後編
朝起きると目が真っ赤になっていて、頭痛が酷かった。
昨夜は泣きながら眠ったからそのせいだろう。
デメルに見られたら、理由を聞かれそうだ。
なんとか腫れを引かせようと、氷水に浸した布を目に当てていると、メイド人形が何種類かの服を差し出してきたので、縁にレースのついた白いブラウスと、淡いピンクの小花模様のスカートを選び、胸元にはピンクのリボンを結んだ。何となくデメルとお揃いな気がして嬉しい。
朝食を食べに居間へ向かうと、デメルは居なかった。
「先ほどお客様がお見えになりまして、客間にいらっしゃいます」
怪訝そうな私にトリュフさんが教えてくれた。
執事のトリュフさんは、私を除けばこのお屋敷唯一の人間だ。
魔法人形は主人の命令に忠実に従うが、己の頭で考える力がないため、屋敷を管理することは出来ない。
だからトリュフさんは魔法人形に命じて清掃や調理、屋敷の調度品・備品・照明などの保守を行なっている。
いつもデメルが座っている席は空席で、私はそのことを寂しく思いながら自席に座り、静かに食事を始める。
トリュフさんは同じ席に就くことはないので、一人での食事となるが、出されている料理は美味しいはずなのに、味気なく感じた。
機械的にスープを飲み、パンを齧り、サラダを食べる。
デメルは朝はほとんど食べられないらしく、コーヒーとヨーグルトやフルーツしか食べないけれど、毎朝、必ず私に付き合ってくれる。
今日は雨だから憂鬱だの、昨夜は夢見が悪かっただの、話すことは他愛もないことばかり。
でも、そこにデメルが居てくれるだけで、私は美味しく食事が出来ていたのだ。
改めて彼の優しい心遣いを想う。
彼はいつだって私のことを思い遣って行動してくれる。
それじゃあ私は?
メインを食べ終えて、綺麗にカットされたオレンジにフォークを伸ばしかけた手が止まった。
彼に血を提供する以外に何をしている?
ここでの生活を思い返す。寝て起きて食べてデメルと話して血をあげて、これで終わりだ。
これ以外何もない。
気付いた私は愕然とした。
私は“彼のためにほとんど何もしていない”
これでは嗜好品扱いをされても、文句は言えない。
衝撃が過ぎ去った後、訪れたのは焦燥だった。例えデメルが私のことを嗜好品のように考えていたとしても私はずっと彼の側にいたい。
でも血以外にデメルにとって何の実用性もない今の私。もしも私よりも美味しい血を持つ人間が現れたら?
私は用済みとされてあっさり捨てられてしまうんだろうか。
焦りは不安へと繋がる。気持ちが落ち着かないまま朝食を終えた。
そんな私にトリュフさんが気遣わしげに尋ねてきた。
「お嬢様、どこかお加減が悪いのですか?」
「少し頭痛がありますが大丈夫です。食欲もありますし」
「頭痛ですか。お嬢様ひょっとして昨晩も充分にお眠りになれなかったのでは?」
私が最近、睡眠不足であることは誰にも言っていないのに、デメルはもちろんトリュフさんまでが把握していることに驚く。
「何かお悩みがあるのではないですか? 私でよろしければお話をお聞きします。坊ちゃんもとても心配されていらっしゃいましたよ」
孤児院で世話役の女達に虐待されていた頃。孤児院を飛び出して飢えて下町を彷徨っていた頃。あの時に比べれば今は天国だ。
私はデメル達に保護されて恵まれた生活を送っていられるが、孤児院にいる私と同じ境遇の子供達などまだ辛い日々が続いているのだ。
こんな恋愛ごとで睡眠不足に陥るなんて、脳みそがお花畑にも程がある。
私は頑張って笑顔を作った。
「悩みなんてものじゃないんです。本当にくだらない、トリュフさんにお話するのも恥ずかしいことで。もっと前向きに考えて元気出しますね! 心配をおかけしてすみません」
元気さをアピールしようと立ち上がって胸をドンと叩こうとした時、デメルの怒鳴り声が響き渡った。
「しつこい! だからっ。俺にはアイツがいるからいいって言ってるだろ!」
