九 歌屋ノ表
人間は、人間として産まれ、人として生き、そして、人間として死ぬ。
人間には、見えるものと見えないものがある。
見えるもの。それは、信号機、ビル、スマホ、オムライス、コーヒー、スプーン、蝶、花、猫。
見えないもの。それは、空気、時間、音楽、価値、心、嘘、神様、幽霊。
人には、ミエル者とミエナイ者がいる。
ミエル者。それは、幽霊が見える者。
ミエナイ者。それは、幽霊が見えない者。
西見 友里恵 (にしみ ゆりえ)
松廣 神奈 (まつひろ かんな)
兎澤 朱美 (とざわ あけみ)
興野 信介 (きょうの しんすけ)
羽賀根 朋子 (はがね ともこ)
品野 紫乃 (しなの しの)
8
暗い部屋のデスクの上で、モニターの右上の日付が変わったと同時に端末の画面が光った。
『依頼未達成連絡
本ミッションの報酬はありません。』
タイピング音を止めて、画面を確認する。
『ペナルティ実行連絡
報酬の十倍の金額が、取引相手に支払われます。』
続いて届いた通知を画面を閉じると、西見は再び視線をパソコンの画面に戻し、新薬研究のレポートを打ち込んだ。
神は、これがお望みだったのでしょうか。
でも、でも。いまひとつ。私の願いをお聞きください。
私の独り言を、お耳にいれないでください。もう、二度と言わないから。
貴方様のお耳をお汚しにならないことを祈ります。許してください。
あぁ。会いたかった。愛したかった。
どうかあの子たちが、来世ではもう私の元へ現れませんように。
きっと嫌われてしまっただろうから。
あの子たちは、私をママと呼んではくれないだろうから。
「ねえ、友里くん。聞いてるの?」
爪楊枝に刺さった唐揚げを突き出して、女は西見に言った。
西見は、正面に座っている女に頷いた。「聞いてるよ」手元の冷めたフライドポテトを口に放り込んだ。
晴天に恵まれた休日の昼下がり。創業七十年の歴史をもつ古びた遊園地ヒュッゲパークに、西見は訪れてきた。
リズミカルな音楽を背景に、賑やかな声と人が愉快にアトラクションを楽しんでいる様子でいっぱいだった。
フードコートはほどほどに混雑していた。広がったパラソルの下で、ソフトクリームやフランクフルトなど食べながらそれぞれ一時を満喫していた。
「また?これで何度目?ちっとも聞いてないじゃない」女は唐揚げを頬張った。「あなたが行きたいって言うから来たのに、つまらなくても私の話くらい、いつもより聞きなさいよ」スチールのテーブルの下で足を組みなおした。
「ごめんよって。聞いてるって。ちゃんと」
「じゃあ、今まであたしがなんの話してたか言えるの?」女は目を細めた。
「この間の模試の話」
女は手で口元を隠して目を見開いた。「正解」メロンソーダを飲み干すと、透明の容器に氷だけが残った。「じゃあ、最後なんて言ったと思う?」
「結果が良かったのも、多分前日の俺との勉強のおかげだと思ってるよ。ありが」
「ねえ!」西見がそこまで言ったところで女は遮った。「ちゃんと聞いてるんなら何かしら反応してよね!まったく、恥ずかしいなあ」女は後ろで束ねた髪を触った。
自分の立場が優位と感じる時、足を組み直す。その逆で、自分の立場が優位に思わないと感じる時、髪を触る。癖を大体熟知できるくらいには時間が経過した。付き合って二ヶ月の彼女は、明日、彼女ではなくなる。
「ことよが恥ずかしがる姿を見たかったんだよ」目の前の女は、彼女でいる必要がなくなるから。
「え?」女は西見の目を見て、訊いた。その目尻に、頬に、表情は無かった。「今、なんて?」女の名前は、まこ。
「あ、いや」西見は焦った様子で、氷だけが残った透明の容器の縁を口に近づけた。かつてアイスコーヒーが入っていた容器の中の氷水を一口飲んだ。 「こと・・・今年も。今年も恥ずかしがる姿が見たかったんだよ」焦ったフリをした。「まこの。ね」
「・・・そうよね」女は、取り乱した様子を隠すように笑顔を作った。「今年も?そっか。去年もここに来たもんね。二人っきりじゃなくて、学校のみんなと来た時のことだよね。あれ。その時ってあたしたち話したっけ」女は横髪を耳にかけた。
「まこ。忘れちゃったの?」西見は、汽車のような形をした赤色の売店を指さした。「そこのソフトクリーム屋で並んでる時に、俺ら前後だったじゃん」
女はぼんやりと空を見上げた。「あ!」思い出したようだった。「そうだね!それで、男子の誰かが私のキーホルダーに値札がつきっぱなしって教えてくれて」
