友達
「ね!タロ!起きて!」
「...... 」
肩をさすられ無理にでも意識を覚醒させようとしてくる。机に伏せていた顔を上げ彼女を見るも、先ほどまでの記憶がフラッシュバックして気分が芳しくない。眉間にしわが寄り、けげんさを表情に出してしまう。それを見たナツは、バツが悪そうな表情で目線を逸らしてきた。隣の机の上に座ってこちらを覗きこんでいた彼女は、思いついたように机から尻をあげてひょいと立ち上がった。着ていた制服のスカートが裏返っていないかと、手でスカート掃い。前髪を両手で直して僕の席の前に立つ。その前髪をいじる仕草が、奏の仕草と似ていて、ナツに奏の面影を感じる。
「僕、初めて人を、それも女の子を殴ったんだ」
一時の感情に身を任せて沢村を殴り、涙と困惑を浮かべる彼女の顔面に二発目の拳を振ろうとしたとき、二日目の朝の砂浜の男が止めてきた。僕がこの空間にいるということは、あの男が僕を殴って失神させたのだろう。無関係な奴に殴られるとは僕も思っていなかった。ただ、今も僕はあの女を殴りたい気持ちに変わりはない。奏を傷つけ続けてきたやつが、ついには大会に出れなくなるほどの怪我をさせたことに、あり得ないほどの憎悪を感じている。憎しみのままに動き、沢村が自販機の前で真実を口にしたとき、コイツを殺したいとさえ思った。
「...うん。知ってる」
僕にとっては衝撃の告白だったはずなのだが、ナツはすでに知っているようだった。僕はそれに困惑を隠せない。彼女は後ろのモニターを指さして説明を始める。
「実はね、タロがいない間、あのモニターに全部移ってたんだよね~」
申し訳なさそうに、真相を話し始めたナツ。僕がこの空間にいる間、モニターには砂嵐が映っていたため、こういうものだと認識していたのだが、その実は僕の居ない間にモニターに僕の様子が映っていたらしい。つまり彼女は僕の様子を見ていたくせに、僕に何があったかを話せなどと言っていたわけだ。
「全部見てたなら、なんで僕にいちいち説明させてたんだよ」
やけくそで彼女に訪ねる。正直今の僕は、自分を律せるほどの心の余裕はない。
「ん~。タロの口から聞きたかったから?」
首をかしげながら思いついたように話したナツは、モニターの前をゆっくり歩きはじめ、教室を歩きまわり始めた。僕は席に座り続けたまま彼女の話を聞く。
「私さ、タロの話聞いててさ、正直楽しかったよ。なんかお悩み相談みたいでさ。やっぱり主観と客観は違うね」
「....ナツ。僕さ、どうしたらよかったと思う?」
沢村を殴った事実はどうにもならない。沢村にはいじめの罪で厳正な処罰が下されるのは必然だが、僕への処罰も免れることはできない。ナツに相談したとして何か変わるとは思えないが、彼女のお悩み相談の腕前を借りようと、その時は思った。
「タロさ...自分は変われたと。思ってない?」」
僕の質問に彼女は答えようとせず、別の話題のキャッチボールを始めてきた。突拍子もない質問に、これに意味があるのかとも思ったが、今までの彼女を信用して、自分を見なおす。
入学当初は、人と話したくもなかったしできるだけ誰にも関わりたくなかった。何も楽しくないし、毎日をただ憂鬱に過ごしていただけ。そんな僕が、奏の事情を知って、短かったけどバレー部のマネージャーもやれて、渡部や柳とか。いろんな人と出会えることができた。僕は、あの時間が楽しかったんだ。今まで感じてた虚無感もあの場にいるときは忘れられた気がする。だから、変われたんだと思う。
「私はね、タロは変わってないと思うよ」
先ほどまでの僕の考えとは真逆の答えがナツの口から出てくる。客観視してきた彼女が僕のことを変わってないと、そう判断したんだ。彼女はごまかすことをせず、真っ向から自分の思いをぶちまけてくれているように感じた。
「君は、変わったんじゃなくて、今までの自分を勘違いしてたんじゃない?。私から見た君は、友達を大事にしてるし、友達のために迷わず行動できる。それが客観的に見た君の性格で、やる気がなくてただ息をして過ごしているだけのコタロウっていう人物像は、君の主観。う~ん。つまり私から見た君は、どうしようもないお人好しに見えるよ。」
先ほどまでのらりくらり歩いていたナツが歩くのを止め、真剣な面持ちで僕の目を見ていた。
「君があの女を殴ったとき。正直嬉しかったしスカッとした。君が友達のためを思って手を出したことさ。映画みたいだったし。あれで君が引き下がってたら、それはそれで尊敬したかもだけど...」
僕が沢村を殴ったときのマネをしながら、「シュッ!」と声出したナツ。笑顔で「こんな感じ?」と僕を見てきた。その後、一度止めた足を再び動かし始め、今度はさっきと逆周りでゆっくりと教室を歩き始める。そして僕の後ろまで歩いてきて肩に手を当ててきた。そっと耳元に口を近づけ優しく囁く。まるで赤子をあやすような、透明感があって繊細な、優しく包み込まれえるような、それでいて色っぽさを感じるような声。
『君のことを私は許します』
瞬間、ため込んでいたものが解放されるような、自分の苦労が報われたような感覚に襲われる。初めて人に許される。自分の罪という錘の縄が切れるような、瞬間的に体が軽くなるような感覚。
