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恋に落ちたら負け

作者:山吹ミチル
 ジェシカはとても退屈していた。
 だからこれはほんの出来心というか、悪意のない遊び心だったのだ。誰かを貶めようなどというつもりは全くない。
 そう、たとえ階段の陰で、人に聞かれることを恐れるように、こそこそと三人の若い男女が修羅場を演じている様子を、覗き見しているのだとしても。

「いい加減に目を覚ますんだ、アンナ嬢。こいつが本気だったことなんて、一度もないんだよ」

 焦燥感を漂わせながら、男性の一人が女性に言い聞かせる。

「そんな、嘘よ。ねぇクリフォード、あなたいつもわたしが一番魅力的だって言ってくれていたわよね。綺麗だって、他の女性なんか目に入らないって、あんなに熱い眼差しで囁いてくれたじゃない。あれが本気じゃないなんてことあり得ないわよ」

 白熱し、声を押さえることをすぐに忘れそうになる二人に対し、もう一人はやけに冷静だった。

「……僕はそんなこと言っていたかな? アンナ嬢」

 首を傾げる男は、とても美しかった。もし劇場の舞台などに立っていれば、顔だけで客寄せができそうなくらい、女性に好まれる容姿をしている。

「ほら見なさい! こいつは君を弄んでいたんだ!」
「そんな……! 嘘よ、クリフォードはそんな人じゃないわ、そうよね?」

 懇願するように見つめる可憐な女性に向かって、男は優しい笑顔を浮かべた。

「ああ、そうだね、アンナ嬢。別に弄んでいたつもりなんてないよ。だって君がここまで本気にしているなんて思っていなかったから」
「クリフォード……!」
「アンナ嬢!」

 卒倒しそうになっている女性を、もう一人の男性が支える。
 しかし、そろそろ声が大きくなりすぎていることに気づくべきだとジェシカは思った。
 彼らの周囲には全く人がいないわけではなく、少し離れた場所で、アンナと呼ばれている女性の弟が見張り役をして──させられているのたが、ここまで声が大きくなれば、見張りの意味などなくなってしまう。
 ちなみにジェシカは絶対に見つかりっこないという確信のある場所に隠れていた。
 まさか舞踏会の招待客である、花婿探しに精を出すべき若い女性が、壁に目立たぬように設置された小さな使用人用通路の扉の中にいるとは、紳士淑女の方々は予想だにしないだろう。
 なぜこんな所にジェシカがいるのかというと、舞踏会が退屈すぎて、人目のない場所で息抜きがしたかったからである。
 テラスも中庭も会場の近くにある階段下も、いつ誰が来るかわからない。この場所を見つけた時、ジェシカは自分のことを天才だと思った。

「アンナ嬢、もうわかっただろう? こんな奴は君に相応しくない。もう忘れるんだ」
「そうだね。僕も彼の意見に賛成だ。君は思っていたよりも面倒な人みたいだし、僕がちょっと君を贔屓したからって、結婚したがっているなんて、勘違いされたら堪らないよ。あんなのはただのゲームみたいなもので、君はプロポーズされるまでは、誰に何を言われようと本気にしちゃいけなかったんだよ」

 可哀想なものを見る目で、美貌の男はアンナを見た。
 彼女の顔はもう蒼白になっている。

「クリフォード、その恥知らずな口を閉じろ!」
 アンナを支えている男が軽蔑の眼差しをして唸るように言うと、彼は肩を竦めて黙った。
「さあ、もう行こう。こいつとは今後関わっちゃいけない」

 俯いて何も言えなくなっているアンナは、抵抗もなく男に連れられて行く。無意識のように震える手が男にすがっていた。
 残された男は彼らが遠ざかると、大きなため息を吐いた。全く馬鹿馬鹿しいと見下すような表情で。
 傍観を決め込んでいたジェシカも、これには少しムッとした。
 しかし、そもそもアンナのほうもなかなか嫌なやつではあったのだ。男性には純情で心優しい女性だと思われているようだが、金持ちの娘で美人でもある彼女は、容姿に恵まれておらずお金もない娘が、男性に相手にされていないと、可哀相ねと楽しげに言う人であった。
 ざまぁみろとまでは思わないが、同情する気は起きない人間性だ。
 どちらにしろ部外者であるジェシカが首を突っ込むのもおかしい。我関せずでいるのが一番よさそうだ。ジェシカは傍観者を貫くことにした。
 そして結局、彼がその場を離れるまで隠れ続けたジェシカは、屋敷の使用人と鉢合せして、奇妙な目で見られ気まずい思いをしたのだった。


 舞踏会場へ何食わぬ顔で戻ったジェシカは、壁沿いに並べられた椅子の一つに座り、扇を開いて口元を隠した。
 既に帰りたくて仕方がなくなっているものの、今日は二時間はここにいるようにと、両親から厳命されているので、帰るわけにはいかない。
 しかしたまにしか舞踏会に出席しない、美人でもないジェシカをダンスに誘う人間なんて、いたとしても家柄しか見ていない、世間的にも受けの悪い男性ばかりなのだ。ジェシカはこの二時間が無駄に終わることをほとんど確信していた。

「やはり、噂の彼は評判がよろしくないのね」

 ピアノの伴奏をぼんやり眺めていると、いつものように誰かの噂話が耳に入ってきた。隣を見ると、娘のお目付け役らしき夫人二人が話をしている。

「ミスター・ベイルのことね。ええ、何でも都市にいた頃から、いろんな娘と仲よくしていたそうよ。女性の気を引くのが大好きらしいですわ。まあ、あのお顔ですものね。でも娘のほうが本気になると、途端に冷めるという話でしてよ」
「まあ、お遊びが好きな性分というわけですのね」
「そのようね。でもあのお顔で甘い言葉など囁かれたら、世間知らずの娘など、あっという間にのめり込んでしまいますでしょう? あれなら人妻に手を出すほうがましだと言う人もいますわ」
「でも彼はご次男なのでしょう? そんなことばかりしている余裕があるのかしら。せっかく綺麗なお顔をなさっているのだから、お金持ちの娘を捕まえなくては、将来が不安なのではなくて?」
「ええ、ですからアンナ嬢には本気なのではないかという噂ですわ。この町一番の資産家の娘ですもの」

 残念、はずれ。
 ジェシカは心の中で呟いた。
 そのアンナはついさっき振られてしまった。ミスター・ベイルとは、修羅場を演じていた、綺麗なほうの男だろう。やはり彼は先程の印象のままの人物らしい。

「そうかしら? 彼ならもっと大物を狙えるのではなくて? この町一番の資産家の娘と言わずとも」

 もう一人の夫人が冷静に否定した。
 小さくも大きくもないこの町の社交界に出入りしているのは中流上位階級アッパーミドルクラスの人間ばかりである。つまり彼の狙いは貴族の娘ではないかと言いたいのだろう。

「どちらにしろ、いくらとびきり顔がよくても、娘にはよくよく関わってはいけないと言い聞かせなくてはいけませんわね」

 二人の夫人の結論はそこに到達したらしかった。彼は大事な娘を逆上のぼせさせた挙げ句に、あっさり捨てるかもしれない危険人物ということなのだ。
 まあ母親からするとそうなるでしょうね、とジェシカは呑気に思った。
 なんとなく聞き耳を立ててしまったが、そんなに面白い話でもなかった。やっぱり退屈だ。もう帰ってもいいだろうか。
 欠伸を噛み殺していると、隣からまぁ、と驚きの声が上がった。

「ミスター・ベイルですわ。噂をすれば」

 ジェシカは正面に視線を向けてみた。するとあのアンナ嬢を振っていた男性がこっちへやって来る。
 足取りからしてこの壁際の椅子に座っている誰かに用があるのだろう。とくれば、紳士のダンスの誘いを辛抱強く待っている淑女の誰かを誘いに来たに違いない。
 いずれにしろジェシカはそれを他人事として見ていた。特に興味がなかったのだ。まして年頃の娘らしく、自分のところへ来てくれるかもしれないという期待や緊張を持つこともない。
 だから、彼がジェシカの目の前で止まった時も、思わず左右を確認してしまった。彼が間違いなく自分を見ているにも関わらず。

「僕と踊っていただけませんか? ジェシカ嬢」

 優雅に右手が差し出される。

「……わたしとですか?」

 驚きや恥じらいをもって言っていたとしたら、可愛らしかったかもしれないセリフを、ジェシカは怪訝そうに、確認のためだけに口にした。
 彼がこんな風にジェシカに声をかけるのは、別におかしいわけではない。何せ二週間ほど前に、兄を介して挨拶だけは交わしているのだ。それに一度ダンスに誘ったくらいで、好意を持っていることにはならない。知り合いの令嬢を気まぐれに誘うことくらい誰にでもある。

「もちろん、あなたです。先約がおありですか?」
「いいえ、ありませんわ」

 こういう時に、自分と踊るには順番待ちをしてもらわなくてはいけないなどという、くだらない見栄を張るのがジェシカは嫌いだった。

「では、どうかこの手を取っていただけませんか? 可愛い人」

 彼がふわりと微笑む。周囲から息を飲む声がいくつも聞こえてきた。
 普段から眼福ものの顔面をしているが、笑うと三割増しになるらしい。ジェシカはつられて笑ってしまった。

(さすが、色男!)