「そうそう。それ、俺」それを言ったのは、西見の隣にいた別の男子だが。「あの時も、恥ずかしって言って笑ってたね」嘘がバレる確率は、おそらく低い。
「覚えててくれてるなんて、友里くんすごい!でも、あれ。友里くんだったっけ」
なぜなら、この女は目の前のことでいっぱいになりやすい。「俺だよ。あの時に一目惚れしたから」
女は俯いて目を逸らした。足を組みなおして、ありがとと短く言った。
容易い。実際、一目惚れしてなければ目も合わせていない。スマホのゲームに夢中だったから。ことよなんて人も、周りに一人もいない。
「それより、今日は付き合ってくれてありがとう」
チェーンで繋がった二つの鍵を顔の前にぶら下げて、西見は女に言った。「明日必ず返すから」
「絶対無くさないでね。怒られるの、あたしなんだから」
うん、と言って西見は頷いた。
出入り口ゲートの傍には、開閉園時間と定休日を示す掲示物があった。
案内窓口に座った化粧の濃い年配の女性は、女に気がつくとにこやかに手を振った。女は、その女性に対して軽く頭を下げてから控えめに手を振りかえした。
女は、この遊園地のアルバイトをしている。
夜中の電話でたまに女の話題に登場する鳩山さんという人物は、おそらくあの人なのだろう。誕生日は、五月八日。年齢不詳。夫婦円満で、医師の息子が二人。一人は妻子持ちで海外勤務、一人は独身で地元で個人医をしている。紅茶とクッキーが好きで、荻コーヒーショップと掛け持ちで勤務。
大した情報量ではないが、西見が自分のことをここまで知っているとは、あの女性はきっと微塵も思わないだろう。
ゲートを出ると、二人は繋がった手を離した。
「素敵な二ヶ月記念日をありがとう」西見と反対の駅に向かおうとした女に、西見は言った。「これからもずっと大好きだよ」
立ち止まった女は振り返って、俯いて目を逸らした。そして、顔を上げて手を振った。
大丈夫。もう、おわるから。
翌日、早朝。
朝日が昇る前の薄暗い駐車場には霧がかかっていて、周りに人の影はなかった。
西見の背丈くらいのゲートシャッターに『本日定休日』のプラスチック版と施錠がかかっていた。
ゲートシャッター上の二台の監視カメラは赤いランプを点滅させていた。作動している。
本来、二十四時間体制の警備室は無人で、パソコンとモニターは監視カメラの映像を写していた。一つは園内の一箇所、一つは警備室を見つめる西見が写っていた。
二日酔いと通勤電車の遅延が無ければ、警備員の男は今ここに座っていたであろう。
昨夜、丑三つ時まで男と盃をかわしていたのは西見だった。調子を合わせて男にたらふく酒を飲ませたあと、男が通勤に使う電車の時刻に合わせて作動するように、踏切に小さいトラップを仕掛けた。トラップは、夜通し走る自動車の振動と風を利用して目的の場所に移動したあと起動するため一見して仕掛けには見えない。しかし、風の強さや向き、走行自動車の頻度など影響因子が多く、今回の成功は検証を重ねた賜物だった。
昨日女から借りた二つの鍵を取り出して、片方をゲートシャッターの施錠にいれてみる。
施錠は、解けた。
重く古い音をたてながらゲートシャッターを開けて、なかへ入った。
警備室の扉の施錠を開けようと試みたが、もう片方の鍵は警備室の鍵ではなかった。となると、案内窓口か。
案内窓口の扉は、鍵で開いた。
奥まった場所にあった狭い別室に、金庫はあった。
職員用のデスクを端から漁り、引き出しから金庫のナンバーが書かれたメモ用紙を見つけた。
ダイヤルを回して開けた金庫には、現金と予備の鍵束が眠っていた。
鍵束を持って向かった警備室は、その中の一つの鍵で開き、中へ入ることができた。
二つのモニター画面を順に切り替えて、記憶する。監視カメラの台数と正確な位置。
書類が綴られたファイルをいくつか手に取りデスクに広げ、園内警備の詳細な情報を頭に入れる。
『二ヶ月前に故障が疑われた数台の監視カメラは点検済み。現在正常。』
広げたファイルを押しのけて、西見は自身のノートパソコンをたちあげた。
ハッキングソフトにログインして、必要な操作をする。
エンターを押すと、警備室の二台のモニターは砂嵐に変わった。他のカメラ映像に切り替えると、同じ砂嵐の映像もあれば正常に作動している映像もある。
問題なかった。二ヶ月前の検証の結果だ。必要な場所だけ隠せればいい。