他人から見た自分は、こんなに簡単に言い表すことができるんだと、彼女の言うことが正解だとは断言できないが、彼女の言葉は確かに僕を救ってくれた。僕も、僕をそんな風に思ってくれるナツに恥じないようにあろうと、ゆっくり息を吸い、気持ちに整理をつける。
「ありがとうナツ。落ち着いたよ」
「よろしい!私も慣れない励ましはもうしないよ。そしてこの際なので呼び捨ても許します。私も一応、タロのこと友達って思ってるからね」
僕の隣の空席に座り、椅子はそのまま、体だけをこっちに向けて胸を張りながら笑顔を向けてくる彼女は、恥ずかしげもなく友達宣言をする。そんな彼女を見て、僕の胸は高鳴っていた。
感情に支配され沢村を殴ったが、気持ちの整理はつき冷静に戻れた気がする。彼女に謝ろう。彼女がしたことは許されないし、僕がしたことも許されなくていい。でも謝らないと。
「沢村に..謝るよ」
「え、謝らなくていいんじゃないかな?」
僕の発言に対して、神妙な面持ちでナツは答えた。この時僕は、彼女が謝らなくていいと言ったことに驚きを隠せなかった。彼女なら、「いいじゃん!」とか言って拍手してくると思ったのだが。彼女の思考が理解できなかった。悪いことをしたら謝るのは当然だと思うのだが。そして今回は僕が悪いし。
「でも、僕は殴ってはいけなかったと思うんだ。沢村がどんなことをやったてたとしても、」
心の内を真剣に、ナツの目を見つめながら答えた。瞬間、彼女の神妙な面持ちは、真剣な表情に変わり、作り笑顔のような笑みを浮かべ始める。
「私は、人の本質は変わらないと思うよ。君は俗にいう良い人なんだろうけど、あの女は悪い人なんだよ。だから、君は悪くないし、謝る必要もない」
僕に語り掛ける彼女の表情は、笑顔なのに、目が笑ってない。僕を見ているようで、僕を見ていない。琴線に触れてしまったのだろうか、体中の毛が逆立つような恐怖を感じてしまった。それを悟られないよう表情に固くカギをかけ、彼女の目をしっかり見つめて決意を示す。
「でも僕は、謝るよ」
「そっか」
反論されると思って発言したのだが、思っていたよりナツの論理に熱は無かったのだろうか。あっけなく引き下がった。彼女はそのあと、僕の腕をつかんで自分のところに引き寄せて椅子から立ち上がらせようとしてくる。受ける力に反発せず、僕は立ち上がる。
「ついてきて」
僕の手を引いて彼女は歩きはじめる。どこに行くのだろうか。まず、この教室から出ることはできるのだろうか。ナツは教室のドアの前まで僕を連れてきて僕の方に振り向き、さっきまでとは全く違う、引き込まれるような優しい表情を向けてきた。
今までこの教室から出ようとはしなかったから、この先があることを想像したことが無かった。この先は廊下なのだろうか、もしかしてアニメのシーンみたいに場面が変わるのだろうか、それとも何もないのだろうか。でも彼女が僕をここに誘導する感じ、この先は存在するんだろう。
「僕、今まで教室の外に行ったことないや」
「だと思った。じゃあ目。瞑って、ついてきて」
予想が的中して嬉しくなったのか、喜びが声色に現れる。とりあえずナツの言う通り目を瞑るが、なぜ瞑らないといけないのかは疑問が残る。彼女に手を引かれて動き出す。地面を歩く感覚は教室の時と変わらなく、僕を引っ張る彼女の足音と僕の足音のみが聴覚を刺激していた。歩くこと数秒、三十秒もしないうちに彼女の動きは止まり、僕を静止させてくる。感覚的な変化は感じることができなかった。
「目、開けていいよ」
そこは紛れもない屋上だった。後ろを振り向くと開いた状態のドアがあり、僕がのぼってきたと思われる階段が下に続いていた。だが階段をのぼった覚えはない。もう一度振り向いてナツの方を見る。目の前には清々しいほどの青空が広がっていて、そこにある雲さえも、青空を引き立たせるスパイスのように感じるほどに。
晴れ渡った空は美しいと思うのに、違和感を覚えてしまう。確かにきれいな空なのだが、雲が風に流れる様子は無く、まるで写真で撮った景色が空に貼ってあるだけのように思える。つまりは偽物なんだろうと、そう思う。偽物にしては本物そっくりの景色に違和感は消えなかったが、そんなことよりも僕はナツに目を奪われていた。
「きれいだよね、空」
立ち止まった僕の前を、目的もなく自由に歩きながらナツは空を指さして言う。指の先を見るがやはり空の景色は止まったまま動かない。彼女はそのことに気づいているのだろうか。
さっきから現実とはかけ離れたことばかり起こっていて理解が追い付かない。さっき気持ちを落ち着かせたばっかなのにこれだ。とりあえずはドアの横に座りナツを見る。彼女は屋上を歩き回り、フェンスを握っては下を見たり、空に声を発したりしていた。
一瞬僕を見ては、空に向きなおし大きな声を出す。
「タロはさ!人って悪い生き物だと思う?」
やまびこが帰ってくると思ったのだろうが残念ながら片思いのよう¥で、声は帰ってこず反響も無い。僕は下ろしていた腰を上げ、落下防止のフェンスを握っている彼女の隣に立って、同じようにフェンスを握る。先ほども教室で似たような話をしてた気がする。僕は、良い人で沢村は悪い人だとか。
