兄と妹
鷹也が小学校に入る前、七海が1歳を過ぎた頃、鷹也は環に連れられて両親の家に行くことが増えた。七海との交流をするためである。
「ナナちゃん?おにいちゃんよー!」
雅が七海をあやしながら話しかけると、七海は不思議そうに兄を見やった。
「にー?」
恐る恐る手を伸ばして来るので、鷹也は指先にそっと触れた。小さくて温かい手の感触に、ぞわりと鳥肌が立ってしまう。
「七海‥?」
触れたのはほんの僅かな時間であったが、嫌な感触だけではなく、妙に不思議な気持ちだった。
「鷹也、一緒には住んでないけれど、貴方の妹よ。優しくね?」
「‥妹‥」
七海はご機嫌ににこにこ笑っている。雅の腕から抜け出して兄の方へ向かおうとしているらしい。
「にー!」
にこにこしながら尚も手を伸ばしてくるので、鷹也は傍らのぬいぐるみを差し出した。進行方向に現れたぬいぐるみを何だか嬉しそうに七海は掴んだ。
(これなら安心‥かな。)
直接触れなくても、鷹也にとってはそれで十分だった。
「妹は大切に。こんなに小さくて、弱いのよ。‥あなたはこの子を守ってあげるの。」
環はそう鷹也に言い聞かせる。
「‥うん。」
話した内容は理解してくれているだろう。ただ、話したことを理解するのと、理解して行動するのは全くの別問題だ。
「鷹ちゃんはきっと良いお兄ちゃんになるわ。だって優しいもの。」
雅はそう言って笑う。
「そう‥かな?分からないけど、出来ることはする。」
鷹也はそう言ってそうっと七海の頭を撫でた。触れるか触れないかくらいの撫で方ではあったが、言われた通りに出来る範囲でやっているにちがいない。
しばらくは週に二、三度、鷹也の体調や七海のご機嫌に合わせて短時間ながらも、会う機会を設けていった。環が常備菜を作って持ってきてくれるのも、雅にとっては本当にありがたかった。
「お義母さん、いつもありがとうございます。本当は私たちがお礼をしなきゃいけないのに‥」
雅は恐縮してしまうが、環は朗らかに笑う。
「何言ってるの。私だって三人の子育てをしているのよ?遠慮しないの!」
姑と嫁は互いを労い、笑いあった。
(お義母様、厳しい方ってイメージがあったけど、本当に優しくて強い方だわ。)
結婚当初は環を苦手に思っていた雅だったが、鷹也の一件があってから距離が近くなった気がする。
そして秋も深まって10月になろうかというとき、再び鷹也が雅を見て首を傾げた。
「母さんの中から違う波が出てきた。‥まだ安定してないっぽい?」
息子の言葉に、雅は半信半疑で病院へと行った。まだ体調変化の自覚もないために、もう少し待ってからとも考えたのであるが、それでも気になったからだ。
「妊娠されていますね。胎嚢も確認できますので、5週くらいでしょうかね。」
雅はそれを聞いて驚き、そして喜んだ。
「蒼介さん!また鷹ちゃんが教えてくれたの。妊娠したみたい!」
帰宅した夫にさっそく報告をすると、蒼介は嬉しそうに笑ってくれる。
「そうか!ありがとう!ミヤちゃん、安定期まではゆっくりしてくれよ!家事なんて後回しでいいんだからな!」
そうやって労ってくれる蒼介に、雅はにっこりと笑って頷いた。
「お義母様にもお話ししようと思って。‥その‥気にしないで甘えなさいって仰って頂いたし。いずれお義父様とお義母様が年を取ったときには、今度は気兼ねなく私たちに甘えて頂くためにも!」
雅のそんな言葉に蒼介は本当に嬉しそうに笑った。父や母のことは尊敬もしていたが、雅にとっては舅と姑だ。やりにくいこともあるだろう、と、引っ越しのときも異を唱えることはしなかった。
「そうだね、母さんも喜ぶんじゃないかな。そう考えると、今は丁度いい距離かもしれないね。」
夫婦はそう言って笑い合った。まだ男の子か女の子かは分からないが、きっと更に賑やかになるだろう。予定日が6月7日、七海とちょうどひと月違いになりそうだ。
「ナナちゃんも、お姉ちゃんになるのよ?」
しかし七海は目をぱちくりさせるだけで、ご機嫌におもちゃを掴んでは口に運ぶ。
「さすがにまだ分からないか。」
蒼介と雅は七海に笑顔を向け、そっと抱き寄せたのだった。