瞬間、私は走り出していた。トリュフさんが呼び止める声が聞こえたが振り切ってデメルの声の聞こえた方向へ向かう。
玄関に至る廊下の途中にデメルを発見する。しかしデメルのすぐ側に金髪の女性の姿を認め、私は息を呑んだ。
ザッハトルテ書房の経営者の一人娘フォレノワール・ザッハトルテ嬢。
デメルの愛蔵書の九割はここから購入したもので、父親が挨拶に来るのにいつも同行していたから、私も見覚えがあった。
彼女は父親の傍でいつも熱に浮かされたような眼差しでデメルを見つめていたっけ。
「私は貴方のことが好きなのですっ! 貴方の側に置いてもらえるなら何でもします。私を貴方の妻にして頂けるのでしたら、貴方のお望みの書は全て手に入れてみせますわ。我が国で随一の蔵書と流通を誇るザッハトルテ書房でしたら、どんな貴重書でも一般に出回っていない専門書だって、取り寄せることが出来るのですもの」
デメルの右腕に抱きつくような形で密着したフォレノワールは、呆然と立ち尽くす私を見るとどんな男性でも魅了されてしまいそうな美しい笑みを浮かべた。
「貴方が吸血鬼で女性の血を好むことも、もちろん理解しています。望まれれば私の血だって毎日差し上げます。そちらのお嬢さんの血を手放し難いということでしたら、私がお嬢さんを侍女として召し抱えて、貴方に血を提供するように計らいますわ」
「そちらの………? って、ショコラ!」
私に気付いたデメルが焦ってフォレノワールを振り払おうとするが、彼女はしがみついて離れない。
「放せよお嬢様! 好き勝手なこと言いやがって。いい加減にしろっ」
彼女の言うように、私が侍女として雇われてデメルのために血を提供して、更には掃除やデメルの身の周りのお世話などをすれば、ずっと側に置いてもらえるだろうか。
血だけでない、私がここに居てもいい理由が出来るだろうか。
だとしたらこれは悪い話じゃない。
ただ、デメルの隣にいつもフォレノワール嬢がいる。それさえ、我慢、出来れば………。
鼻の奥をつく痛み。駄目だ。我慢なんて出来ない。今でさえ、デメルに密着するフォレノワールを見ているだけで耐えられないのに。
「ショコラ!? 大丈夫かっ? おいこら放せって!」
熱いものが頬を伝った。ついに涙をこぼした私に慌てるデメル。
こんな状況なのになんて優しい。
フォレノワールは同性だからか恋敵だからか容赦はなく、挑むような眼差しをこちらに向けた。
「ねぇ、ショコラさん。貴女にとっても悪い話ではないでしょう? 聞けば貴女は彼に血を提供する以上のことをしていらっしゃらないそうですね。それだけでこの方を独占出来るなんて、そんな甘い考えは抱いていらっしゃらないでしょう? 何も出来ない貴女よりも私の方が何倍もデメル様のお役に立てますわ」
「私は………」
言葉を紡ごうとして、口を閉ざした。彼女に反論出来るだけのものを私は持っていない。
血以外でデメルの役に立てない。デメルに申し訳ない。
湧き上がってきたのは、強い自己嫌悪とデメルへの申し訳なさだった。
「デメル………ごめんなさい!」
「ショコラ! 待てっ」
私は玄関に向かって駆け出した。デメルが必死に私を呼ぶ声を無視して、屋敷を飛び出した。
情けないことに私は敵前逃亡をしたのだ。
フォレノワール嬢に惨敗した私は、お金もなく行くアテもなく、図書館に来ていた。
日光の下に長時間居られないデメルの外出先は図書館か美術館か演劇場など屋内が大多数だ。
時には裁判所に赴いて裁判を傍聴することもある。
彼は大抵私も一緒に連れて行ってくれるので、一人で来たことはなくても、場所は知っていた。
図書館。本が大好きなデメルの特別な場所。この図書館は国内では蔵書数も規模もさほどではなく、利用者数も多くはない。
大衆受けするような本よりも、研究者や学者しか知らないような学術的専門書や、マニア垂涎の貴重な本がたくさんあるようで、デメルのお気に入りだった。
