波紋 閉じた世界
茜がスマートフォンを持ったまま、ぼうっとしていると、数分でメッセージが受信された。鷹也からだ。
【茜ちゃん、ありがとう。その気持だけで十分だ。】
鷹也からのメッセージはいつも短文だ。それなのに茜の心にぽわりと温かな灯火がともった。
「…うん、鷹兄がいるから大丈夫だよね。」
茜はふふっと笑った。三人にとっても頼りがいのある兄貴分だ。茜は再び席に戻り、眠気に抗いながら苦手な数学と向き合うのだった。
七海はメッセージを送った後、猛烈な自己嫌悪に陥っていた。茜が間違えたことを指摘するような言い回しだ。
(わたし、超嫌なやつじゃん‥)
空が青いのなんて当たり前だし、そんなことを送ってきた茜にも、空が青いっていうだけで前を向ける能天気さすら腹立たしいとさえ思ってしまったのだ。そして苛立ちをぶつけるように返信してしまった。
(もういい!何もかもがもうどうだって!茜もきっと私のことが嫌いになったはず!)
むしろ嫌いになってくれて皆が自分から離れてくれたら、清々するのかもしれない。そんなことまで考え、ふと何気なく自分の掌を見た。
閉じていた眼が揺らぐ。七海の心臓が跳ね上がった。これはまるで、ユキが消えた時みたいな…
そしてすうっと眼が消えた、ように見えた。
(うそ‥やだ‥そんなの‥)
動揺しまくり掌を凝視するが、やはりいつもの如く眼を閉ざしたままそこにある。とはいえ七海の心は大恐慌に陥った。そして思い至る。
(私の眼が閉じているせいで選ばれなかった!?)
これまで、閉じていることは気にしていたが、消失については考えたこともなかった。もし消えてしまったとしたら自分はどうなってしまうのだろう。
(わたし‥もう影とか妖も見えなくなってたり…?)
不安にかられて居ても立ってもいられなくなった七海は、家を飛び出して走り出した。周囲を見回しても影も妖も見当たらない。そのまま走り続けていつもの湧水池まで走った。
「あ!…いた!!」
いつもよく見かける妖が、ビクッとしてこちらを見てくる。普段なら何かと話しかけてくるのだが、妖はぴょんっと飛び上がり、そのままどこかへ消えてしまった。
「え?何で逃げるの!?どうして?」
七海は呆然と立ち尽くし、周囲を見回す。妖たちの気配は何となくあるのに、誰一人姿を現すことはなかった。走ったために身体は温まっているはずなのに、指先だけが妙に冷たい。
(…避けられてる…)
そうとしか思えなかった。見ることも感じることも出来るのに、会話が出来ない。或いは彼らの声を聞き取れなくなってしまったのかもしれない。気配を感じている気がしているだけなのかもしれない。
【ダメだなこれは】
【消えたら楽になるぞ】
【神楽もやらなくていい】
【兄とも比較されない】
七海の頭の中に直接こんな声が響いてくる。喉の奥がキュッとして次の瞬間、叫んでいた。
「いやああああ!!!」
嫌な声を振り切るようにして走り出し、再び家へと逃げ帰った。
「七海!?」
霧江が玄関先で七海の姿を見つけて呼び止めるが、七海はそれを無視して部屋に飛び込んだ。
「…七海。」
呆気に取られながらも為す術がなく、その後姿を見つめて名を呟く。霧江にもどうしたら良いのか分からなかったのだった。
七海は部屋に戻ると、不安にかられてスマートフォンを探し、電話帳をスクロールする。指が震え、何度か飛ばしてしまい、ようやく目的の番号を見つけ、勢いのまま電話をかけた。
「…もしもし?」
まだ少し眠そうな声が七海の耳に届く。時計を見て、時差があることを思い出して固まった。
「…七海?どうした?」
寝起きから完全に目を覚ましたらしい父が、気遣わしげな声をかけてくれる。
「あ、えっと、ごめんなさい。そっちはまだ早朝だったんだ…」
その声に少しだけ安心して、まずは叩き起こしたことを謝った。
「気にするな?それより何か、困ったことがあったんだろう?」
七海は温かな声に少しずつ気持ちが落ち着いてきたのを感じる。しかし、父にこんなことを話しても良いのだろうか?