「悪いっているのはさ、難しい考えだよね、その人を悪い人って思っても、それは自分にとっての悪いひとってことになる気もするし」
彼女の質問に対して僕は思ったことを正直に答えた。まだこの状況の整理ができていないというのに、全部理解してる様に話し始める彼女に、会話でついてくのが精一杯だ。
「タロは、性悪説ってしってる?」
性悪説。『人は生まれながらに悪である』中国の儒学者荀子によって唱えられた説。人の本質を悪として教育や規律で善なる人間になれるという考えだったのを覚えている。さらに、それと対を成す考えが性善説。『人は生まれながらに善である』とする孟子が唱えた説。人は生まれたときに善であるから、それを伸ばせばよい、そんな感じだった気がする。
「人は悪い生き物だから、規律とかで人を制御する必要があるとかって話だよね」
「うん。人は、生まれながらの悪だよ」
彼女はただ淡々と言葉を連ねていった。彼女は性悪説の考えに深く共感したのだろう。
「だから人には厳しい規律や罰則があるべきだと、そう思ってる」
彼女は遠くの景色を見ながら、そう述べた。この考えはきっとナツの心を形成する根本なのかもしれない。表情は笑顔なのに、目がどこまでも本気だったから。
「タロは?」
こちらを真剣に見つめ始める彼女に、嘘やごまかしは通じないと、感じ取る。
「僕は、詳しいことは分からないけど、人は善であってほしいと思うよ」
「ふ~ん」
納得したような、してないような、胸に一物を抱えたような表情で空を見た。その後、彼女は何も言葉を続けようとしなかった。僕も果てしなく続くように見える空を眺め、心のうちを整理する。そして疑問を一つ、解消しようと思う。
「どうやって、ここまで僕を連れてきたの」
思ってみれば疑問ばかりが生まれてくる。あの教室はそもそも何なのか。どうして急にナツが現れたのか。なぜナツは屋上まで僕を連れてきたのか。そもそもどうやってこの場所を把握できたのか。疑問ばっかで分からないが、返答次第で、その疑問が一つ解消する。期待と疑問の表情でナツを見るが、彼女の表情は変わらずどこか景色の遠くを見ていた。そして口を開く。
「魔法、かな。そんな不思議も、君は信じれない?」
思っていた斜め下を行く回答が返ってきた。魔法か。そもそもあの空間自体が魔法と言っても過言ではないのだから、そういわれればそう思ってしまいそうだが、現実的に考えてそれは難しい。
「じゃあナツは魔法使いなんだ」
彼女から情報を引き出そうと、会話を広げようとする。
「ううん。魔法使いはきっと私じゃない」
「じゃあナツは魔法使いに合ったの?」
「まだ。でも魔法使いが私に魔法をかけてるのはわかる」
「それはどういう... 」
まずい、ナツと話すと疑問に疑問が重なってしまう。ほどけない糸をほどこうとして、逆に絡まってしまう感覚。
「じゃあ次は私の番!これは忠告ね、この空間のことを誰にも話してはいけません。わかった?」
「なんで?」
「そんな気がするだけ」
そういうとナツはフェンスから手を放し、階段のあるドアの方へ歩き「帰ろうか?」と僕を見て手を差し伸べてきた。彼女の言われるがまま僕は彼女のもとまで歩き手を握る。すると彼女はにんまりと笑い僕を見てきた。
「そんなに手、握りたかったの?」
「握らないと帰れないじゃん」
正直恥ずかしかったし緊張した。ナツは僕を見て満足したようで、僕の手をしっかり握り直して手を引いた。表情に出てしまっていたのだろうか。
「目、瞑って」
夏に引かれるがままいつもの教室へと戻ってくる。屋上に満足したのか、教室まで連れてこられたわけだがさて、やはり階段を下がったり上がったりはしていないし、なぜ、わざわざ屋上に連れて行ってくれたんだろうか。
「なんで目、瞑らせるの?」
「う~ん。秘密!」
「今のとこ秘密しか開示してないよね」
「そう。ミステリアスな女なの私」
ふざけながらに微笑み顔で見つめてくる。結局この人は何がしたいのかわからないし、ここまでの行動すべてに意味があるようには思えない。まさにナツは今ミステリアスな女であった。
このままミステリアスに付き合うのも良いが話を次に進めにいこうと思う。
「そろそろ戻ろうかな」
ナツは予想が的中したような表情で、黄蘗色の髪を揺らして僕に背を向けた。そのままさっき入ってきた教室のドアを指さした。
「今までは自然に起きれてたけど、今回はそうはいかないらしいね」
ナツに言われて思い返してみたが、いままで自分の意志で起きようとしたことは無かった気がする。
彼女は続けて言った。
「このドアを開けて、目を瞑りながら戻りたいと思えば戻れると思うよ」
「戻れなかったら?」
「どうなっちゃうんだろうね」
いたずら気に奇麗な目を向けて微笑むナツ。戻れる確証はないらしいが、彼女を信じよう。
「またね、」
目を瞑り教室から出る。そのまま歩きはじめ、ただひたすらに、帰る。と思い続けて歩いた。さっきはナツに引っ張られて屋上まで歩いたから恐怖は無かったが、一人で目を瞑って歩くということが、こんなに恐怖を覚えるとは思っていなかった。
