掌の眼
朝7時。セットしていたアラームが鳴るその直前、布団からにょっきり手が伸びて、目覚ましは仕事をさせてもらえずに沈黙した。
「あー今日は小テストの日かー‥だる‥学校行きたくないなー」
水澤七海は前髪をばさりとかきあげ、けだるそうに起き上がった。いつもと変わらぬ朝を、いつもと違う喧騒がやってくる。
「おねえちゃあああああん!!」
ドタバタと足音を響かせながら部屋に飛び込んできたのは、妹の流水である。12歳の流水は、母親が長期に留守をするようになってから七海に甘えてくることが多かった。七海と同じ、青みがかった黒髪をショートボブにしており、寝起きのためかあっちこっちに跳ね回っている。
「はいはいーどしたー?」
「どしたー?じゃないの!大変なの!目があるの!!」
七海はぼんやりしたまま、流水の言葉に反応する。
「‥そうだね、私にもあるしね。流水にもついてた気がするよ?」
「ちっがーう!あーもう!!見てよーーぎゃーーー何かまばたきしたーーー!!」
甲高い声で大騒ぎしながら流水は七海の目の前に掌を突き付けた。
「あーそれね。そかそか。」
以前、自分が開眼したときのことを思い出す。きっと何かの見間違いだと思い込み、必死に落ち着こうとしてたな‥。そう考えると、流水が素直に大騒ぎするのが当たり前だったのかもしれない。あの時は霧江さんが気づいてくれて安心出来たのだ。
七海は流水の掌を指先でつんっとつついた。
「きゃーーーいったーーー‥くない?」
流水は恐る恐る自分の掌に反対の手で触れる。
「え?え?普通の手なんですけど?え?まさかこれ‥シール?おねえちゃんのいたずら?」
「‥違うから。」
七海は自らの手を流水に見せた。
「あれ?え?おねえちゃんも?‥でも‥寝てる?」
瞼が閉じており、流水の掌にある眼とは違って眠っているように見える。
「そうなのよねー。私の眼は寝ぼすけみたい。‥というわけで、カバンを持とうが石鹸で手を洗おうが眼には何の影響もないから。これが何なのかは‥ちょっとずつ分かるようになるよ。」
七海はもう一度流水の頭をぽんぽんと撫で、ベッドから降り立った。
「え?待っておねえちゃん。今まで見たことなかったよ!なんで急におねえちゃんにも出たの!?」
手をひらひらさせ、掌と甲を交互に見ながら流水は尋ねる。
「えっとね、今まで見えなかっただけで、手に眼が生えてきたら見えるようになるんだよ。あ、でも見える人は限られるから。ウチの家族もそうだし、茜ちゃんとこも見えるよ。まあ、そういうもんだから心配しなくていいよー。」
「いや心配しなくていいよって言われても!!けど友達とかに見られなくて良かった‥“手のひらおめめ妖怪”とか呼ばれちゃいそうなんだもん‥」
本気で心配している様子の流水に笑いながら七海は自分の掌を見つめた。一度開眼した後、すぐに閉じた七海の眼は、その後再び開けることはなかった。何故なのかは、今もよく分かっていない。
(流水は左手だけか‥でも、私と違ってちゃんと開眼してるんだ‥)
その事実が少しだけ、胸の奥をざわつかせる。しかし七海は気にするのを辞め、身支度を整えた。
「あら二人とも起きてたのね!おはよう!」
声をかけてきたのは、母の妹である霧江だ。数か国語を自在に操れる霧江は、翻訳の仕事をしている。母が長期不在であるために同居して家事をしてくれているのだ。
「おはよう!霧江さん!」
「あら、開眼したのね、流水ちゃん。きれいね。濃紺の虹彩と中心は金なのね!」
二人が挨拶した後、霧江は流水の掌を見て言う。そしてその言葉に流水は首を傾げた。
「え?普通に茶色と黒というかこげ茶の眼じゃないのこれ?」
流水はじっと掌の眼を見つめながらつぶやく。そして七海の方へ向き直った。
「うん、濃紺と金だね。たぶんまだ視る力が弱いからだと思うよ。そのうち同じように見えると思う。あ、鷹兄はまた違う見え方するかな。鷹兄はちょっと特別だからさ。」
