた。
ルナリスは、少しだけ笑う。
「最初は第三厩舎の十二番としか呼ばなかったくせに」
「それはそれ以前の話です。今はひとまずクロということで、話がつきました」
「まだ仮採用なの?」
「名は大切なのでしょう?」
「そうね」
「ならば、軽率に決めて良いものではありません」
ルナリスはクロの首筋を撫でる。
「でも、私はクロで良いと思うわ。黒くて、真面目で、少し鈍そうで」
クロが、小さく鼻を鳴らした。
「……今のはクロの抗議では?」
「気のせいね」
「いえ、絶対に分かっていますよ」
今までの意趣返しとばかりに、ソフィアはルナリスの言葉を引用した。
◆ ◆ ◆
ソフィアは荷物から水筒と干し肉を取り出した。
ルナリスはそれを見て、嫌そうな顔をする。
「また兵站食?」
「栄養があります」
「美味しいの?」
「……干し肉には当たりはずれがあります。今回も美味しいかはお祈りです」
ソフィアが、ほんの少しだけ視線を逸らした。
ルナリスは目を丸くする。
「つまり、美味しくないってこと?」
「可能性の話です」
「何よそれ!」
「以前、ルナリス様から質問に答えるよう指摘されましたので」
「……覚えてるのね」
「ルナリス様にとっては大したことのない言葉かもしれません。ですが、私はルナリス様の言葉は、なるべく覚えるようにしています」
「そういうのを、真顔で言うなって言ってるでしょう」
ルナリスは顔を逸らす。
そして、自分の小さな鞄から、紙包みを取り出した。
「ほら」
「焼き菓子ですか」
「残り一つ。半分あげる」
「それはルナリス様の非常食では?」
「半分なら良いでしょう。あんたも少しは美味しいものを食べなさい」
ソフィアは少しだけ迷った。
「……いただきます」
焼き菓子を半分に割る。
ルナリスが片方を食べ、ソフィアももう片方を口へ入れた。
「どう?」
「甘いです」
「それ以外は?」
ソフィアは少しだけ考える。
「……バターの味です」
ルナリスは満足そうに頷いた。
「まだ物足りないけど、よろしい」
「何故、評価者のような口調なのですか」
「少なくとも、お菓子に関しては私の方が先輩だからよ」
「なるほど。納得しました」
「……本当に、調子狂うわね」
◆ ◆ ◆
少しだけ空気が落ち着いた頃。
ルナリスは、石垣へ背を預けるソフィアを見た。
ソフィアは剣を膝へ置き、相変わらず油断なく森の奥を見張っている。
眠る気は、まったくなさそうだった。
「ねえ、ソフィア」
「はい」
「一つ、聞きたいことがあるわ」
「どうぞ」
「さっきの術式のこと」
ソフィアの表情が少しだけ変わる。
「魔力が見えた、って言っていたでしょう」
「はい。それがどうしました?」
「人間には、普通は見えないわ。私たち魔族でも、術式の流れを読むには知識と訓練が必要なの。なのにあんたは、あの赤い糸を見た。認識することが出来た」
ルナリスは声のトーンを落とす。
「あんた、本当に人間? こんなこと、私が言えることじゃないかもしれないけど」
ソフィアは少しだけ黙った。
ルナリスには分かっていた。これはソフィアなりに真剣に考えているのだと。
だからこそ、ルナリスは待つ。それが彼女への向き合い方の一つと心得ているのだから。
やがて、ソフィアは真面目な顔で答える。
「白状すると、私にもよく分かっていません」
「分からない?」
「普段から見えるわけではありません。強い魔力や殺意を乗せた術式。戦場で使われるような感情のこもった魔力。そういう状況のときだけ、私は自然と見えます」
「殺意……感情……」
「色や形のようなものです。ですが、意味までは分かりません。ただ私はそれを危険の指標と捉え、対応しているだけです」
ソフィアは続ける。
「補足させて頂くと、昨日の赤い糸も術式だと分かったのはルナリス様が言ったからです。私には、何かがあるとしか分かりません」
ルナリスは腕を組んだ。
「……正直驚いたわ。魔族が聞いたら、貴方を珍しがって研究したがるわ。絶対にね」
「そうですか?」
「そうよ。というか、そういうの怖くないの? 変な感覚なんでしょう?」
「言語化はいまだ出来ていませんが、それでも戦場では役に立ちます」
「そういう話をしてるんじゃないの」
ルナリスは少しだけ唇を尖らせる。
ソフィアは、本当に分かっていない顔をしていた。
「いずれ調べるべきね」
「それには同意です。ですが今は、任務を優先します」
「それはそうだけど」