スマホで時刻を確認する。警備員が遅れて到着するまで、あと三十分弱。十分だ。
準備は整った。
鍵束を元の金庫に戻したあと、案内窓口の扉を施錠した。
眠ったままの入場ゲートを通り抜けると、人気のないその古い遊園地は沈黙で西見を迎えた。
ムクドリスーパーマーケットの週末の午前中は、平日に比べて店内は混雑する。
買い物かごにぎっしり二つ分の商品をカートに乗せてレジに並ぶお客様は少なくないし、会計時に商品の追加や交換、商品説明を求められる対応もそれ相応にして増える。
売り場でもそうだ。商品案内だけでなく、値上げしただの場所が分かりにくいだの、在庫が少ないだのと、何かと意見をいただく機会も増える。
忙しい時間帯を乗り越え、空になった折りたたみコンテナを台車に積むと、それを引き連れて、松廣神奈は倉庫に戻った。
お疲れ様です、と午前中勤務のパートさんが続々とタイムカードをきって店を出ていく。そういえばこの間の学芸会どうだった、とパートさん同士の世間話が聞こえる度に、スタッフの治安に安堵していた。
松廣自身もパート雇用の身で働いていて、来月で十一年になる。店のオープン当初からいて、新人にはベテランと面白半分に紹介されることもある。
迅速で且つ的確な対応でお客様からの満足度も高く、新人の失敗を怒らずフィードバックとアドバイスに変換して伸ばすとスタッフからの評判も良い。だが、その評判がいい理由には別の理由もあった。
狭い倉庫内に、怒号が響いた。
「あなたに昨日言ったじゃない!」
松廣より二年遅れて入った兎澤朱美は、新人の大学生の女の子に向かって言った。新人は何度も頭を下げている。
「いい加減にして!あなたがやってくれると思って頼んだのに、困るのはお店のみんななんだよ!」
兎澤はそう言い放ってから、店内に戻った。
「気にしないでね」松廣は、新人の女の子に近寄った。「言い過ぎだと思う。でも、彼女はあなたにうまくやってほしくて言ってるだけだからね」
大丈夫です、気にしてないので、と新人は笑顔を作った。作り笑いの目は、少し腫れぼったい気がした。
「あのー、松廣さん。これ、ここに置いちゃってもいいですか?」
一ヶ月前くらいに入ったバイトの男の子が、後ろから声をかけてきた。台車からダンボールを降ろしていた。
御手洗行ってきます、と新人の女の子は男の子と入れ替わるように倉庫から出ていった。
「うん、いいわ。ありがとう。仕分けは私がするから。レジとフロア見てきてくれる?」
はい、と台車を隅に寄せて男の子は店内に戻っていった。
松廣が仕分け作業を始めると、すぐに男の子は倉庫に戻ってきた。「レジフォロー入ってくれてるみたいです」そして、松廣と少し距離をあけて仕分け作業を始めた。
倉庫の壁は薄く、沈黙で作業をすると店内BGMと店内放送とお客様の話し声がよく聞こえた。
「今日、雨、降らなそうですよね」
気を使って話を振ったのは、男の子のほうだった。
「そうね。予報は大外れ。混んでて、いろいろと作業間に合わなそうー」素早く手を動かしながら、松廣は次のダンボールを開けた。「どう?もう慣れた?もう一ヶ月くらいになるわよね?西見くん」
「いやー、まだまだですよ」西見も遅れをとらずと、次のダンボールを開けた。「一ヶ月といっても、入ってる時間も少ないですし。作業覚えるので精一杯って感じです」
「ここのお店は忙しいからねー。お客様対応で時間溶けちゃうものねー。どう?うまくやっていけそう?」
西見は、先程の兎澤の怒号を思い返した。「そうっすね。困ったことがあったら、頼りがいのある先輩ばかりなんで」
松廣は軽く笑った。「そりゃなによりですよー」
畳んだダンボールはカゴ車に山積みになった。
松廣は休憩に行くといい、倉庫から出ていった。
一ヶ月前から始めたスーパーのバイト。
大体把握できたと、遠くの方でフロア清掃をする兎澤を見て西見は思った。
西見が次に出勤した時には、店頭に『バイト募集』の貼り紙があった。
おはようございますと、友里恵が休憩室に入ると松廣が流し台を磨いていた。「おはよー」
デスクの上には箱に入ったクッキーがあった。その隣の開かれた従業員用ノートは、新しく書き込みがあった。
『短い間でしたがお世話になりました。
皆さんとお仕事が経験できてよかったです。
少しですが召し上がって下さい。
お疲れ様でした。戸口』
名前は、新人の女子大学生のバイトの子だった。
「戸口さん、やめちゃったんですか」西見は、個包装のクッキーを開けて咥えた。