帰りたいと、そう思いながらも頭の片隅ではナツのことを考えていた。彼女と別れてまだ5分もたっていないのに、またねと言って僕を送り出してくれた彼女の表情に、どこか寂しさを感じていたから。冷静になって考えてみれば、僕を屋上に連れ出してくれたのも、ナツが僕を慰めようとしていたとも思えてきたし、問答は、彼女の真意は何一つわからないどころか、マイナスの域まで下がった気がするけど、よくわからない話で論点をずらして気を紛らわそうとしていたのなら。
体が勝手に動いたんだ。人が生まれつき呼吸をするように、熱いものに触れたときに勝手に手が動くように、脊髄が、その行為を行っていた。
「なんで、またきたの?」
困惑と疑問が隠せずにいる彼女の手を握り、僕は彼女の目を見る。彼女は僕と目が合った時、ミステリアスにふさわしくない表情を浮かべる。目線を下に傾け、黄蘗色が美しいその髪をいじり、整える。
「たまには、一緒に起きよう」
僕の誘いに彼女は、困惑と赤面の様子を下手くそに隠しながら、こくり、と頷いた。たまにはやり返してみようと思い、いたずら気な表情というものをしてみる。身長差を考えて彼女の目線まで顔を落として。
「じゃあ、目瞑って」
言い終わった後、恥ずかしさで死にそうになる。こんな思い、一生に一度で十分だよ..。
ナツの手を引いて廊下に出て、さっきまで瞑った目を、今度は開けたま歩きはじめる。
その通路は歩いているような、オートフロアのような、歩いているのかが分からなくなる感覚の通路だった。周りの景色は認識できない。要するに真っ暗。でも、ナツの、彼女の手を引いている感覚だけはこの手にしっかりと存在しているし、後ろを振り向けば確かに彼女がいる。
「この後どうすれば帰れるのか聞いてもいい?」
歩きながら、ナツの方を見て言った。
「帰りたいと、そう思えば帰れるはず」
帰りたい。帰りたい。帰りたい。そう何度も強く思いながら、彼女の手を引いて真っ暗闇を歩く。
はっと、意識を戻したとき、目の前には横に並んだ二つの扉があった。それを見た彼女は「これだね」と言ってそのドアノブの一つに手をかけた。
「これで帰れるよ」
微笑みながらナツはいった。
「じゃあ、また今度だね」
「...うん...また。今度」
彼女にまた会う約束をして、僕はドアノブをまわして扉の向こうに歩みだす。
「君が見えるってことはもうすぐってことなんだね」
触りたくもないドアノブを回して、行きたくもない世界に戻る。でも、君が起きようと言ったから、たまには起きてみようと思う。
「起きたか...少年」
目を覚ましして、周囲を確認する。僕はベッドに寝ており、他に誰の様子もない。横には、先ほど沢村を殴る僕を止めに入った男がいた。合宿二日目の朝に、初めて会った男。彼は申し訳なさそうに頭を掻きながら謝罪した。
「悪かったな少年、殴っちまって。ああでもしないと止まんないと思ってさ」
苦笑いしながら頭を下げ、彼は事の顛末を話し始めた。
「バスケ部の..なぎ..さ?ってやつは足の骨折らしい。お前が殴ったやつがはただの怪我だ。そしてお前は俺に殴られて失神というわけだ」
僕が知りたかった情報を簡潔に伝えてくれる。やっぱり奏は骨折か。治るまでどれくらいかかるのだろうか。もう春の大会には出れないのだろうか。しかし、僕の一番の疑問を解消しようと思う。
「あなたは、なぜここに」
「あー俺?。俺は駒工の監督。バレーの」
そうか。だからあの場所にいたのか。駒工業はこのあたりの高校と先生が言っていたので、朝方に海にいてもおかしくない。たまたま練習試合に来たら、暴力事件を目撃してしまうとは運のない人だ。挙句、止めるためとはいえ暴力をふるってしまっているため、この人にも何かしらの処罰が下されるのだろう。
「ごめん、僕のせいで、迷惑掛けることになる」
「気にするな、どのみち今年で辞めるつもりだったし。てか子供殴る先生ってヤバいな俺」
改めて自分のしまったことを再確認して、苦笑いしながら冷静に戻る男。悪いのは僕なのだが、教える立場の人間が暴力を振るうってしまうとは、この人も激情型の人間だったのか。
男はどこか不思議に僕を見ている。
「正直、起きた少年が暴れはじめたら、どうしようかと思ってたんだがな...なんかすっきりした顔して起きるもんだから。拍子抜けというか、何というか」
さっきまで気を貼っていたのか、落ち着いたように肩を落としてリラックスし始める男。ポケットから煙草を取り出し火を着けようとしたときに、ここが医務室だということを思い出ししまい始める。あの空間にいたことを知らない彼からすれば、僕は癇癪の途中で、これから暴れはじめる可能性が高いわけだ。ナツにもあのことは他言しないよう釘を刺されたし。余計なことは言わないでおこう。
「自分でも、やってやっちゃいけないことだったって...反省してる。」
少し目を見開いたあと、傍に置いてあるスマホ。僕の所有物であるスマホを指さして優しく話し始めた。
「お前が気絶した後。それ見ちゃったわけなんだが..あれだな。情状酌量の余地ありって感じだな」
おおよその事情は把握しているようで、僕が沢村を殴った理由にも納得がいったらしい。だから情状酌量の余地ありか。