七海はそう言って時計を見た。流水にも時間がなくなるぞ、と促すような無言の催促だ。
「朝ごはんの支度はしてあるから、着替えて顔洗ったらいらっしゃい。今晩は流水ちゃんのお祝いだからね!」
朝食はもち麦が混じった白飯、焼き鮭、豆腐の味噌汁、厚揚げと小松菜の煮物に白菜のお新香である。典型的な和食の日もあれば、焼き立てパンにベーコンエッグにサラダと野菜スープな日もある。七海は和食が好きで、流水は洋食が好きなのだ。
「今日はまた冷えるわね。流水ちゃんは寒がりだから、暖かくして行きなさいね。」
新学期になったとはいえ雪景色はあちらこちらに残っており、朝と夜はまだまだ冷え込む。
「霧江さん、今日もお弁当ありがとーー!」
七海と流水はそれぞれ弁当を受け取り、準備をして家を出た。
『おはよ、ナナ』
七海の肩に白銀の狐がちょこんと乗り、そう話しかけてくる。まるで雪を固めて形づくったような、日差しが当たるとキラキラと美しく輝く毛並みについ見とれてしまうのだ。
『おはよユキ、あれ?流水が開眼したから出てきたの?』
普段は姿を見せないユキがめずらしく朝から顕現している。この姿は開眼者にしか見えない。
『うん。数日前から気配があってね、やっぱりそうだったか。』
ユキは七海だけのパートナーともいえる存在であり、守り神ともいえる。名前を付ける必要があると聞いた瞬間、朝日に輝く新雪を思い浮かべて「ユキ」と名付けたのだ。ふわふわで柔らかな毛を撫でるのが七海は好きだった。
「おはよー七海!とユキ!」
途中から合流したのは同級生の茜である。七海より少し背が低く、赤みがかった茶色の髪に同じ色の瞳を持つ。小学生からの付き合いで、家が近いこともあってすぐに仲良くなった。癖のある長い髪をポニーテールにしているためか、一見、活発そうに見える。しかし見た目に反してのんびり屋で、常に一定のペースである。
対して、七海のほうが圧倒的に感情の起伏が激しい。青みがかった黒髪に同じ瞳をもつ七海は、大人しそうに見えるらしい。
「見た目に騙されると痛い目をみるよね!」
茜は、そう言って笑う。
そしてその茜の頭の上には深紅の鳥が止まっていた。
「おはよう。茜とイグニス。」
深紅の鳥はハヤブサを髣髴とさせる小型の猛禽類といった見た目だ。精悍な顔つきに「イグニス」という名がよく似合っている。七海の言葉に羽ばたくようなそぶりを見せた。言葉を交わせるのはパートナー同士だけなので、動きで挨拶を返してくれたのだろう。やはり流水の開眼に気づいて顕現したのだろうか?
「え?‥あ、流水ちゃん開眼したの?」
おそらくユキからイグニスに伝わり、茜に伝わったらしい。
「うん、左手だったかな?片手だったね。」
茜は自らの掌を広げた。
「そっかーおめでとう!今晩はお祝いになるのかな?ウチにも声がかかるね!」
掌に眼が発現することを「開眼」といい、同じような現象が起こる家族が何世帯かある。七海の水澤家の他には茜のいる火乃宮家がそうだった。
「たぶんじーちゃんちでやるのかな。霧江さんが張り切ってたし。」
そんな会話をしているうちに、ユキもイグニスも消えた。消えてしまっても話は出来るが、ふわふわの毛皮がなくなったのは少し寂しい。
同級生ではもう二人、同じような現象が起こる家がある。
「うっす!」
そのうちのもう一人も近所に住んでいるのだ。土門道明、短くカットした茶色の髪がツンツンと逆立っている。長身で体格もがっしりしており、柔道の黒帯と言われても違和感がない。
「おはよ、道明ー」
けだるそうに七海が声をかけると、道明も笑いながら手を上げる。
「お前ってば本当にいっつもだるそうだよなあ。何、明け方までゲームとかやってんの?」
「ちがうってー朝は弱いんだよ」
七海の反論に茜が笑い声をあげる。
「大丈夫だよ!ナナは朝だけじゃなくていっつもだるそう!!」
道明と茜が笑い出し、七海もつられて笑った。
(そういえば確かにけだるいんだよね。‥いつからだろう?)