気になる。ソフィアの中にあるもの。
人類最強の聖騎士を、人類最強たらしめている何か。
けれど、今は敵がいる。
今は、ラディアへ向かわなければならない。
ルナリスは話を戻した。
「それより、水鏡の眼よ」
「はい」
「あれは、私たちが通ったことを知らせるためだけの術式じゃないわ」
ソフィアの碧い瞳が、静かに細くなる。
「詳しく聞かせてください」
「魔力には癖があるの。人間にも、魔族にもね。筆跡みたいなものよ」
ルナリスは、自分の掌を見つめる。
「水鏡の眼が私の魔力を記録していたら。敵は私が通ったことを知るだけじゃない。私の魔力の癖を盗めた」
「癖を盗んで、何をするのですか」
「偽装できる」
ルナリスの声が低くなる。
「例えば、私の魔力に似せた術式をどこかで暴走させる。人間の町を襲う。あるいは、誰かを殺す」
焚火はない。
それでも、空気が冷えたように感じた。
「なるほど。残虐な行為を、魔王の娘がやったように見せかけることが出来ると」
「……そうね。それもきっと、和平を壊すために」
「ええ」
刺客が用いた偽の黒炎。
魔族の言葉を話した刺客。
魔王の娘を殺し、人間と魔族の憎しみを再び煽ろうとする者たち。
敵は、ただルナリスを狙っているだけではない。
ルナリスという存在を使って。
人間と魔族との戦争を、まだ続けようという奴がいるということだ。
「厄介ですね」
ソフィアの声は静かだった。
だが、その碧い瞳には確かに感情が滲んでいた。
「そうね。だから、あの術式を眠らせられて良かったわ。攻撃的な魔法より、よっぽど厄介よ」
「……それもありますが、気に入りませんね」
ソフィアは、まっすぐルナリスを見る。
「ルナリス様の魔力は、ルナリス様のものです」
ソフィアの声は、低く、真っ直ぐだった。
「誰かが自分のために使うことも。偽物を作らせることも。誰かの皮を被って、非道を行うことが、私は気に入らないです」
ルナリスは、息を止めた。
そんなことを。そんな顔で言われるとは思わなかった。
「……あんた」
「……忘れてください。これは護衛として当然です」
「それで済ませるの、ずるいわよ」
「何がでしょうか」
「もう良い」
ルナリスは顔を逸らした。
耳が少し熱い。
◆ ◆ ◆
夜も深まった頃。ルナリスが腕を組み、ソフィアの前に立った。
「ソフィア、寝なさい」
「いいえ」
「いいえ、じゃないわよ。寝なさい」
「眠くありません」
「寝なさい」
「護衛中です」
「じゃあ、護衛主からの命令よ」
ソフィアが、少しだけ目を見開く。
「命令、ですか」
「ええ。こういう言い方は嫌だけど、命令が必要なら、あんたのために命令するわ」
ルナリスは腕を組んだ。
「昨日もまともに眠っていないでしょう。クロも休んでる。私もここにいる。だから、少しくらい目を閉じなさい」
「危険です」
「危険なのは、寝不足の護衛に守られることよ」
「一時間ほど休息は取りました」
「一時間!?」
「必要十分です」
「全然十分じゃないわよ! こんの馬鹿!」
ルナリスは、じっとソフィアを見る。
「これは姫としての命令じゃない」
少しだけ、声を落とした。
「あんたの、仲間としてのお願いよ」
ソフィアは黙った。
風が草を揺らす。
クロは少し離れたところで、静かに草を食んでいる。
やがて。
「……ならば五分だけ」
ソフィアが言った。
「五分?」
「五分、目を閉じます」
「短いわよ」
「これ以上は譲れません」
ルナリスはまだまだ怒りたい気持ちでいっぱいだったが、彼女の真面目さを思い、渋々それを了承した。
「分かったわ。五分ね」
ソフィアは石垣へ背を預け、剣を手元へ置いたまま目を閉じた。
ほんの数秒後には、呼吸が少しだけ深くなる。
ルナリスは、その横顔を見た。
いつもは硬く結ばれている眉、そして真っ直ぐすぎる口元。
眠っている今だけは、少しだけ年相応に見える。
「……意外に可愛い寝顔するのね」
小さく呟く。
当然、聞こえるはずがない。
ルナリスはクロの方を見る。
「クロ。見張り、お願いね」
黒馬が、耳を動かした。
その時だった。
森の遠く。
木々の隙間から、黒い鳥が一羽、飛び立った。
その嘴には、小さな紙片がくわえられている。
ルナリスの赤い瞳が細くなる。
「あれ……」
なんと、紙片には人間の術式と同じ、赤い光が浮かんでいた。
誰かが。この森の中で、知らせを送っている。
そしてその相手は――自分たちの行き先を、まだ諦めていない。