「今日はとりあえず俺が家まで送ってやるから、ゆっくり休んでな少年。いろいろ思うことがあんだろうけど、今日は落ち着いて冷静になれ」
そういって僕の頭をそっとたたいて自分の部の試合を見に行った。
おそらく練習試合も終わった頃。男が僕の荷物を持って医務室へ訪れ僕を家まで送るといった。あの出来事のあとだと他の生徒と会うのは気まずいだろと気を利かせてくれたらしい。
彼の名は茂木誠司といった。駒バレー部の外部監督をしており、今年で任期満了。問題を起こしたことにも、辞めるのにいい機会だと言っていた。監督の前は先生をしていたらしく、保護者対応に嫌気がさして辞めたらしい。
「俺上下関係苦手でさ、少年も気にしなくていいからな」
「さすがにそういうわけには...」
「親戚のおじさんみたいな感じでいいから」
小さい頃から人との距離感を考えるのが苦手だったらしく、部活の先輩にもよく怒られたと誠司は笑いながら話す。この人との会話には、年の差を感じることが少なく、友達と話している感じが強かったが、仕草や声のトーンが、立派な大人に見えていた。
僕が録画がしてポケットに入れといた沢村との会話も聞かれているわけだし、この人は事情をほぼ理解している。
「誠司、僕はゴールデンウィーク前、たまたま嫌がらせを受ける奏を見てしまったんだ。あの時は”嫌がらせ”という言葉よりも、”いじめ”という言葉がその場に合うとすら思うほどに、強烈だった」
「それで?」
「たまたまバレー部の手伝いすることになって、同じ体育館だから関わることも多くなって。あの人は嫌がらせにも耐えれる人だと、勝手に思い込んでたんだ。実際嫌がらせはエスカレートして暴力をふるうまで至った。」
僕が見た嫌がらせは朝の件とジャージの件だけだったが、奏の対応からしてあれだけではないのだろうということはわかった。なにか嫌がらせはあったとしても、怪我までさせてくる奴だとは考えていなかった。
「今回のケースは相手がバカだったな。嫌がらせも怪我も、すべて足がつく行為だ。お前の録画にも気づけない奴らだぞ。...まあ、そんなリスクも考えれないほどに追い込まれてたのかもしれないがな」
二年生にもなってそれまでのスタメンのポジションを奪われ、剰えベンチに下げられてしまったわけだ。たしかな焦りと劣等感が生まれててもおかしくない。だがそのストレスを自分の成長に向けずに他人への嫌がらせに使ってしまった。それが誠司の予想した沢村という人間だった。
誠司は話ながら窓を開け煙草を咥えはじめる。巻紙に火をつけ息を吸うと、先端が赤に燃えながら、白い巻紙は薄鈍色へと変化していった。口から白い煙を吐き出し車内に煙草の匂いが充満し始める。一瞬こちらを見た後、片手で箱から煙草を一本露出させこちらに向けてきた。
「吸うか?少年」
僕はその箱から露出した煙草を一本取り出し、下手くそながらに口にくわえてみる。もちろん吸ったことはない。誠司は持ってたライターを僕に手渡して吸うように促してきた。いたずら心で煙草を咥えたが、まさか本当に吸わせるとは、本当に教える立場の人間なのだろうかと思うもやはり好奇心が勝った。
その先端にライターの火を近づけ息を吸い込む。見様見真似のためうまくいく保証は無かったのだが、うまく火が付きスモークが肺いっぱいに広がってきた。途端むせかえるような喉の疼きに思わず咳をしてしまう。赤信号で止まってた彼はそれを見て、おいてあった携帯灰皿を差し出して、僕と彼はお互い煙草の火を潰した。そのまま携帯灰皿をもとの位置に戻しながら、大きな声で笑い始めた。笑い終えた後、それを引き摺りながら話し始める。
「まずいだろ?」
「まずい」
「大人になるとさ、苦いとか、渋いとか、そういうもんにうまさを感じるようになるんだよ」
誠司は達観したようにハンドルを握りながら話した。その時、スマホのバイブレーションが鳴る。取り出すと学校からの電話だった。五分ほどの電話を得て車内は静寂に包まれるが、関係ある誠司には内容を伝える。
残りのゴールデンウィーク二日間は自宅待機で反省することと。合宿期間中の揉め事ということもあり、休み明けに詳しく話を聞くということだった。
少しして誠司が家の前に車を停車した。降車し、後部座席に置いておいた僕の荷物を手渡して彼は話す。
「少年、いろいろあって疲れただろうけど、ゆっくり休めよ。あと、悩んだらいつでも相談しろよ」
「はい、ありがとうございました」
誠司に頭を下げて自宅のエントランスに向かう。誠司は軽く手を振って見送る体制に入っていた。エントランスの自動ドアが開いたとき最後にもう一度誠司に頭を下げた。
「少年、殴って悪かったな」
誠司はコタロウが見えなくなるまで、ただ静かに立ち続けた。
時刻は朝7時、久しぶりの我が家に安心感を覚える。昨日までの、ジャージや下着、ベッドのシーツなどを洗濯機に入れスイッチを入れ、部屋の掃除を始める。しばらくベッドも使っていなかったし、そもそも家にいる時間が短かったから生活感は少ないわけだが、汚部屋は嫌だし、やることもないので身の回りのことをして時間を潰す。ふとすると昨日のことを思い出して、いたたまれない気持ちになってしまうため、そのことを思考から除去しようと体を動かす選択を取っていた。