「にー、こない?」
何度か交流を進めるうちに、七海は鷹也が来るのを心待ちにするようになった。
「うーん、今日は来ないかも。明日かしらね。」
雅の言葉に途端にしょんぼりしてしまう。
「お兄ちゃん、好きなの?」
「ん!しゅきー!」
七海は笑顔で答え、雅はそんな娘を抱きしめた。最近はスポンジボールを転がして遊ぶのが、七海のお気に入りだ。兄が一緒になって遊んでくれるのが嬉しかった。
鷹也が来ると、七海は大はしゃぎで玄関へと走る。
「にー!あー!」
体当たりしそうな勢いであるため、雅は気が気ではない。しかし鷹也は表情を変えることなくスッと躱し、七海が転ばないよう服を掴んで体勢を整えてやる。
(‥道場での稽古って‥こういうことに活きているのね‥)
雅はなぜ義祖父があんなに幼いうちから道場通いをさせたのか、ようやく合点がいった。よく見ていると遊びの中でもその技術はいかんなく発揮され、七海が転倒する前にそっとサポートしたり、おもちゃのボールをあらぬ方向に投げられても、簡単にキャッチしたりするのだ。
「七海、ここに転がせる?」
「あー!」
鷹也が床の上に手を置き狙わせる。狙い通りに転がせたら微かに笑みを浮かべて、「七海は上手だね」と、穏やかに言葉をかけるのだ。
「にーここー!」
今度は七海が床に手を置いて、床をバンバン叩く。
「いくよ?」
ゆっくりと転がして七海がキャッチするとやはり穏やかに褒める。なぜか鷹也が穏やかに言うと、七海のテンションは上がる。しかし雅が鷹也の真似をすると、なぜか七海は不機嫌になるのだ。雅はオーバーアクションできゃーきゃー褒めないと、七海には届かないらしい。
(面白いわねえ‥)
子供たちの観察をしながら、雅と環は穏やかに笑うのだった。
「七海がヤキモチを焼くかもしれないわね。‥嫌じゃなかったら、貴女が入院中は私が家に滞在しましょうか。」
雅が臨月に差し掛かると、環はそう話してくれた。雅にとって、この申し出はありがたかったが、それはそれで別の心配がある。
「すごくありがたいです。‥でも、鷹ちゃんは独りぼっちになっちゃいませんか?」
「そうね、でも鷹也にとっては、七海を家で預かるよりは独りで過ごしたいと思うと、そう思うわ。」
本当ならば七海を預かるのが一番だ。しかし学校に通うようになってから、鷹也の体調が思わしくない。ここに七海が滞在するようになってしまったらと考えると、不安であった。
「そうですか‥鷹ちゃんも‥大変なのね。それではお義母様、お言葉に甘えさせてください。」
雅がそう言ったことで、環はほぼ毎日のように雅の家へ通った。
「にー、いないー!」
環だけが訪れると、七海が癇癪を起こして泣くことも多かった。それでも環は七海と一緒になって遊び、絵本を読み聞かせて辛抱強く付き合ってくれる。
合間に家事も手伝ってくれ、食事の準備は環が取り仕切った。これまで蒼介がまとめて常備菜を作っていたが、その手間も省けたことで七海と共に過ごせる時間も増えたのだ。
「七海はもうすぐお姉ちゃんだぞー?」
「ねーた?」
「そうだぞー!七海には妹が出来るからな!」
「いもー‥?」
七海がどこまで理解しているのかは分からなかったが、蒼介と雅は七海のケアに全力を注ごうと、二人で色々と話し合った。
そして鷹也が小学校に入学した後、七海の下にもう一人、妹が産まれた。予定日より少し早い、6月1日生まれである。流水と名付けられ、4人暮らしが始まった。
再び赤ちゃんが産まれたことで、鷹也が両親の家に行く機会も減った。泣き声により鷹也が体調を崩す恐れもあったし、お兄ちゃん大好きな七海が、鷹也にべったりになる可能性もあったためだ。何より、小学校入学後に鷹也が体調を崩すことも多かったことも大きい。
「妹、もうひとり‥か。」
鷹也は七海に対しての気持ちも、よく分かっていなかった。近付きたくない気持ちと、何となく放っておけない気持ちと。ただ七海が嬉しそうに自分の所に走って来るのは、嫌ではなかった。
「妹たちを守る‥」
祖母に言われたことは覚えている。出来る限りのことをしよう、鷹也はそう考えて湧水を眺めた。




