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アーカイン帝国2

その日ーー。

アーカイン帝国の皇城に激震が走った。


皇帝が血に濡れた姿で帰城したのだ。


皇帝の顔には、乾いてカピカピになった血がこびりついている。

服の前面にも、袖にも、赤黒い血の跡………。


普段なら、返り血すら浴びない皇帝が………。

ましてや、自分の血で服を汚すことなど、これまでほとんど無かった。


だが、それだけではなかった。


皇帝の顔色がひどく悪い。

顔は青ざめ、どこか生気すら感じられない。

何かに憔悴しきっているように見えた。


「へ……陛下!?」

その姿を目にした瞬間、出迎えたシエルの顔が強張った。


「い、いかがされたのですか!?まさか………お怪我を!?」

普段は何が起きても冷静沈着な宰相が珍しく声を上ずらせる。


「怪我などしていない。しばらく放っておいてくれ…」

皇帝はそう言うと、シエルの心配を振り払うようにフラフラとそのまま自室へと向かっていく。


シエルはしばらく茫然としていたがーーやがて、はっと我に返った。

急いで踵を返し、騎士団総長の部屋へ駆けていく。


扉の前まで来ると、扉を勢いよく叩いた。


「ブレンダン!いますか!?」

「なっ、なんだ!? どうした!?」


中から驚いたブレンダンの声が返ってくる。


「皇帝陛下が大変です!!」

「陛下が!?」


勢いよく、扉が開いた。

シエルは、出てきたブレンダンの腕を掴むと、ほとんど引きずるようにして連れ出そうとした。


「来てください!!」

「お、おい!一体何があったんだ!?」


珍しく、余裕を失った宰相の様子に、騎士団総長もただ事ではないと察する。


「とにかく、陛下のところへ!」


二人は急いで皇帝の自室へ向かった。

部屋の前までたどり着くと、シエルは一度足を止め、息を整えた。


「陛下………ブレンダンと参りました。入室の許可をいただけますか?」


しばらくしてーー。


「………入れ」

中から皇帝の声が返ってきた。


しかし、シエルはかすかに違和感を覚えた。

声が妙に近かった気がする。

だが、今はそれを気にしている場合ではない。

シエルはその疑問をいったん頭の隅へと追いやり、ブレンダンとともに部屋の中へと進んだ。


「失礼いたします」


二人は同時に足をとめた。

先ほどの疑問の答えは、すぐに分かった。


皇帝は、部屋に入ってすぐ横の壁にもたれかかるようにして、床に座り込んでいた。


しかもーー。

頭を抱え、体育座りをしている。


「「………。」」


二人の間に、なんとも言えない沈黙が落ちた。


まさか皇帝が、こんなところで体育座りをしているとは。


二人は、幼い頃から皇帝を知っている。

まだ、皇帝が皇太子だった頃から、ずっと一緒だった。


しかし、こんな姿のノアイライトを見るのは初めてだった。


ーー昔から、穏やかな子供だった。

怒ることも、悲しむことも、ほとんどない。


いつも穏やかな表情を浮かべていた。


ーーけれど、それは本当に「穏やか」なのだろうか。


笑っているわけでもない。怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。


それは、ただ、穏やかな表情を顔に貼り付けているだけの、言ってしまえばーー無表情。

二人はそれをよく知っていた。


そんな彼が今、膝を抱えて体育座りをしている。

二人には、それがただ事ではないことだけは、すぐに分かった。


シエルは、しばらくノアイライトの姿を見つめていた。

やがて、刺激しないように穏やかな声で話しかける。


「陛下………お怪我はないのですよね?」


ノアイライトは膝を抱えたまま、ほんの少しだけ頷いた。


「………ああ」

「そうですか。でしたら…とりあえず、席に着きませんか?」


シエルはそう言って、ゆっくりと手を差し出した。

ノアイライトはしばらくその手を見つめていたが、やがて手を伸ばす。


シエルとブレンダンに支えられながら、ゆっくりと立ち上り部屋の奥にある応接用の机へ向かった。

しかし、その足取りは、やはりどこか頼りない。


そして、三人は静かに席に着いた。


最初に口を開いたのはブレンダンだった。

いつもの彼なら、もっと勢いよく問い詰めただろう。


けれど今は、目の前の皇帝の様子を見て、自然と声を落としていた。


「…陛下。本日は不可侵の森へ行かれたのですよね?」


ノアイライトは答えない。

ただ、俯いたまま黙っている。


「一体、何があったのですか?」


隣にいるシエルも、何も言わず皇帝を見つめていた。


しばらくの間、部屋には重い沈黙が流れた。


やがて。

「………森で」

ノアイライトが、ぽつりと呟いた。


「つがいに会った」


その言葉に、シエルとブレンダンは思わず目を見開いた。

だが、今は驚きを口にしている場合ではない。

二人は顔を見合わせることもなく、ただ黙ってノアイライトの言葉を待った。


ノアイライトは、またしばらく俯いたままだった。

そしてーー。


「………その子は」

とまた、ポツリ、ポツリと話し始める。

それからノアイライトは、今日、不可侵の森で起きたことを二人に話した。



香りに導かれるように不可侵の森の奥へ進んだこと。


そこで眠っている少女に出会ったこと。


顔を近づけすぎて、起き上がった少女とぶつかってしまったこと。


鼻血を出して、少女からハンカチを差し出されたこと。


皇帝としてではなく、一人の人間として接したかったので、本名ではなく”ノア”と名乗ったこと。


少女は不可侵の森の中に建つ、不思議な様式の建物で生活しているらしいこと。


そしてーー”子供が一人で不可侵の森にいるのは危険すぎるだろう”と伝えたところ、少女の顔からすっと表情が消えたこと。


それまでは、戸惑っている様子ではあったが、和やかに話してくれていたのに………。

とても冷たい声で”大丈夫”と突き放すように言われたこと。



二人は一度も口を挟まず、黙ってその話を聞いていた。


やがて、すべてを話し終えると、ノアイライトは俯いた。


しばらく沈黙したあと、ポツリと呟く。


「………つがいに嫌われた」

その声は、これまで聞いたことがないほど弱弱しかった。

まるで、世界のすべてに見放されたかのような落ち込みようである。


「「………」」

シエルとブレンダンは、思わず顔を見合わせた。


ーーそこまでか?


二人とも、同じことを思った。

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