掃除と洗濯を終えてソファに座る。ココアでも飲もうと思いお湯を沸かしてる最中だった。玄関のチャイムが鳴る。ドアを開けるとそこには思ってみいない来客がいた。渡部と柳の二人が、僕の部屋であっているのかと疑心を持ちながらそこに立っていた。まだ状況がはっきりしていないような、蟠りを解消出来てない様子を露わにしていた。とりあえず二人を部屋に招き入れ、ちょうど沸いたお湯でココアを作って二人に提供しようと準備を始める。二人はソファに座ってあたりを探るように目を配っていた。コップに数が無いので僕は二人が帰ってからココアを飲むことにする。ソファの前のテーブルに二人分のココアを置き、テーブルをはさんで二人の前に座る。あたりを詮索するように見渡していた二人の視線も自然とココアに向き、二人はそれを口にした。
「それで、今日はどうしたの?」
大方昨日の件の話なのだろうが、あえて知らないふりをする。予想通り一番に口を開いたのは渡部だったが、思っていた話とは違う話題が飛んでくる。
「波ってさ、一人暮らし?」
「うん?そうだよ」
「なんか何もないけど、普段何してんの?」
「うーん、何だろう。これといったことはしてないかな」
気まずくならないように当たり障りのない話から入って話題を広げようとしてくれているのか、渡部のそういう優しさはいつも周りを元気づけていた。例の話をしなくてはならないと決心し、その口火を切る。ああなっては秘密もクソもないし。
「二人はたぶん、昨日のことで来たんだよね」
二人の視線を探るとやはり僕の考えは正しかったようで、目の様子がすべてを物語っている。よほど意外だったようで柳の様子が印象に残る。
「なみはさ、その、知ってたの?」
「うん、ちょっと前から」
「ごめん、なみの気持ちを考えない発言になるかもだけど、なんですぐ誰かに相談しなかったの?」
柳の意見に僕も同意だ。僕も自分があの時誰かに相談しなかったことに、今も強い罪悪感が残っていた。悔しさを隠せない柳は、力強く拳を握っていた。
「...ごめん。僕もそうするべきだったと思ってる」
柳の悔しそうな顔は一瞬殺意のようなものに変わる。握り込んだ拳を大きく振り上げ、テーブル越しに僕の胸ぐらを掴み上げ、その拳を振り下げようとした。しかし、柳は拳を収める。勢いよく立ち上がってしまったためテーブルに置いてあったコップが倒れて床に落ちる。倒れたコップからココアが漏れ床に広がってしまった。
渡部は柳に「落ち着けよ」と声をかけて、二人はソファに座りなおした。置いてあるティッシュで床にこぼれたココアを拭き取る。吹き終わり二人の前に再び座る。やがて渡部が頬を人差し指で掻きながら場を整理し始める。
「柳も落ち着けよ。悪いのは波じゃないしよ。波も、ゆっくりでいいから、何があったのか教えてくれ」
あの空間とナツのことは伏せて、できるだけ詳細にすべてを話した。僕も口はあまりうまくないので、何度かは言葉に詰まったが、でも何とか納得してもらえるようにすべてを話した。
「ごめん..なみ。悪いのは君じゃないのに。八つ当たりしようとしてた」
「悪いのは僕じゃないかもしれないど、責められるべきは僕だと思ってる」
自責の念を積もらせる僕を見ていた渡部が真剣に答える。
「俺さ、渚とは長い付き合いだからさ。あいつが誰かに相談せず一人で抱え込むのも知ってたつもりだったんだ。だからさあいつが怪我したとき、それも他人にケガさせられたって知ったとき、ああやっぱりこうなっちゃったかって思ったんだよ。お前は、今自分の無力感の中にいるんだろうけどさ。でもな、それと同じくらい、周りのやつらもお前を止められなかったことが悔しいんだぜ」
渡部が自分の思いを語った後、柳も続いた。
「僕は、渚のことももちろん悔しいけど。なみが自分を大切にしないことも悲しかった。君、僕に殴られそうになった時、目瞑らなかったね。それくらいの勇気があったなら、僕たちにも相談する勇気があってもよかったんじゃない?」
柳は悔しさはもちろん大部分だったけど、それでいて冷静に物事を客観視しようとしていたのか。僕が彼に殴られそうになった時、僕は恐怖心を死ぬ気で抑えて目をこじ開けていた。それは自分へのバツもあるが、殴られる人の恐怖を僕は覚えていなければいけないとも思ったからだ。でも柳はそもそも殴る気なんてなくて、僕が激情にかられたことに反省を持っているのかを試そうとしてたってことらしい。
「波。付き合いは短いかもしれないけど、俺も柳も、もちろん渚だって、友達でいたつもりだぜ」
「ごめん二人とも。僕は二人を信用してなかったわけじゃないんだ。ただ、奏の気持ちを尊重したかったんだ」
「それで大会に出れねぇんじゃ世話ねえだろうよ」
「ごめん。もう間違えないようにする」
「よし、そうと決まればお見舞い、行くぞ」
渡部と柳は立ち上がり玄関へと向かう。直前、「コップ倒してごめんね」と柳が謝罪してきた。この二人は友達思いで、その友達に僕も含まれてると言ってくれたのが、うれしかった。