 称賛の言葉を贈りたくなる。
 彼は先程とは全く雰囲気が違っていて、物腰柔らかで親しみやすそうに見える。
 確かにこれは、コロッとやられてもおかしくはない。もしジェシカが容姿に多少なりとも自信があったならば、先程の光景や噂話を聞いていても、アンナのような状態になっていたかもしれない。うっかり絆されそうになった。
 迷ったものの、ジェシカは彼の手に手のひらを重ねた。断る理由がなかったからでもあるが、これで帰ってからお小言を食らわずにすむという打算が働いたから、というのが大きい。何せ一度もダンスに誘われずにぼうっとしていたことが知られれば、両親から何を言われるかわかったものではない。とにかく〈壁の花〉になることだけはやめてくれと言われているのだ。
 ダンスホールの中央へ行く途中、視線を感じて隣を見上げると、彼と目が合った。にこりと笑顔を向けられる。

「どうかなさいましたの? ミスター・ベイル」
「クリフォード、と呼んでください」
「え?」

 到底、親しいとは言えない間柄だというのに、ファーストネームで呼べと言われてジェシカは戸惑った。
 なぜかと聞こうとしたが、ちょうど新しい曲が始まってしまう。ダンスがあまり得意ではないジェシカは、曲に集中しなくてはいけなかった。
 そして何とかミスをせずに踊り終えると、クリフォードはジェシカを元の場所に連れて行かず、軽食が並べられているテーブルへ向かった。

「小腹が空いてしまったんです。付き合っていただけませんか?」
「構いませんが……」

 少し何かがおかしいと、ジェシカは思い始めた。だがそれが何なのかはわからない。まさか彼が平凡顔の、特徴といえばちょっと吊目なだけという程度のジェシカを女性として気に入ったなんてことはあり得ないだろう。家はそこそこ金持ちではあるが、アンナほどでもないのだし。
 目線を上げると、またあの笑顔と遭遇する。ジェシカは今度もつられて笑っていた。

「あなたは笑うととても可愛らしいですね」
「えっ?」
「普段は心の内を見せないような顔をしているのに、笑うと本当は感情豊かな人なんだろうなと思わせられるんです。あなたがいつもは何を考えているのか、知りたくて仕方がなくなってしまうのですよ」

 柔らかな口調で、何かを訴えるような熱心な目をして、こんなことを言われれば、口説かれているのかと疑いたくなる。

(いえ、待って。口説かれているの?)

 状況とセリフだけで考えたならば、これは口説かれているはずだ。しかしそれをしているのはクリフォードであり、されているのがジェシカである。
 ジェシカはハッと衝撃を受けた。
 そうだ。相手はクリフォードである。
 女性の気を引くのが大好きで、それをゲームみたいなものだと言ってしまう人間。本気になるなんて馬鹿らしいことなのだ、彼にとっては。
 これはゲーム。そして彼の次の遊び相手に選ばれたのが、なぜかジェシカなのだ。
 ジェシカは念のためにと、クリフォードに水を向けてみた。

「あなたがとても魅力的に笑うものですから、取り澄ましていようと思っているのに、つられて笑ってしまうのですわ。何を考えているのか、教えていただきたいのはわたしのほうです」

 クリフォードは笑みを深くした。

「僕が考えているのは、どうしたら今日のあなたを一人占めできるのかということですよ」

 小説や芝居でしか聞いたことのない言葉を言っている人物が目の前にいる。
 これは確定だ。もう絶対にそうだ。ジェシカは興奮した。

「あら、一人占めにして何をするおつもりなの?」

 この返答が意外だったからか、クリフォードは微かに目を丸くしたが、ジェシカが面白そうに口角をあげているのを見ると苦笑した。

「そうですね。僕の最初の使命は、あなたにもっと僕と一緒にいたいと思わせなければいけないことのようです。少し急ぎすぎたようですね?」
「そんなことはありませんわ。あなたとお話するのは楽しいです」

 どこか演技めいた言い方をする彼に、ジェシカは心からの言葉を返した。
 クリフォードのルールに則るならば、自分に気がある素振りを見せる彼に、ジェシカは靡きそうで靡かない、という態度を貫けばいいはずだ。
 それは何だか即興芝居を実演しているかのように思えて、ジェシカはワクワクしてきた。

「随分と無防備なことを言うのですね。それなら僕はあなたの傍にいることを許してもらえたのだと解釈してしまいますよ」

 いちいち女性の自尊心をくすぐる言い方をするのはさすがだ。

「まぁ、それは困りますわね」

 言っている内容とは裏腹に、ジェシカは楽しそうに微笑んだ。それを見たクリフォードも嬉しそうに笑う。二人はにこにこと見つめあった。
 これは、ジェシカにとってはクリフォードの挑戦を受ける、という意思表示であった。

(こんな楽しそうなこと見逃すわけにはいかないわ! これで舞踏会に来るのが苦痛ではなくなるわね)

 ジェシカはとても退屈していた。
 だからこれはほんの出来心というか、悪意のない遊び心だったのだ。

  ◇ ◇ ◇

「ようやく会えましたね、ジェシカ嬢」

 舞踏会場に入って知り合いとの挨拶を終えた頃に、クリフォードが声をかけてきた。ジェシカは首を傾げる。

「三日前に会いましたわ?」
「もう三日も経ったのですよ。その間、僕はずっとあなたがどこかに現れないかと期待して、あちこち出歩いていたのです」

 窺うような視線をチラッと向けたクリフォードは、ジェシカに何かを求めているようでもある。しかしジェシカはそんなことには気づかず、若干呆れていた。

(暇なのかしら、この人……)

 いや、多分嘘だ。舞踏会などに出歩いていたのは事実だとしても、ジェシカに会いたいがためなわけがない。

「わたし舞踏会はとても苦手なんです。でも今回は前回から三日後なんですよ。わたしにとってはとてもがんばったのです。それでもあなたはようやくだと仰るのですね」

 ジェシカは拗ねてみせた。これは可愛く見えないと居たたまれないので、なるべく子供っぽくならないように気を付ける。

「まさか! あなたが僕のために努力をしてくださったと言うなら、これほど嬉しいことはありません。どうか僕のことを薄情だなどと思わないでください。ただ会いたかっただけなんです」

 慌てたようにクリフォードは弁明する。
 それにしても口調も言っている内容も、ちょっと演技くさい。演技だから仕方がないが、そのせいでジェシカは少し引いてしまった。

「あなたのためだなんて言っていませんよ」

 思わず心の声がポロリと出ていた。

「それは……あの、すみません、自惚れました」

 クリフォードは動揺しつつ項垂れた。
 なかなか罪悪感を刺激される仕草である。甘ったるい言葉を吐くだけが、彼の持ち技ではないらしい。

「いえ、嘘です。あなたがいらっしゃると思ったから来たのです……」

 本音で返してどうするのだ。ジェシカは取り繕うように弁明した。実際に嘘とも言えるだろう。クリフォードがいる、つまり楽しいことがあるとわかっているからこそ、苦手な舞踏会にたった三日しか経たないうちに来たのだ。
 クリフォードはパッと顔を輝かせた。