その上、ここには吸血鬼の生態について記した本や吸血鬼を扱った文学書、歴史書なども数が揃っており、デメル以外の吸血鬼達も多く出入りしているとか。
何も考えずにここに来てしまったが、丁度いい。もっとデメルの役に立つためには、彼のこと、ひいては吸血鬼のことをよく知るべきだ。
私はデメルと度々訪れた図書館の中を探索し始めた。
「お嬢さん? もう夜だよ」
肩を叩かれて私ははっと我に返った。気付けば窓の外は闇に沈んでおり、図書館の中はランタンの柔らかなオレンジの光で満たされていた。
「血を美味しくする食事法」「吸血鬼と彼を支えた女たち」「気配り上手な侍女になるための心構え」「いつまでも健康でいられる食とは」エトセトラエトセトラ。
今の自分に必要と思える本をかき集めて、ひたすら読んでいたはいいが、こんなに遅くなってしまうとは。
デメルやトリュフさんが心配しているかもしれない。
「今日は君のご主人様は一緒じゃないんだね」
「すみません。ガトーさん。閉館時間に気づかなかったみたいで」
「いいんだよ。本が好きな子はいつまでいてくれても。でも、たぶん君のご主人様が心配しているだろうからね」
ランタンに照らされた髪は赤い。でも、彼らが好む血のような鮮やかな赤ではなく、枯れかけた紅葉のような茶色がかった赤で、彼の人柄のような柔らかな色合いだった。
穏やかに笑う彼はこの図書館の館長であり、デメルを除けばただ一人の吸血鬼の知人だった。
見た目は二十代後半の青年だが、実際の年齢は遥かに上だろう。
「教えてくださってありがとうございます。私、もう帰りますね」
本を書架に戻そうと立ち上がったが、くいっと腕を引かれ体勢を崩した。その身体を両腕で羽交い締めにされる。
「ガトー………さん?」
「前から気になってたんだよねぇ。あの血嫌いのデメルを骨抜きにした特別な娘」
「ちょっと、放してくださいっ」
笑う彼の口元からはデメルのものよりも鋭い牙が覗いて私はぞっとした。身をよじっても拘束が緩むことはない。
首筋を舐められ、全身に鳥肌がたった。
「別に彼から君を横取りしようってわけじゃないんだ。生まれてから、何十年も血を飲まないできた彼が唯一夢中になった君の血。どれだけ美味なのか、その血をちょっと味見してみたいっていう、好奇心。ただ、それだけだから」
「嫌っ。放してっ! デメル助けて!!」
“君の負担になるほど吸わないから” 耳元でそう囁かれ、泣き叫んだ、その時。
「動くな」
「おやおや。ようやくご主人様の登場か」
ガトーさんの頭に押し付けられた金属の塊。銀色にきらめく銃口は今にも火を噴きそうで、私は別の意味で恐怖を抱いた。
ガトーさんの背後に立ち、短銃を突き付けるデメルの表情は前髪で隠れて見えないけれど、その彼らしからぬ押し殺した声音から怒りの大きさが分かる。
「時間切れか。残念だな。どれほどの味か一度だけでも味わってみたかった」
「絶対に許さない」
「ちぇっ。ケチ、少しくらいいいじゃな、ぐっ」
ゴリゴリと頭に銃口をめり込ませたデメルに、万歳のポーズをして、ガトーさんはようやく私を解放した。
ホッと息を吐いたところで、膝がガクガクと震えて倒れそうになる。
デメルの左腕が肩に回り、右腕が素早く膝裏をさらったと思ったら、彼に軽々と抱き上げられていた。
華奢で丸太一本持てない少年のような外見をしているくせに、吸血鬼である彼は人間を上回る筋力を持っている。
私一人の体重など軽いものなのだ。
「あの、私歩けるから降ろして………」
降りようと身じろぎした私を一瞥したデメルは、初めて見るような冷たい表情をしていた。そんなデメルを見て私は凍り付く。口は悪いけれどこんな眼差しを向けられたことがなかったから。
「またね、デメル。お嬢さんもまた。今度は二人でおいで」
何事もなかったようにのほほんと笑って、ガトーさんは手を振った。そんな彼の横をデメルは無言で通り過ぎる。
図書館の外に出ると、馬車が待機していた。御者は例のごとく魔法人形だ。降りる、という私の声を無視し、デメルは私を抱いたまま馬車に乗り込む。