ふと心に浮上する。考えようとしても何故かいつもそのまま忘れてしまうのだ。今も例にもれず、二人との会話に花が咲き、浮上した疑問が再び沈んでいった。
「あ、そういや流水ちゃん、開眼したんだって?」
二人が話題にするより先に、道明もパートナー(黄金猪 名をロードという)から聞いたのだろう、声をかけてきた。
「そそ。たぶん、今晩お祝いじゃない?」
七海の言葉に道明が少し呆れたような、しかし嬉しそうな声を上げる。
「宴会好きだしなー。まあ、霧江さんの飯美味いから楽しみ!ってか、茜んとこのかーちゃん、またケーキ焼いてくれるのか?」
「あ、きっとそう!」
霧江は料理全般がプロ級にうまく、茜の母はパティシエをしており、こちらは正真正銘のプロである。お祝いの席では、霧江や茜の母、立夏が持ち寄ってくれるため、大人はもちろん子供たちも楽しみにしている。
「…あれ!?」
三人が楽しそうに会話をしていると、その横をピンク色の何かが走り去った。
「「「ウサ吉!?」」」
通常、このパートナーは「式」と言われ、開眼者達に寄り添う。そしてこのウサ吉は、五十嵐遊馬の「式」である。それが単独で爆走しているのだ。
「くっそおおおおお!!」
後から追い付いてきた遊馬が、悔しそうに七海たちのすぐそばで立ち止まる。
「ぴるるるる‥」
耳をパサリとなびかせ、得意げに鳴いた。通常「式」の声はパートナーにしか聞こえないはずだが、なぜかウサ吉の鳴き声だけは全員が聞き取れた。尤も、その意味を理解出来るのは遊馬だけであったが。
「ええと?‥聞きたいことが山ほどありすぎるんだが。とりあえず歩きながら話そうか。」
道明がうながすように声を掛け、三人は学校に向かって歩き出した。
「聞きたいことは三つ。一つ、なぜウサ吉が爆走したのか、二つ、なぜウサ吉の毛色がピンクなのか、三つ、なんでお前がそんなに悔しそうなのか」
道明が落ち着いた声で遊馬に問いかける。まさしく同じ疑問を持った二人も、うんうんとそれに同意して頷いた。以前見たウサ吉の毛色は、淡い若草色だったはずだ。
遊馬はまだ少し息を弾ませ、首筋の汗を掌で拭った。
「俺、走るの速いじゃん?ウサ吉よりもはえーよ?って話してて、競争になった。毛色は知らない。そして完全に負けた!!」
ウサ吉は遊馬の頭の上で「ぴるっ!」とガッツポーズをして見せる。
「…バカなの?」
七海が呆れたように遊馬を見やり、茜は楽しそうに笑っている。道明も苦笑いだ。
「勝てると思ったんだよなー」
「ぴるるっ!」
この二人?の関係は、パートナーというよりも友達同士のようである。どちらも自由気ままといった様相なのは、風系家系が関係しているのかもしれない。
「毛色まで自由とか…ウサ吉、すげえな。」
道明の言葉に「ぴる!」と鳴き声を上げた後、ウサ吉は消えた。
「うーん、ロードにも聞いてみたけど『知らん』って言われた」
「イグニスも『さあ?』って」
「うん、ユキは『ウサ吉だからじゃないか』って」
結局、毛色の謎が分からないまま学校に到着して靴を履き替える。4人とも同じクラスであるため、そのままぞろぞろと教室まで会話しながら歩いて行った。
七海&ユキ 茜&イグニス
道明&ロード 遊馬&ウサ吉