「ではダンスを踊っていただけますよね。お許しいただけますか?」

 拒否しないと確信したからか、させないためなのか、クリフォードが許可を求めたのは、お目付け役として同行していたジェシカの母親だった。
 彼女は口をポカンと開いて、誰コレという目をして娘を見ていたが、話しかけられて我に返る。

「えっ、ええ、もちろんですわ。この子でよろしいの?!」

 大変失礼な産みの親である。普通は娘の価値を上げることに躍起になって、いもしない求婚者を捏造するのが、舞踏会における、年頃の娘を持つ母親の正しき姿だというのに。
 しかし母の反応はジェシカの自業自得ではあるので、非難の目を向けるのは堪えた。
 クリフォードの腕に手を添えて歩いていると、周囲から視線を感じる。見渡してみると、多くの人が驚いた表情で二人を眺めていた。
 これは前回の帰り際にも見た光景だが、更に注目を浴びているようだ。ほとんどが女性で、憎らしそうだったり哀れそうだったりするのだが、彼女たちは一様に、なぜジェシカなのかと言いたげだった。
 それはそうだろう。クリフォードのアンナの次のターゲットがジェシカでは、ちょっと落差が激しい。ジェシカは容姿は人並みで家がそこそこの金持ちなので、結婚相手として不人気というわけではないが、ほとんど社交場に現れず、たまに出ても誘いに乗ることがほとんどないので、男性からも女性からもあまり認識されていないのだ。
 やはりなぜ自分なのだろうかと、ジェシカとしても改めて思った。
 クリフォードと初めて会ったのは、前回の舞踏会よりも二週間前、そして初めてダンスに誘われたあの日以前では、その時しか顔を合わせていない。
 あの日のジェシカは、お目付け役が兄だったから、嫌々ながらもいつもよりは気楽な気持ちで舞踏会に出ていたのだ。
 兄の知り合いの何人かに紹介されたうちの一人がクリフォードだったのだ。彼は一応は礼儀正しく振る舞っていたが、うんざりした空気を隠しきれてはいなかった。
 男性にそんな態度を取られるのは珍しいことではないし、他にもそんな経験を持つ女性は多くいるだろう。あまりにたくさんの女性を花嫁候補として紹介されていれば、その気のない男性がうんざりするのはジェシカだってよくわかる。
 兄だってこんなことはしたくないだろうが、これは年頃の娘を家族に持つ者の義務なのだ。
 だからクリフォードが挨拶をした後に、兄のロバートと二人で話をしたそうにしていると、ジェシカは追いやられることになった。

「またあそこに行かなくちゃいけないの?」

 壁際に並べられた椅子がある場所に連れて行かれそうになっているジェシカは、不満を漏らした。

「行かないわけにはいかないだろう。知り合いに誘われたら踊っていい。変なことをするなよ」
「変なことって?」
「脱走してから帰るころになって戻って来て、ずっとここにいましたって顔をしたり、扇の内側に詩を書いた紙を張り付けてこっそり暗記していようとしたりだ」
「暗記はいい案だと思うのよ。外側からだとバレないし、時間を有意義に使えるわ。お兄様だってよく時間を無駄にするなって言ってるじゃない。それに大人しくしていろっていうお母様の言いつけをちゃんと守っていたのよ」
「仕事に於いて言っているんだ、あれは。少しはいい相手がいないか探してみたらどうなんだ」
「嫌よ。そんなことをして何の意味があるの? 結局は女は相手が誘ってくれるのを椅子に座ってずっと待っていなくてはいけなくて、誘われたとしても、母親が気に入らなければ遠ざけられるのよ。上品ぶった上っ面だけを気に入られた相手の中から、上っ面だけお母様が気に入った相手が選ばれて、そんな人と結婚しなくてはいけないなんて御免だわ。上辺しか見ていなかったくせに、結婚後にそんな人だと思わなかったって言われるのは我慢できないの。それならお兄様に会ったこともない商売相手と結婚しろって言われるほうがまだいいわよ」

 ジェシカはずっと舞踏会で知り合った男性とは結婚したくないと言っていた。ここは他人と本音で話せる場所ではないのだ。未婚の若い娘は特に。

「妹を商売道具にしたなんて言われるのは、僕だって御免なんたが。それより、ジェシカ。こんな場所でそんな明け透けなことを言うんじゃない」

 ジェシカはクリフォードがまだ近くにいるとは思っていなかった。兄しかいないと思っていなければ、いくらジェシカでもこんなことは口にしない。
 でも聞こえていなかったかも。
 期待を込めてクリフォードを窺うと、彼は何か言いたそうにジェシカを見ていた。
 これはまずい。ジェシカはずらかることにした。

「お兄様、行きましょう」

 後できっと頭のいい兄が誤魔化してくれるだろう。妹を悪い噂の的にはさせないはずだ。さんざん渋っていたくせに、キビキビとした動作でジェシカはクリフォードに背を向けた。
 それから帰りの馬車の中で、それとなく上手くやってくれたか尋ねてみると、兄はこともなげにこう言った。

「見たまんまの妹だが、人には言いふらさないでくれってちゃんと釘を差しておいてやったぞ」

 誤魔化してはくれなかった。口止めだけだった。
 しかし兄がちゃんと釘を差したと言ったので、それについては信頼できる。現にクリフォードがジェシカのことを人に悪く言った様子はないし、ジェシカもほとんど忘れていた。
 しかし思い返してみると、このことが原因のような気がしてきた。
 アンナとのことに懲りたクリフォードは、自分の戯れの口説き文句を本気のものとしない人を、次の遊び相手にしたかったのだろう。ジェシカはあの時、舞踏会には上っ面しかないと言っていたようなものなのだから。

「今日は髪を巻いていないのですね。そのほうがあなたには似合っています。快活な可愛らしさがあって」

 クリフォードは相変わらず笑顔でジェシカをじっと見ながら、褒め言葉を口にする。ドレスよりも髪型をまず褒めるとは、上級者テクなのだろうか。

「まあ、あれだけ巻くのはとても大変だったのですよ。それを無駄だったと仰るの?」

 実際に苦労してまいたのはメイドだが、ただじっとさせられていたジェシカだって辛いのである。他の娘は倍以上巻き髪を作っているのだとしても。

「いえ、どちらも似合っていましたよ。ただ僕が今日のあなたのほうが好きだと思っただけです。あなたは巻き髪のほうがお好きなんですね。すみません」

 それが意図的にだったのか、偶然なのかはわからないが、ちょっとした意地悪をやり返されたので、ジェシカは面白くなった。

「いいえ、巻き髪なんて嫌いです。感謝しますわ、クリフォード。あなたがそう言ってくださるなら、わたしは明日からコテを持ったメイドやお母様と戦っても勝つことができそうです」

 ジェシカが渋々巻き髪を諦める母を想像しながら言うと、クリフォードはとても嬉しそうに笑った。

「それはよかった」

 全く邪気などなさそうな笑顔だ。ジェシカはこの笑顔のせいで、初めはそんなつもりなどなかったのに、段々と本気になってしまった娘が多いのではないかと思えてきた。

「今日は庭園が解放されています。ダンスを終えたら、そちらへ行きませんか?」

 ジェシカにとって会場内に留まっているよりも、余程魅力的な提案だった。

「……あなたはわたしの好きなものや嫌いなものが何なのかわかっているみたいだわ」
「嬉しいことを言ってくれますね。でも今はそのことばかり考えているからですよ」

 ジェシカは笑った。
 予想以上にたちの悪い人だ。

   ◇ ◇ ◇

 クリフォードが初めて声を掛けてきた時は、そんなことは念頭になかったのだが、これはすぐに予想できることではあった。
 だからジェシカは愛想笑いを崩すこともない。
 ある人は妬ましさを隠しきれずに、ある人は馬鹿にするように、そしてある人は親切心から、ジェシカがクリフォードに遊ばれていて、彼は本気ではないということを忠告しに来てくれた。
 その度にジェシカはそのことはちゃんと理解しているので、どうぞお気になさらずと、丁寧に礼と共に言う。これまで接点のなかった人物がわざわざ言いに来てくれるので、そんなに騙されやすそうなのかと、若干不満を覚えてしまう。そしてジェシカがわかっていると言っても、信じていなさそうな顔をするのだから、やさぐれそうである。