「ありがと三人とも、お見舞い来てくれて」
病院のベッドに横になってた奏は起き上がり僕たちを出迎えた。右足は固定されており台のようなものの上に置かれていた。
「治るまではしばらくかかるって」
正直、奏は悔しがると思っていたのだが、思ったよりたんぱくな返事に驚いたが、それを表情には出さないようにする。渡部と柳は奏に謝罪し力になれなかったことを懺悔した。奏は、自分も悪かったと謝罪し改めてお見舞いに来てくれたたことに感謝していた。詳しい処罰については学校が始まってから、聴取もかねて行う旨を伝え、僕もあらためて謝罪をする。
「私も、大会近くて周りが見えてなかった。ごめんね」
「次はちゃんと相談しろよ渚」
「僕たち友達なんだからさ」
「うん、ありがとう」
その後も思い出話に花を咲かせ、怪我にはあまり触れないよう、他愛ない話をする渡部たちを見ていた。
程なくして渡部と柳がそろそろ帰ろうと帰宅を誘ってきた。流されるがまま二人のあとを追いかける。
「渚、思ったより元気そうだったな」
「あれはあれで落ち込んでるモードだけどね」
「まあ、ああいうときは大体立ち直ってくるからな。全中の前の時みたいにな」
「確かに」
二人はいつものように会話を広げる。奏への信頼がよほど高いようで、心配はすれど干渉はしないらしい。渡部が奏とのエピソードを苦い顔をしながら話し始める。
「あいつが、前ああんな感じのうっすい顔してるときな。柳が慰めようとしてあいつのとこに駆け寄ったときな、渚キレて柳が半泣きするまで論破されたからな」
「そう言えば!。渚が失恋した時ね、もっといい人がいるよって言ったら。じゃあ今すぐ連れてこいってバチギレしたよね」
「そう、それそれ」
二人の会話を静かに聞いていた。渡部、柳、奏はとても仲がいいから、僕が気にする必要なんてないくらいに、奏は勝手に立ち直ってくると分かってるようだった。だからこそ、あっけなくお見舞いを切り上げ、早々と帰宅したらしい。渚に一人の時間を多く与え、立ち直るのを待つ。長い付き合いの友達らしい考えだ。
駅の改札前まできて、自分のポケットを探しても、あるはずのものがないことに気づく。スマホをどうやら病院に忘れたっぽい。二人にそのことを告げ、先に帰宅するように促す。僕の家の方がこの病院に近いから、何かあっても歩いて帰れる。といってもまだ終電には余裕がありすぎるほどだった。
「じゃあ先帰ってるから、くれぐれも先生に見つからないようにね。波一応謹慎中でしょ」
柳がそう言い手を振ってそこで渡部たちとはお別れをした。できるだけ速足で病院へ戻る。10分ほど歩いて病院へ着く。
奏の病室をノックする。
「ごめん、忘れ物したみたいで」
ノックのあとには静寂しか返ってこず、返事はなかった。もう一度ノックしてみるも、返事は無。わざわざ親が個室にしてくれたと言っていたことから、奏しかこの病室にいない。だからもし、奏にないかあっても気づいてくれる人はいない。
突如不安になり、病室のドアを開けた。スマホはソファに置いてある。見つけたことに安心感を覚えるより先に、ベッドに人がいないことに気づく。慌てて病室を飛び出し、あたりを探す。病院では走ってはいけないと思うも、出来るだけ小走りで回りを見渡しながら病院内を歩き回った。
不安はすぐに安心感へと変わった。奏が外のベンチで一人座っているのを病室のある三階の廊下から見つける。周りに人の様子もないことから、あそこが穴場なのだろう。
奏の座ってるベンチの隣に腰を掛ける。どこか遠くをぼっと見つめていた彼女だったが、僕に気づて不思議に首をかしげる。
「またきたの?」
「スマホ..忘れちゃって」
「ああね」
僕がここにいる理由を知った彼女は、自分の中に疑問が解消したようで元に戻るように奥の木々を眺め始めた。心ここにあらず。そんな言葉が今の彼女に似合う気さえした。彼女に僕が何を言えるだろうか、何を言ったとしても柳のように論破されて終わりだろう。彼女の気持ちに寄り添うことは今は愚策のように思えう。
「僕さ、今まで人を殴ったことなんてないのに、沢村を殴らずにはいられなかったんだよ」
「え?」
此処に無かった心を、まずは持って帰ってきてもらう。
彼女の反応からして、僕が沢村を殴ったことは初耳なのだろう。目が見開き、再びこちらを見てくる。そんな彼女に目を合わせず、遠くを見たまま話を続ける。
「奏が病院に運ばれた後、僕はその時の悔しさのまま、沢村を殺そうと思った。殺すまではいかなくても、人の顔を見れなくなるくらいに変形させてやろうと思ったんだ」
「それは...やばいね」
「でもね、ちょうどいた大人のひとに殴られて失神してさ」
「...その大人もヤバいね」
「僕もそう思う。でもあの人のおかげで冷静に戻れたのは事実で、止められなかったら僕はたぶんここにいない」
奏も遠くの木を見つめながら話し始めた。しかし、今度は心はここにあって、ちゃんと物事に向き合うように。
「私も、入学してすぐレギュラーに入れられて。三島もだんだん試合に入るようになって、それまでの沢村先輩のポジションに、私が代わりに入ることになったの。それから先輩は私に嫌がらせをしてくるようになった........たぶん先輩も歯止めが利かなくなったんだよ」