そして、夜の闇の中を走り出した馬車の中で、私は彼に追い詰められた。
闇に浮かんだデメルの瞳が緋く光り、抵抗する間もなく、乱暴に首筋に吸い付かれる。
「ぃつっ」
痛みに声が上がるが、デメルは吸血の手を緩めることはない。ガトーさんに舐められたのと同じ場所を執拗に舐め、強く吸い上げて、彼はその憤りを容赦なくぶつけてくる。
頭の中が真っ白に染まるのと同時に、全身から力が抜ける。いつもならここで一旦、ひと呼吸置くはずのデメルは攻めを止めない。
「許さないからな。俺から逃げようなんて。絶対に許さない!」
「んぅっ」
デメルの激しさに翻弄され、荒く呼吸を繰り返す私の唇に彼の唇が重なる。次の瞬間、まるで吸血するかのように激しく口内を吸われ、血どころか垂液も呼吸さえも奪われた私の意識はやがて朦朧としてきた。
「この甘い血も、ショコラの身体も、ショコラの心も、全部俺の物だ」
彼に縋るように抱きすくめられ、悲しげな呟きを聞きながら、私はついに気を失ったのだった。
目が覚めると、そこはデメルの寝室のベッドの上だった。横たわる私を見下ろすデメルの表情に怒りの色はなく、無心に私の髪を梳いている。
「いつも思ってたけど、お前の髪はチョコレートみたいな色だな。甘そー」
摘んだ髪をしげしげと眺め、パクッと口に咥える。
「甘いですか?」
「いんや。ぜんぜん」
思わず聞いてしまった私に、否と答えたデメルは髪の毛を戻すと、真剣な顔になり今度は頰に触れてきた。
「さっきはやり過ぎちまったけど、俺は謝らない。だってお前、俺が間に合わなかったら、もっとひどい目に遭わされてたからな」
ガトーさんはそんな酷い吸血鬼なんだろうか。私の負担にならない程度の吸血と言っていたけれど。
「バカ! 初めての吸血で俺に殺されかけたのを忘れたのかよ」
頰をギュッと抓られた上、横に引っ張られた。
「お前の血は、なんて言うか、理性がぶっ飛ぶんだよ。普段はお前に無理させたくないから、抑え目にしてるけどさ。本当はもっと、もっと………」
彼の瞳が赤くきらめいて、私はびくりと全身を硬直させた。彼の望みならいくらでも、と思うがこのひどい倦怠感や身体の重さからして、これ以上吸われるとまずい。
デメルもそこは分かっているのか、焦れたように頭をかきむしると、身をかがめて頰に小鳥のついばみのようなキスを落とした。
「今はこれで許してやる。“次”からは覚悟してろよ」
そのふて腐れた顔はもうすっかりいつものデメルで、意識を失う前の怖さはなかった。
ホッとしたのもつかの間、今度は説教が始まった。
「だいたいお前はっ。なんであそこで逃げ出すんだよ! あのお嬢様よりも、この世の誰よりも俺に好かれてるってのに、いつも自信なさげで悩みまくってるし」
“この世の誰よりも俺に好かれてる”
なんだかとてもすごいことを言われてしまった気がする。
顔がじわじわと熱を帯びていく。“ショコラ顔真っ赤だぞ” なんてケロリとしているデメルは、発言の意味を理解出来ているんだろうか。
「だって。フォレノワールさんの言ったことは全部その通りだから」
「俺はお前に血以外で役立てなんて言ったことないだろ」
「でも役に立ちたいんです! だって、私はデメルのことが大好きだから」
今度は私も負けじと攻めに出た。デメルの白い顔が火を吹かんばかりに赤く染まった。
「デメル。顔が真っ赤ですよ」
「おいこら、不意打ちは卑怯だろ!」
「デメルだって不意打ちしました。おあいこです」
チッと舌打ちした彼はふいっとそっぽを向いた。
どさくさに紛れて告白してしまったけど、彼はなんて答えるんだろう。
ドキドキしている私がいる。
「ま、お前のことは俺が今まで通り美味しく頂いてやるから、これからは俺の“奥さん”として、俺の役に立てよ」
「喜んで」
ニヤリと牙を覗かせて笑ったデメルは、チョコレートを齧るように、私の唇に噛み付いたのだった。