「そろそろ昼間に会うことを許していただけませんか? ジェシカ嬢」

 ジェシカが周囲の視線を面倒だと思っていると、隣に座っているクリフォードがジェシカしか目に入っていないかのような切なげな顔をしていた。

「一度断っただけですわよ。こういうことは簡単にお返事できませんもの」

 男女としての新密度が少し上がるので、確か一般的には母親の許可がいったはずだ。だがジェシカは前回誘われた時にも、母親にそのことを話していない。基本的にクリフォードの言っていることは話半分で聞いているので、忘れていたのだ。

「もちろんあなたを軽い女性だなんて思っていませんよ。それでも断られるのは辛いものです」

 陰りのある表情とじっと見つめてくる瞳が何かに似ていると思った。ジェシカの頭に、叔母が飼っているチワワが浮かぶ。
 自分に惚れた女性を容赦なく馬鹿にするくせに、動物のような純粋な瞳をするなんて、なかなかの強者つわものだ。
 その技術に敬意を表して、ジェシカは絆されることにした。

「そんな顔をなさらないで。わたし二回目はちゃんとはいとお答えするつもりだったのですから」
「本当に?」

 ジェシカのでまかせにクリフォードの表情が華やいだ。
 言ってることや口調は演技臭いくせに、彼は表情だけはとても演技には見えない。本気で喜んでいるのだと感じてしまう。
 きっとそれを錯覚だと思えなくなってしまった人が何人かいて、その内の一人がアンナなのだろう。
 ジェシカはちょっと騙された気分だった。彼はゲームそのものを楽しんでいる人なのだと思っていたのに、これでは全力で負かそうとしているみたいではないか。
 でもそれならそれで受けて立つだけだ。

(あなたに本気で惚れているのだと思わせてやるわよ。勝つのはわたし)

 心の中で決意を新にする。
 ジェシカは負けず嫌いでもあった。


 仲良くなった男女が舞踏会場以外で会う場合の第一段階は、公園でのデートである。
 公園とはいえそこは社交の場でもあり、衆目の場でもある。ここで若い男女が二人で歩く、もしくは二人で無蓋馬車に乗っていれば、ほぼ恋人同士として公認されるのだ。
 だがジェシカはそのことは重要視していなかった。
 恋人になるということは結婚の意思があるということに繋がるが、クリフォードがジェシカと結婚したいと思うことはないはずなので、問題にはならないだろう。きっと彼は他の令嬢とも公園を歩いたことはあるはずだ。
 それに好奇心があった。ジェシカと同じような年齢の娘は、とにかく公園でのデートというものに憧れているのだ。そして経験者になれば、そのことをやたら自慢気に吹聴する。
 そんなに楽しいものなのかと期待してしまうではないか。

「……よくよく考えたら、舞踏会とやっていることはそんなに変わらないのね」
「え?」

 昼下がりの並木道、ぼそりと呟いたジェシカに、隣を歩いていたクリフォードが聞き返す。

「公園でのデート。みんなが憧れるから、一体ここで何が起こるのかと思っていたけど、知り合いに挨拶して、おしゃべりしながら歩いて、舞踏会とやっていることは本質的にはかわらないのね」
「えーと……」

 クリフォードはなぜか困ったように視線をさまよわせた。

「恋人になれたってことが嬉しいからなのかしら。でもそれにしてはこの前初めてデートした人が、素晴らしい一時だったと言っていたわ。やっぱり何かあると思ってしまうわよ、そんなの」

 何がそんなに素晴らしかったのかと真剣に考えていたジェシカは、真横でクリフォードが落ち込んでいることに気づいていない。
 彼は切なげにジェシカを見ていた。

「やっぱりジェシカ嬢はこういうことはあまり好きではないんだね」
「え? 好き?」

 好き嫌いとは別の次元の話をしていたジェシカは首を傾げた。

「本当はもっと他の場所に連れて行きたかったんだ。でも乗馬やボートを楽しむためには人の少ない場所に行かなくては行けないし、いきなりそんなことをしては、あなたのご両親にお叱りを受けるかもしれない。買い物も考えたけど、それだって一回目からだと、あなたが無遠慮な人だと思われてしまうかもしれないから」

 ジェシカは更に首を傾けた。もしかしてクリフォードはジェシカがただ公園を散歩するだけではつまらないだろうと思って、他のプランを考えていたというのだろうか。

「結局いい案が思い付かなくて、ただ散歩をするだけになってしまった。次はもっとあなたが楽しめる場所に連れていくから、今回は許してくれないかな?」
「どうしてわたしがあなたを許さなくてはいけないの?」
「えっ?」

 ビシッとクリフォードが固まった。

「いえ、違うわ。そうではなくて、わたしは散歩をしたくないと言ったわけではないのよ。ただ、おしゃべりをするだけなら舞踏会でもやっていたことなのに、どうしてあんなにみんなは楽しいことのように話していたのかしらと思っただけ。それにわたしだって常識と外れたことをしていい時と、いけない時の区別くらいは付いてるつもりだわ。あなたがわたしを公園に連れてきたのは、常識的にそうしなくてはいけなかったからだし、その常識はあなたが作ったわけではないでしょう。だからあなたがわたしに許しを乞う必要なんてないはずだわ」

 クリフォードはびっくりしたように目を瞬かせていたが、やがてほっとしたような、複雑そうな顔をした。

「……なら、よかった」
「わたしそんなに理不尽な人間に見えているのかしら?」
「違うよ。でもがっかりされたくないと思って、あれこれ考えてしまったから」

 弱々しく苦笑するクリフォードが、それでも楽しませられなかったことを悔やんでいるように見える。だからなのか。
 これは、嘘じゃない。
 ジェシカはそんな確信が沸き上がった。
 だって外で初めて会うなら公園というのが良識とされているのだから、そんなことで悩む必要は本来はないはずで、彼が悩んだというのは、経緯まで言葉にしてくれたのだから本当のことだ。
 それはつまり、クリフォードが自分に対してがっかりされたくないから、あれこれ考えてしまったということではないだろうか。
 ジェシカが黙って見つめていると、クリフォードは少し照れたように笑った。

「でも僕は二人で歩いておしゃべりをしているだけでも、嬉しいし楽しいよ。……あなたの特別になれたような気がするから」

 カッとジェシカの頬に熱が集まった。

(え? え?)

 自分の反応に驚いて、混乱する。
 どうして彼はこんなことを言うのだろう。それはもちろん、ジェシカのことを好きなフリ(・・)をしているから。

(──本当に?)

 ジェシカの頭に初めてその疑問が浮かんだ。

「ジェシカ」
「はいっ」

 声が裏返って、そのことが無性に恥ずかしい。

「ジェシカって呼んでもいいかい?」
「え、ええ……」

 クリフォードが嬉しそうにはにかむ。
 ますますジェシカの顔が熱を持った。
 さっと首を逸らして落ち着こうと静かに深呼吸するが、逆に余計なことを思い出してしまった。
 クリフォードは彼女のことを「アンナ嬢」と呼んでいたのだ。確かそうだった。他の女性のことも、いつだって礼儀正しく呼びかけている。
 呼び捨てにしているところなんて聞いたことがない。ついさっきジェシカを呼ぶまでは。
 ジェシカの頭の中でクリフォードが口にした、特別という言葉がポンッと浮き上がった。
 いや、それはない。きっとクリフォードは突き放す前までは、アンナのことだって呼び捨てにしていたのだろう。そうに違いない。
 必死で自分に言い聞かせるジェシカは、傍目には頬を赤らめて、恋人との初デートに緊張しているかのようで。
 そんなジェシカをクリフォードが笑顔でじっと見つめていた。


「まずいわ、これは!」

 ジェシカは自宅の応接間で叫んだ。
 真剣に、焦燥感を漲らせての叫びだ。だというのに友人のリンジーはとても落ち着いて、ゆったり紅茶を飲みながらジェシカを眺めている。