「奏は優しいよね」
「コタロウも優しいと思うけどね」
「人を殴るのに?」
奏は優しく笑う。そよ風に木々が揺れて葉がひらひらと空に舞う。舞った葉がその大きさにふさわしく風に揺られ体を翻す。太陽の光が優しく照り付けベンチの温度を上げる。少しの間、心地よい自然を感じながら沈黙を楽しむ。
楽しんだ沈黙を、現実を見るために破る。
「怪我、重症でしょ」
お見舞いに行ったとき、渡部はあまり接触しない方がいいと言っていた。しかし、ベンチに座る奏の表情が、信頼より心配が勝ってしまうほどに悲しそうだったんだ。もちろんそれは勘違いで、渡部の言うとおりだったということもあるかもしれない。
「...なんで?」
奏は唾を飲み、疑問を表情に表してくる。彼女の目をただ見つめる。意図したわけではないのだろうが、渡部たちが触れないでおこうとしていたため話す機会が無かったのだろう。話さなくて済むのならそれでいいかもしれないと思い始めていた時の意表を突く発言。彼女の表情には確かに驚きを隠せていなかった。
「...なんで何も言わないの?」
それ以上追求しない様子に、奏は自信のない声色で疑問を問いかける。
僕は彼女が話してくれるまで待つつもりでいた。また勝手なことをしたと柳や渡部に怒られるかもしれない。でも僕には彼女を心の底から信頼できるほどの関係性はない。ないからこそ、僕なりに関わっていこうと思ったんだ。
「...治るかは、分からないって」
数分の沈黙の末、奏は徐々に言葉を連ね始める。
彼女の勇気の告白に、僕は沢村への憎しみを捨てきれなくなってしまった。やっぱり許せないかもしれない。でもこの感情は本来彼女が持つべきもので、僕が持っていい感情じゃない。
「治る可能性はあるってこと?」
一縷の望みはあるのかと、確認を取る。
「軟骨が傷ついてて、完全回復にはかなりの時間がかかるって」
気づけば奏は、泣き出しそうなのを必死に堪えながら自分の足の現状を適切に伝えてくれた。自分の足を見ながら、悔しさに、怪我させられたことよりも、バスケができない悔しさに、胸を押させていた。
しわが残るほどに強く服を握る。太ももに一つ、また一つと大粒の涙。堪えため込んでいた涙が、ひび割れから漏れるようにあふれ出していた。その量は彼女が言葉を発そうとするほどに量を増し、その口を遮らせていた。
リハビリにかなりの時間がかかるということは、今回の大会は見逃さざる負えないということで、さらには冬の大会にも出れるかが怪しくなってるということになる。その間も着実に腕は鈍ってくる。仮に元に戻れたとして、他より遅れた時間は取り戻せない。
「それでも、奏はバスケ辞めないんでしょ」
「辞めない...けど..ぐやじぃよぉ」
ついに決壊した彼女の涙のダム。鼻をすすりながらむせび泣く。僕は、泣く彼女のもう一つ隣に隙間を埋めるように座りなおす。途中何度か咽るしぐさを見せる。
「私、頑張ってきたのに、誰よりも練習してきたのに...なんで...」
今までため込んできた鬱憤を晴らすように、奏は泣きながら感情を吐露した。僕はただ彼女の隣に座って相槌をついていた。途中もらい泣きしそうになるも、男としてのプライドが勝ち、泣くことはなかったが、彼女の泣き顔はこれからの人生で忘れることはないだろう。
ため込んだ感情を放ち終わり、奏はすでに泣き止むフェーズへと入っていた。持っていたティッシュとハンカチを渡し、彼女はズビビと鼻をかんでいた。
「私、こんなに泣いたことないんだけど」
「僕も、泣く女の子を見たのは初めてだよ」
「私だけじゃ不公平だよ。コタロウ、なんか自分の恥ずかしい話言って。それでチャラ」
気持ちを晴らして気分が戻ったのか、奏はいつも通りの奏に戻ってた。
「特に面白い話はないんだけどなあ」
「なんでもいいから、はやくぅ」
奏は押し殺してた感情を僕にぶつけてくれた。ならば僕もそれに答えなければいけないと思う。
「じゃあ、初恋の話かな」
「え!?コタロウの初恋!!」
さっきとは打って変わって目を輝かせてこちらを見てくる。目の下は泣いた後で赤み掛かっていて、泣いた後は隠せていなかった。
「僕好きな人がいたんだけど、ある時忘れ物を取りに教室に戻ろうとしたら、そこにその人がいて。女子トークの最中だったんだけど、僕のことは無しだねって言ってて。それで初恋は終わったよ」
明日以降、この話が広まっていたら奏、君を真っ先に疑うよ。っと思ったが思いのほか効いたようで顔が引きつっていた。
「何それ、一番効くやつじゃん」
「それで初恋は散ったよね」
奏は気まずそうにしていたが、今この時点からこれは笑い話に変わったのでつらい顔は許しません。僕は奏の頬に残った涙をティッシュで拭き取り、ベンチから立ち上がって彼女の手を取った。その足で病室まで彼女を見送り帰りの挨拶をする。
「今日はもう帰るよ。本当は今日も自宅謹慎だったからね。また、来るから」
「うん。また」
そうして僕は帰路に就いた。帰り道、足取りが妙に重かったのを今でも覚えてる。きっといろいろなことが起こって疲れてたんだろうと思っていた。