「あ、あのね…あの、もし、もしもよ?その‥私の“眼”が消えてしまったとしたら…」
電話の向こうで父が居住まいを正すような、衣擦れの音が微かに聞こえる。
「それは、仮定の話しかい?」
微かに父の声が掠れている。
「…うん。私の“眼”は開眼したあと、ずっと閉じたまま、なの。…けどさっき、揺らいで…一瞬消えたように見えて…それで…神楽の選考にわたし選ばれなくて…みんなと会いたくなくて。だから‥」
何をどう伝えたら良いのか分からない。そもそも開眼者ではない父は、神楽の存在は知っていてもそれ以上のことは知らないのだ。
「でも…でも!きっとこの“眼”が消えたら、茜とか遊馬とか、道明も、きっともう友達ではいられない。」
七海がそう言うと、父は静かに吐息を落とした。
「なあ七海?」
「…うん?」
「その三人は、それで七海と縁を切るような子たちかい?」
父は静かにゆっくりと問う。
「…もう同じものを見られない。同じ世界を共有出来ない‥私が辛くて‥離れたくなる…みんなだってきっと私に気を遣う。これまで通りなんて無理なんだもん。」
七海は泣くことすら出来ずにただただ言葉を零した。
「そうだね。最初からその世界を知らないのと、途中から世界が喪失するのとでは訳が違う。それがどれほど辛いことか…」
そう、父は最初からこの世界を知らないまま、それでも家族と一緒に過ごして来てくれた。今でこそ単身赴任をしているが、七海が中学に入学してしばらくはずっと一緒だったのだ。
「なあ七海?」
「…うん?」
「今はまだ同じ世界を共有出来ているんだろう?」
「…たぶん。」
七海は自信がなかった。そもそも今住んでいる家の周りには、影も妖もさほどいない。湧水池のほとりでは妖は見ることは出来た。避けられたが。
「うん、今はまだみんなと同じ世界を見られている、それなら今の時間を大切にしよう。」
不安はあるが、まだ閉ざされてはいないと思う。
「…うん。」
そして父は少し間を置いて再び口を開いた。
「もし世界が閉ざされたとき…万が一、その時が来てしまったとしたら…」
七海は息をのんだ。そのことを考えると恐怖しかない。ぞわりと首筋に悪寒が走る。
「その時は、父さんと一緒にいような?」
そうだ、もし自分の“眼”が消失したとき、その時には父の蒼介が側にいてくれる。凍り付きそうな恐怖から一転、七海は安堵のため息を漏らす。
「…うん!」
「はは。父さんを頼ってくれてありがとうな。また弱音を吐きたくなったら電話しておいで。」
七海は頷いて通話を終えた。これまで父の孤独を考えたことなど一度もなかった。しかし祖父は父を遠ざけることもしていなければ、兄も父を軽んじることもない。だとすると、自分の不安は考えすぎなのだろうか?
神楽の問題自体は何一つ解決していない。それでも七海は少しだけ落ち着きを取り戻し、しかしユキが呼んでも現れてくれないことに、再び不安を抱えるのだった。
蒼介は七海からの電話を終えた後、ご機嫌で歯を磨き、顔を洗った。
「七海があんなふうに弱音を吐いてくれるとか!いや、喜んじゃダメだ!でも俺頼られたよな!?」
言葉は尽くしたつもりだ。しかし、一族に関する細々したことは蒼介には分からないことだらけでもある。神楽がどうとか言っていたが内容など知る由もない。
「まあ、俺には俺の血を受け継いだ優秀な息子がいるから大・丈・夫っ!」
鷹也が面倒くさそうに苦笑いするのが脳裏をよぎったが、その息子にウインクしてみせる。
「七海!頑張れよ!!」
そう言って淹れたてコーヒーを啜り、少し早めの出社をするのだった。
そしてその頃、鷹也のメッセージアプリが光った。
【たかにーたすけて!遊馬が暴走してて!おれだけじゃむりーー】
送り主は道明である。内容から何が起きたかを正確に予測し、鷹也はスマートフォンをタップした。
【限定のケーキがあるから家においで、と遊馬に伝えて。】
買ってきたジュースもあれば、念の為にと準備した菓子も取り揃えてある。
「ミチも大変だなあ‥」
笑いながら畳の上に寝転がり、拳で自らの頭を叩く。
(あー‥頭いて。…やっぱ良くないな。ユキも出て来られないようだし…さて、どうするかね。)
庭先にぴょこぴょこと妖がやってきて、鷹也の足の上にちょこんと座る。
「どした?」
『ナナミの波こわいー!さっき池いた!こわくてみんなかくれてた!』
鷹也は黙ったまま、妖を撫でて落ち着かせる。
「そのうちきっと落ち着くから。怖くなったらまたおいで。」
『うんー!ありがとタカヤー!タカヤいたらだいじょぶー!』
妖は撫でられて気が済んだのか、再びぴょこぴょこと跳ねて行った。
「まあ、俺もお前らがいるから落ち着くんだけどね。」
感情の波も、生体エネルギーも低値で安定している妖たちは、鷹也の感知にも優しい。相利共生といった関係性なのであった。
「遊馬が来たら騒がしいんだろうな‥」
間もなく終わるだろう静寂の時間を、鷹也はのんびりと味わうのだった。