「本当にまずいの! あの人がわたしのことを本気で好きなんじゃないかって思ってしまったのよ! ただ恋人ごっこを楽しんでいるだけのあの人に! それをわかっているというのに!」

 事態の深刻さをわかってもらおうと、ジェシカはリンジーに詰め寄る。
 彼女は兄の婚約者で、最近仲良くなったのだが、ジェシカにとっては本音を話せる数少ない友人の一人だ。こんな話でも馬鹿にせずに聞いてくれると思ったから打ち明けているのだ。

「どうしてジェシカは彼が本気じゃないと思っているの?」

 リンジーは首を傾げた。心底不思議そうな顔に、ジェシカのほうがびっくりする。

「だってみんな噂しているでしょう? 彼が女性を口説いていても、本気じゃなくて遊んでいるだけだって。相手が本気で惚れたら冷めるんだって」
「噂だけでそう思っているの?」

 責める響きを持ったリンジーの言葉に、ジェシカは慌てて否定する。

「違うわよ! ちゃんと彼がそう言っているのを聞いたんだから。アンナ嬢に言っていたのよ。好きだって言ってくれたじゃないって言う彼女に、あんなの本気にすると思わなかったって。そう、そうよ、プロポーズするまでは、どんなに贔屓していても本気にするもんじゃないって、哀れむような顔で言っていたわ」

 だんだんジェシカは腹が立ってきた。
 あの時は、クリフォードがもっと軽い調子の、社交辞令を誇張したような態度でアンナに接していたのだと思っていた。
 しかしジェシカと同じような接し方をしていたのなら、それは完全にクリフォードに非があり、何も悪くないアンナを責めていたということにならないだろうか。
 とんでもない奴だと罵ろうとした。
 でもそれ以上に、そんな訳がないという思いが沸き上がってくる。クリフォードがそんなことをする訳がないと。
 ジェシカは項垂れた。

「やっぱり、まずいわ……」

 もう何が本当だかわからない。

「ジェシカには、途中から本気になってしまったのかもしれないわよ。アンナ嬢とは違うのかも」
「それも嫌よ。最初は遊ぶ気でいたということでしょ。そんな人を好きになりたくない」
「なりたくない、ね……」

 リンジーの意味深な呟きを、ジェシカは無理矢理聞き流した。

「だいたいわたしのどこに好きになる要素があるというのよ。彼はあんな美青年だっていうのに、わたしは至って平凡な容姿で、淑女としての美点もないような人間なのよ」
「ジェシカは可愛いわよ?」
「リンジーはわたしがお兄様と似ているから、そう見えるだけよ。欲目だわ」
「そうかしら?」
「そうよ。やっぱり彼がわたしを好きだなんてあり得ないわ」

 言っていることも頭の中も支離滅裂だ。ジェシカはふて寝したくなった。

「それでジェシカは結局のところどうしたいのよ」

 しっかり者のリンジーがソファーにうずくまって逃避しかけているジェシカに問いかける。

「……このままじゃもっとまずいことになるわ。だからもう、こんなことやめたい」

 それだけはジェシカにもわかった。
 こんなことを初めた時、ジェシカはクリフォードに惚れない自信があったわけではない。ただ考えもしなかっただけだ。ジェシカにとって誰かを好きになるというのは、現実味のない出来事だった。だからただ言葉遊びをするようなものだと思っていたのだ。
 でも今はもう、現実味がないとは言えなくなっている。

「問題はやめたいと言ってやめてくれるかよね。ここまで調子よく付き合っておいて」
「あら、そんなの簡単だわ」

 頭を抱えるジェシカに、リンジーはあっさりと告げる。

「やめてもらうのが?」
「そうよ。簡単じゃない。あなたのことが本当に好きになってしまったって言えばいいだけでしょう」
「え…………?」

 ジェシカはピタリと動きを止めた。

「そうすれば彼は冷めて離れていってくれるのでしょう?」
「え、ええ、そうね。……え?」
「もうやめたいのでしょう?」
「そうだけど……」

 あまりにもリンジーが平然としているので、逆に混乱した。
 それを言うとジェシカはクリフォードのことが好きだと認めることになるのか。いや、単に真意はともかく、そう言えばやめてくれるのだから言えばいいという助言なのか。
 だとしたらそんな嘘を吐いていいものか。
 ジェシカの価値観ではいけないことだが、傷つけたり弄ぶことに繋がるからであって、結果的に相手を冷めさせるだけならば問題ないだろう。
 好きになったと言えば、クリフォードは冷める。
 ぎゅう、と胸が痛んだ。
 想像しただけで辛い。こんなの嘘になんかならないではないか。
 でもこのまま続ければ、絶対にもっと辛くなる。それなら早く終わらせるべきだ。

「そうね。そう言うわ。次に会った時に言う」

 ジェシカは決意した。それが一番いいと思った。
 しかしジェシカはこの時、全く冷静ではなかったのだ。
 だからやめてもらうには、他の方法だってあるということも、クリフォードが本気でジェシカを好きな場合のことも、完全に頭の中から抜け落ちていたのだった。

   ◇ ◇ ◇

 彼女と目が合った瞬間、ジェシカは顔が引きつりそうになった。
 別に思うところがあったわけではない。それでもジェシカの最近の心境からすると、それも無理からぬことだった。
 アンナは微笑みながら近づいてきて、ジェシカの隣の椅子に座る。
 まだ舞踏会は始まったばかりで、人もまばらだ。他にも座る場所はあるし、二人はあまり会話をしたことがない。お互いがお互いを合わないと判断し、避けていたふしすらある。世間話をしに来たのではないことは明らかだった。

「ジェシカさん、最近クリフォードと仲がよろしいようね」
「ええ、親しくさせていただいているわ」

 やはりその話題か。
 ジェシカは身を固くした。

「わたし心配なんです。彼、女性の扱いがお上手でしょう? それに何て言うか、手当たり次第なんですもの。お気に入りは常に一人ですけど、すぐに移り気になってしまうんです。それで辛い目に遭った人を何人か知っていますわ」

 急に友人のように親身になって心配するアンナに、ジェシカは戸惑った。
 その辛い目に遭ったのが彼女自身だからなのか、彼女の虚勢をジェシカが知っているからなのか、それとも正にジェシカがそんな目に遭っているからなのか、言葉がずしりと重く感じる。
 これまでに同じようなことは何度か言われたはずなのに、ジェシカの心境の変化と、言ったのがアンナということが、今までにない威力を発揮していた。

「ご心配には及びませんわ。まさか彼がわたしに本気だなんて、そんなこと思っていませんもの」

 ジェシカはなるべく余裕の表情を心掛けた。しかし疑わしそうな目を向けられる。

「まあ……本当に?」

 これも何度も見た反応だった。理不尽だ、というのがこれまでの感想だが、やはりアンナに言われると、そりゃそう聞きたくなるわよね、と思ってしまう。
 だがここでそのことについて相談できるくらいの信頼を、彼女に対して持っているわけではない。

「ええ、彼のお遊びに付き合うのも面白そうだと思っただけですから。それに、そろそろ彼も飽きるころではないかしら」

 そんな気配は全くないのだが、心配ないのだと押し切るためにジェシカはそう言った。アンナは眉を寄せて不可解そうな顔をする。ジェシカが意味のわからないおかしなことを言い出したとでも思っていそうだ。
 だがすぐに気を取り直したように、にこりと笑う。

「ねえ、そんなことよりジェシカさんも自分だけを見てくれる男性を探したほうがいいわ」
「え? ええ、そうね……」
「わたし最近になってようやく気づいたんです。女は恋をしているよりも、誰かに愛されているほうがとても幸せだってことを」
「……はぁ」

 いきなり何の話だ。ジェシカこそ意味がわからなくなった。
 しかし彼女は近頃婚約をしたばかりだったと思い出す。相手があの時に言い争っていたもう一人の男性だったのか、名前を覚えていないジェシカにはわからないが、惚気たいだけなのかもしれない。

「だからジェシカさんも不毛な恋なんてやめて、あなたのことを本当に愛してくれる人を探すべきよ。そのほうが絶対に幸せになれるわ」

 会話が成立していなかった。アンナはまだジェシカがクリフォードに弄ばれているのだと思い込んでいる。
 やけに絶対を強調するとか、なぜ本当に愛してくれる人が探せば見つかるという前提で話すのかとか、いろいろ気になるところはあったが、その辺りは彼女に問い詰めても無駄なのだろう。
 アンナの言っていることが真実だとは全く思わないが、今それを言われるとなかなか辛い。会話の噛み合わなさも相まって、この短時間でジェシカはかなりのダメージを受けていた。
 誰か助けてほしい。ここから逃げ出したいのですが。

「毎日愛しているって囁かれるようになったら、わたしの言っていることが理解していただけると思うの。今はまだわからないかもしれませんけど……」
「珍しいな」

 ジェシカが強行突破で逃げようと決意した時、聞き慣れた声が割って入ってきた。

「君たちがそんなに会話を弾ませているなんて。いつの間に仲良くなったんだ?」

 にこやかだったアンナの表情が引きつった。ジェシカが振り返ると、真後ろに予想通りの人物が立っている。

「お兄様……」
「ジェシカ、アンナ嬢と友達になったのか?」

 非常にやっかいな質問をされたジェシカが、いいえと答えてもいいのか悩んでいるうちに、アンナが立ち上がった。

「わたし、婚約者を待たせているのでしたわ。失礼いたしますね」

 軽やかに背を向けて行ってしまった。呆然と見送るジェシカに、兄のロバートがため息を吐く。

「何をあんなのに捕まっているんだ、お前は」

 やはりジェシカの窮地を知って、ロバートは助けてくれたらしい。

「捕まっているように見えた?」
「そりゃあ、相手がアンナ嬢だからな。クリフォードの奴、ちゃんとフォローしていないのか?」

 後半の言葉はここにはいない人物に向けられたようだった。

「仕方がないな。ジェシカ、一緒に来い」
「どこへ行くの?」
「クリフォードのところだよ」

 ジェシカはハッとした。
 そういえばこのところロバートは仕事が忙しくて舞踏会には出ていなかった。そしてさっきの口振りが、ジェシカとクリフォードが健全な付き合いをしているのだと受け止めているのではないかと思わせるものがあった。
 二人が周囲からどう見られているのか、ロバートは知らないのだ。
 まずいと思った。普段付き添いをしている母親は、もちろん誰かから噂を聞いているだろうが、ジェシカが舞踏会にちゃんと出るようになったならそれでいいと思っているようで、いつも快くクリフォードに引き渡すのだが、ロバートはジェシカに令嬢としての体裁をそれほど求めてはいない。
 おまけに彼は放任主義のようでいて、実は妹に甘いのだ。
 他の人のようにクリフォードがジェシカを弄んでいるのだと勘違いしてしまったら、クリフォードに対してどんな態度に出るかわからない。ジェシカが彼は本気ではないと理解して付き合っているのだとわかっても、怒る可能性はある。

「ちょっと待って、お兄様!」

 ロバートは怒らせてはいけないタイプの人間である。彼らが友人である分、悲惨なことになるのではないか。

「その前にちょっとお話があるの。人がいない場所まで……」
「あ、クリフォード」

 ジェシカの諍いをさけようとする努力は一瞬で無駄になった。
 ロバートが呼びかけた人物は思いもよらぬほど近くにいて、笑顔を浮かべている。

「こんばんは。ジェシカ、ロバート」
「こ、こんばんは……」

 嬉しそうに笑っている場合ではない。なぜこのタイミングで現れるのだ。ジェシカの背中に嫌な汗が流れる。

「ちょうどよかった。さっきアンナ嬢がこいつに絡んでいたぞ。あの件はもうちゃんと収まったんじゃなかったのか?」

 止める間もなくロバートが切り出した。

「いえ、絡まれていたというわけではなくっ……」
「えっ、アンナ嬢はもう婚約したはずだろう?!」

 ジェシカとクリフォードの驚いた声が重なった。

「それで終わったと思うな。甘いんだよ、お前は。そんなんだから町中に若い娘の気を持たせては捨てる男だっていう噂が流れるんだ」
「町中に流れているのか?!」

 まさに衝撃を受けたという驚愕の表情でクリフォードは叫んだ。その今初めて知ったという反応にジェシカも目を丸くする。町中は言い過ぎだろうとは思うが。

「知らなかったのか。お前、相変わらず友達がほとんどいないんだな」
「ほっといてくれ! 君が教えてくれればよかったじゃないか!」
「僕は最近仕事が忙しくて、後から知ったんだ」
「あの……」

 あまりにもクリフォードが焦っているので、ジェシカは訳がわからず、説明を求めるために声をかけた。するとクリフォードが勢いよく振り返る。

「違うんだ、ジェシカ! そんなことはしていない! 誓って一度もしていないから!」

 手を握って必死の形相で詰め寄ってくるので、ジェシカは思わず引いた。

「落ち着け。こんなところで大声を出すな」
「ぐっ……!」

 ロバートが横からクリフォードの脛を蹴った。止めるためだとしても容赦がない。

「場所を移動するぞ」
「……わかった」

 クリフォードはうち震えながらも、傍目には何でもないように振る舞う。案外頑丈なんだと、どうでもいいことをジェシカは思った。


「あの噂の発生源はティモシーだよ」

 移動したテラスでクリフォードが切り出した。

「誰のこと?」

 名前だけで判別できないジェシカは首を傾げる。

「アンナ嬢の婚約者だ。もう少し人の名前を覚えろ」
「そう。彼がアンナ嬢にそう思い込ませるために言い出したんだけど、そもそも彼女の変な思い込みのせいでもあるんだ」

 ジェシカは黙って話を聞いた。いろいろな情報が頭の中で混迷していて、とにかくそれを整理しないことには、何を考えればいいのかすらわからない。

「僕はこの町に戻ってすぐ、親戚から舞踏会の男性参加者が少ないから出てほしいと何度か頼まれたんだ。それで出たはいいものの、今度はちゃんと盛り上げろと言われて、いろんな女性をダンスに誘ったり会話をしたりしなくちゃいけなくなった。でもその時はまだ結婚する気なんてなかったから、相手をその気にさせないために、いつも男に囲まれている人気のある女性の──アンナ嬢の近くにいることが多かったんだ。彼女には僕よりも条件がよくて熱心に誘っている男が何人かいたし、僕はちゃんと消極的に見えるように振る舞っていた。他の男たちにも遠慮していたんだ。でもなぜかアンナ嬢は僕が本気だと思ってしまったみたいで」

 そこまで聞いてジェシカはクリフォードに疑いの眼差しを向けた。
 確かにまだ結婚する気のない男性が、人気のある女性を隠れ蓑にすることはよくある。舞踏会の主催者との付き合いなどで、結婚する気がないことをあからさまに態度に出せなかったり、女性の扱いが下手だと思われないようにするためだ。
 そんな男性を見分けるのは結構簡単で、舞踏会以外でも女性と会いたがるかどうかが基本的な基準になる。
 だがもしクリフォードが舞踏会以外で会おうとしていなかったのだとしても、消極的だったかどうかは疑わしい。アンナはとても熱心に口説かれていたかのように言っていたし、クリフォードもあの時それを否定してはいなかったはずだ。

「本当だ! 彼女に何か言われたの? でも彼女は僕が口説いていたかのように言ったかもしれないけど、一番魅力的だとか、君しか目に入らないとか言っていたのは、僕じゃなくて他の奴だ! 僕は美人だろって聞かれて頷いただけだし、ただ何度かダンスに誘って、彼女の周囲の会話に加わっていただけなんだ。それだけで惚れ込んでいると思われるなんて思わないだろ!」

 心の底からの叫びだった。
 ジェシカがロバートを見ると、事実だと言うように頷く。納得して振り返るとクリフォードが傷ついたような恨めしげな視線をジェシカに向けていた。気まずくなって顔を逸らす。

「えーと、じゃあ、アンナ嬢がクリフォードに口説かれていたと思っていたのは、完全に彼女の一方的な勘違いなのね」
「あれは勘違いというよりも、病的な思い込みだな」

 ロバートが同情的な声で補足する。

「そうだよ。おまけにそのせいで彼女と本気で結婚したがっていたティモシーが、僕のことをいろんな女性をその気にさせては手酷く振っている男だっていう、とんでもない嘘を彼女に吹き込むようになったんだ」
「それって勝手にクリフォードを悪者にしたっていうことなの?」
「ああ、あいつに嫌われているのは知っていたけど、そこまでされるとは思わなかった。でも彼女にそう思い込ませるくらいなら別にいいかと思ってしまったんだ」
「それはクリフォードに何の相談もせずにそうしたということ? でもあの人はクリフォードの目の前で、アンナ嬢にクリフォードが女性を弄ぶ酷い人だって言っていなかったかしら。実際にそんなことをしていないのを知っているのに、本人の前でそんな嘘を吐いたの?」
「……何で知っているの?」

 呆気に取られたような顔をしたクリフォードを見て、ジェシカはしまったと思った。

「……えーと、実はちょっと前の舞踏会で、あなたとアンナ嬢とティモシーさんの三人が、階段下でこそこそ言い争いをしているのを聞いてしまったの。あれがティモシーさんよね?」
「あれを見ていたのか!」

 クリフォードはショックを受けたのか、壁に寄りかかって俯いた。

「ごめんなさい……」

 立ち聞きしていたことを、ジェシカは素直に謝った。しかしそんなことは気にせず、話をそのまま続けようとする人物がいる。

「ティモシーもなかなか馬鹿だからな。クリフォードが否定しなかったせいで、それが本当のことなんだと、自分に都合のいい解釈をしたんだろう。あいつはきっと、顔のいい男は性格が悪いと思っている」
「……顔のいい女性は?」
「性格がいいと思っているだろう」

 ふと疑問に思ったことをジェシカが口にすると、ロバートは真顔で返してきた。微妙な気持ちになりつつ、それどころではないので話を元に戻す。

「つまり、ティモシーさんがアンナ嬢に言った嘘が、噂になってしまっていたのね」
「まさかそんな噂が広まっているなんて知らなかったんだ……」

 沈痛な表情でクリフォードが呟く。

「でもどっちみちアンナ嬢に対しては そのことを否定なんてできなかったけどね。そんなことをしたらまた彼女が勘違いしてしまうかもしれないし、最悪なところ、話の流れで結婚なんてことになりかねない」

 おかしな話だが、話の流れで結婚に至るというのは、社交界ではたまにあることなのだ。アンナ相手にクリフォードがそれを警戒するのは当然だった。

「何よりもう、否定するのが馬鹿馬鹿しくなったんだ! 二人で勝手なことばかり言って、いい加減にしてほしい。それならさっさとあんたたちでくっつけばいいじゃないか。だからこれ以上関わらないでくれ! ……って思ったんだ」

 思い出して腹が立ってきたのか、クリフォードは声を荒げた。
 ジェシカが見ていた言い争いの場で、クリフォードはまさしくそんなことを考えていたのだろう。それならあの態度も頷ける。

「あの……何て言うか、散々だったわね」

 他に言いようがあるだろうと思いつつ、ジェシカは慰めのようなものを口にした。

「納得してくれた?」
 すぐに落ち着いたクリフォードが顔を覗き込みながら確認する。

「ええ……あ、でも待って、まだわからないことがあるわ」
「何?」

 ジェシカはこれまでの経緯とさっきの話を、頭の中で整理した。

「クリフォードは噂で言われていたようなことはやっていないのよね。女性の気を引いて相手が本気になったら振るっていうようなことを」
「当たり前じゃないか! さっきも言っただろう。そんなことは誓って一度もしていないって」
「ええ、信用するわ。でもそれなら……どうしてわたしを口説いていたの?」

 首を傾げながらジェシカが尋ねると、周囲の空気が止まった。

「は……?」
「え……?」
「えっ?」

 ジェシカとしては当然の疑問だった。しかしクリフォードもロバートも強張った表情が何を言っているんだこの人は、と言っている。
 その顔を見ただけてジェシカは理由も要因もすっ飛ばして理解した。言ってはいけないことを言ってしまったのだと。

「ジェシカ……?」

 クリフォードが愕然としながら、さっきの質問の意味を求めてくる。ジェシカはとてつもなく焦った。

「あの、だって、わたしいろんな人に言われたのよ。あなたはクリフォードに弄ばれているのだから、もう会うのは止しなさいって。あら? でもあれは噂のせいだったのかしら。でも噂が原因で言っていたようには見えなかったのよ。実感が込もっていたというか」

 言い訳でも何でもいいから口にしなければと思ったせいなのか、ジェシカはまた混乱した。

「待て、それはいつ頃だ」

 眉根を寄せたロバートが鋭い声で聞く。

「さっきアンナ嬢に言われたことを別にすれば、五日くらい前だわ。だいたい一週間から五日に一回くらいの頻度で言われていたわね」
「それはおかしいな。クリフォードの噂については、最近はもう、ただの噂だったんじゃないかと思っている人間のほうが多いし、そうでなくてもジェシカにそんな忠告をするのは、ただお前たちの仲を裂きたいという理由の他は考えられない」
「……そうなのか?」

 ちょっとだけ回復したらしいクリフォードが尋ねる。

「あんな噂があったところで実際にクリフォードのそんな姿を見たやつはいないんだ。それでも噂のほうを信じる人間はたくさんいるが、ないものをあると信じられても、あるものをないと信じるのは難しいだろ。ジェシカに対するクリフォードの態度を見ていれば、弄んでいると思うほうがどうかしているのだそうだ。被害者だって言われていたアンナ嬢とジェシカではこいつの態度が違いすぎるんだよ。あの噂はすぐに収束したはずだ」
「えっ、嘘っ」

 驚いてジェシカはロバートを凝視した。

「本当だ。だからこそ僕も噂について後で知った時も、こいつに何も言わなかったんだ。それにそんな噂が付きまとっているやつとお前が仲よくなることを、母さんが許すわけないだろ。何のための付き添いだよ」
「わたしが舞踏会に出るようになるなら、もう何でもいいと思っているのかと……」
「それはあるかもしれない」

 妹に対する信頼のなさなのか、母親に対する信頼のなさなのか、ロバートはあっさり意見を翻した。

「えっ、じゃあ、わたしはどうして何人もの人にあんな忠告をされていたの? みんな噂にあるようなクリフォードをよく知っているっていう口振りだったわよ」
「アンナ嬢だ……」

 クリフォードが暗い声で呟いた。

「だろうな。彼女の嫌がらせだろう。クリフォードがジェシカに本気かどうかは、アンナ嬢が一番よくわかっていたはずだしな。あのお嬢様がそれをちゃんと理解しているかは別だが」

 ロバートとクリフォードは冷静に分析しているが、ジェシカはますます混乱した。これはつまり、どういうことなのか。

「つまり、ジェシカは……」

 視線を地面に向けて、暗い声のままクリフォードが言った。

「僕の噂を聞いて、僕がわざとその通りに振る舞っているところをたまたま目撃して、噂通りの男だからそいつと離れろと何度か言われたから、僕が本気で君を口説いているなんて、思っていなかったんだね。……ずっと」

 責められているわけではない。だというのに罪悪感が胸に突き刺さるような言い方だった。
 いくらジェシカでもここまでくればさすがに察しがついてくる。
 だが今までずっとクリフォードが弄んではいないものの、遊び感覚で口説いていると思っていたのだ。その大前提が覆されて、すんなり納得できるものでもない。
 だってつまりは最初からなのだ。最初からクリフォードの言葉の意味はジェシカが捉えていたものとは違っていた。
 いろんなことを思い出してしまい、ジェシカはパニックに陥った。

「ちょっとだけ失礼するわ!」

 一人になって落ち着いて考えなければいけない。
 動揺したジェシカは暗くなっているクリフォードの様子すら失念していた。
 身を翻してテラスから出ようとするが、その腕を掴む手があった。
 驚いたジェシカが見上げると、ロバートが冷たい顔をしていて、ギクリと体を強張らせる。肩のすぐ下の腕を掴んだロバートは、そのままズルズルと力ずくでジェシカを引きずった。
 いくら兄妹でも、人前で淑女にこの扱いはどうなのかと思ったが、今それをロバートに言う勇気はジェシカにはない。
 恐らくロバートは、ジェシカが噂を信じていたくせに、なぜクリフォードと一緒にいたのか、その理由に気づいたのだ。
 妹を友人の前に引っ立てたロバートは、真面目な顔で言った。

「煮るなり焼くなり好きにしろ」
「お兄様?!」

 ジェシカは抗議の意味を込めて兄を見るが、ギロリと睨み返される。
 逆らってはいけない。
 本能に訴えられてジェシカは大人しくなった。ロバートは怒らせてはいけないタイプの人間なのである。
 ジェシカが動かなくなったことを確認すると、彼はテラスから立ち去った。

「後は勝手にしろ」

 役目は終わったとばかりに手を振るロバートの姿が見えなくなり、静寂が訪れる。
 ジェシカが上目使いでそっとクリフォードを窺うと、彼も同じようにジェシカを窺っていた。ただ動揺が続いているジェシカに対し、クリフォードのほうは泣きそうな表情だった。
 ずっと真剣な言葉を冗談のように受け止められていたのだから、無理はない。

「あの……ごめんなさい」

 ジェシカが謝ると、クリフォードはビクリと肩を震わせた。

「……いや、そんな状況なら仕方がないよ。勘違いしてしまうのも」

 目を逸らした彼が、本当にそう思っているのか、ジェシカにはわからない。しかしそれを追及できる立場ではなかった。
 僅かな沈黙の後、クリフォードが口を開く。

「でも僕のことをそういう人間だと思っていたなら、どうして誘いに乗ったりしていたの?」
「それは……そんな人と一緒にいるのも楽しいかもしれないと思って」

 なるべく言葉を選んで言ったが、どちらにしろ酷い人間ではないだろうか。口にしてみてはっきりわかったが、ジェシカは加害者だ。あの状況で本気だと判断できるわけがないのだとしても、退屈だったからといって、遊び心で誘いに乗ったりしてはいけなかったのだ。
 クリフォードは顔を歪めて、更に暗く沈んだ。

「じゃあ、君は僕のことが少しも好きじゃあなかったんだな」
「えっ、それは違うわ!」

 ジェシカの即座の否定に、クリフォードが顔を上げた。

「初めは好きも嫌いもなかったけど、段々絆されてしまった……と言うのも変だけど、あなたに笑いかけられる度に、この人は本気じゃないんだって自分に言い聞かせなくてはいけなくなって」

 言い辛そうに白状すると、クリフォードの表情から翳りが薄らいだ。
 これはジェシカにとってかなり覚悟のいることだったが、ちゃんと言わなくてはいけない。クリフォードはもう気持ちを踏みにじるような真似をしたジェシカを好きだとは思えないだろう。だからこそちゃんと言わなくては、傷つくのがクリフォードだけだというのは不公平だ。

「最近はもう、あなたが本当にわたしを好きなんじゃないかって思ってしまっていたし、噂にあるようなことをあなたがするわけないとも考えていたわ。でもわたしのどこがいいのかさっぱりわからないから、思い込むこともできなくて」

 自分が情けなくてジェシカは片手で顔を覆った。指の隙間から覗くクリフォードは、何かを期待するような目を向けていた。

「だからわたし、今日あなたに言うつもりだったのよ」

 深呼吸して、顔から手を退ける。心臓が激しく動く。

「クリフォードのことを本気で好きになってしまったから、もう会うのはやめたいって……えっ、ウグッ!」

 体に衝撃を感じて、ジェシカは呻いた。
 クリフォードが勢いよく抱きついて来たのだ。驚いて動けないジェシカの耳元で、クリフォードが囁いた。

「本当に? 僕のことが好き?」

 半信半疑な言葉よりも、ジェシカは何かをねだられているような声の響きにカッと顔を赤らめた。

「……好きだわ」
「じゃあ、何で会うのをやめたいなんて言うの?」
「だってわたしのことを好きじゃない人を、これ以上好きになりたくなかったのよ」

 そのくらいはわかってほしいと、ジェシカは弱々しく拗ねるような口調になる。それを聞いたクリフォードが小さく笑った。

「酷いな。僕のほうが先に好きになったのに」

 甘い熱を持った声が、耳に直接入り込んできて、ジェシカは狼狽えた。今もまだ好きだと思っている人にしか向けるはずもない声だった。

「……怒ってないの?」
「何を?」
「わたしあなたをとても傷つけたわ」
「ああ……」

 そんなことかと言うように、クリフォードは力を抜いて、ジェシカの背中に回していた手を解いた。

「あれは仕方がないよ。むしろ僕が悪かったんだ。ロバートが言うように、僕の考えが甘かったせいだから」

 さっきまで沈んでいたのに、間近で見たクリフォードの表情はとても嬉しそうだった。この変化が、自分が気持ちを白状したせいなのだろうかと思うと、ジェシカは無性に恥ずかしくなる。

「あなた一体わたしのどこがいいのよ」

 初めて会ったあの時のどこに惚れる要素があったのか。淑女とはかけ離れたことを言っていた覚えしかないので、変わった趣味としか思えなかった。

「君が嫌なことを嫌だとはっきり言っていたからだよ。僕は流されやすい人間だから、あんな風にはっきり言って行動する人がすごくいいなと思ったんだ。一緒にいるうちにもっといいなと思った」
「……やっぱり変わった趣味だわ」
「そうかな? でもやり方を間違えてなくてよかった。君は舞踏会で出会う男のことを警戒していたみたいだから。でもそこでしか距離を縮める方法がなかったし、僕は女性を口説いたことなんてなかったから、緊張して口説き文句は芝居の真似みたいになってしまっていたし、手応えがあるのかないのかよくわからなくてかなり迷走していたよ」
「……ごめんなさい」

 相手がゲームのつもりでいたことを知らないなら、それは迷走もするだろう。

「結果的に一番欲しい言葉をくれたからいいんだ。そんなことより、ジェシカ」

 クリフォードは両手でジェシカの頬を挟むように持って上向かせた。

「僕は君のことが好きで、君も僕のことが好きで、君のお母様も兄もそれを反対していない。これって本当の恋人になれるってことだよね」
「恋人!?」

 ジェシカが動揺すると、クリフォードは不満げに口を歪ませた。

「今更、駄目だなんて聞かないよ」
「いえ、ああ、そうよね。そうなるわよね。当たり前よね、そんなの」

 とことん恋愛に興味を持てなかったジェシカが、その単語だけでびっくりしただけである。
 ジェシカは顔を赤らめつつ、考え込むように眉間に皺を寄せてから、ポツリと呟いた。

「恋人、なのね」

 普段は令嬢らしい恥じらいなど持っていなさそうな人間が、こんな仕草を、好意を持たれている男性の前で、おまけに頬に手を当てられたままの状態ですればどうなるのか、もちろんジェシカにわかるはずもなかった。
 手にぐっと力を入れられて、どうしたのかと目線を上げた時にはもう、表情すらわからないくらい近くに、クリフォードの顔があった。
 反射的に引こうとしたジェシカは押し止められ、目を瞑ったと同時に、唇に柔らかいものが触れる。

「……っ!」

 驚いて発しようとした言葉すら押し当てられたもので塞がれた。ジェシカの全身の体温が急激に上がる。
 長いとは感じないギリギリのところで、クリフォードは唇を離した。

「っいきなり何するの!」
「……ごめん」

 どこかぼうっとしながらクリフォードは謝る。照れ隠しもあってジェシカは憤慨した。

「本当に悪いと思っているの?!」
「うん。もう一回してもいい?」
「思ってないわ!」

 背中に手を回されて、逃げられないようにされてから顔が近づいてきて、ジェシカは耳まで赤くさせながら、手でそれを阻んだ。いきなり積極的になった原因がわからない。

「ちょっと待って!」

 しかし常では考えられないくらい、クリフォードはグイグイと押してくるのだ。するしないの押し問答の末に、結局ジェシカは二回目のキスをたっぷりとされてしまった。
 ぐったりしたジェシカは、どこが流されやすいのかと小さく文句をつけたのだった。









 
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