「ねー」松廣は短く応えた。
「学生だし、大変だったんですかね」
「うーん。いろいろねー」含みを持たせた言い方だった。
「こういうことってよくあるんですか?」ロッカーからエプロンを取り出して、持ってきた鞄をロッカーしまう。「前にもお客さんから、ここのバイトの子はころころ変わるって」
「うーん。少しだけ厳しい人がいるとねー、嫌な思いもする人だっていて当然だし」松廣が水道を捻ると、キュッと高い音がした。「注意はしてるんだけどね」
「兎澤さんですか?」
松廣は躊躇してから、小さく頷いた。
「おはようございまーす」休憩室の扉から入ってきたのは、兎澤だった。
「あ!おはよう。兎澤さん」松廣は、それは自然とドアノブに手をかけた。「じゃ、先行ってるねー」
この一ヶ月間で、数回入ったこのバイトに収穫はあった。
では、とっておきのエンディングを聞かせてもらおう。
「この店って、いじめとかあるんすかね」
兎澤は、何それと笑った。「それって、あたしが新人に厳しいって話?」続けた。「いじめとか言わないでよ。あたしは、ちゃんとできてほしいから教えてるのにさー」
善意は時に、人を殺す。
猫がいた。
茶色の目をしたその黒猫は、正しく座って、西見をじっと見つめていた。
定休日、早朝の遊園地。
白い霧で、もやがかかったようなフードコートで、目を瞑ってからまだ二分と経っていない。
気づくと、赤い汽車の傍に彼はいた。
ビニールチェアから腰をあげ、西見が黒猫に近づくと、待っていたかのように黒猫は立ち上がって歩き始めた。
先導する黒猫は、度々振り返った。西見がついてきていることを確かめるその姿は、客人を誘う案内係のようだった。
"「待っていれば、いずれ、誘われる」"
言われていた通りに、西見は黒猫のあとを追った。
メリーゴーランド乗り場に、バイキング乗り場、ゴーカート場、ジェットコースター乗り場を通り過ぎて、向かっている先に観覧車が見えた。
しかし黒猫は、観覧車よりずっと手前にあるテントの形の建物のところで曲がった。
てっぺんに赤色の旗を靡かせた、赤と白のストライプ模様の三角形のテントの建物は、サーカス場だった。
ピエロが両手をひらいた模型がある入口の両扉を閉まっていて、ひび割れた壁面にはゾウやライオンが芸をするイラストがあった。
壁面と柵の間を黒猫は進んで歩き、サーカス場の裏へまわった。
そこで、足を止めた。
洋館を思わせる風貌の小さな建物。
看板の文字は、取り外されて無くなっていた。
『MIRROR HOUSE』
かすかに残っていた跡の文字は、かつてこの建造物がミラーハウスとして人々に親しまれていたことを物語っていた。
水の枯れたバードバスに黒猫は飛び乗ると、そのしなやかな身体を丸くさせた。
扉を開けると、中はひんやりとしていた。
建物外見からは想像もできないであろう内装。どの方向に目を向けても、自分がいる。目の前にも、上にも、下にも、左にも、右にも、扉がしまった音がした後ろにも。
鏡の世界。
鏡だけで作られた内装のミラーハウス。足元には、クラスターライトが青色に光っていた。
西見が一歩前に足を進めれば、視界の全員の西見の姿が一歩それぞれの前側に足を進めた。
両手をポケットにつっこんだまま、西見は鏡の世界をあてもなく歩いた。
そして、少しして立ち止まった。
「こんにちはー」
言われていた通りに、西見は誰かに挨拶をした。
西見以外に誰もいないミラーハウスで、西見の声は谺した。
"「耳を澄ませ」"
言われている通りに、耳を澄ました。
物音も、足音も、人の声も聞こえなかった。聞こえるのは、自分の息と心音だけだった。
"「ゆっくりななつ数えたら、こう言うんだ」"
「大丈夫。怒ったりしないよ」視界の何人もの自分が、同じ表情で同じ口の動きをした。「赤い手紙のおじさんの知り合いなんだ」
近くで、軽い何かが落ちた音がした。
西見は、十数えた。
「ごめんよ。今日は、持ってきていないんだ」西見は、申し訳なさそうな声色と表情を作った。「代わりに、もっといい物を持ってきたよ」言われてる通りの台詞だった。
ゆっくりと、また十数えた。
「それじゃあ、俺にお歌をきかせてくれる?」
"「歌屋だ」"
ここへ来る前、案内人はたしかにそう言った。
聞こえるはずのない幽霊の歌声を、ただの人間の西見は待った。
時計の針が二周して、拍手をした。
「素敵な歌だった。ありがとう」
西見の拍手の音が鳴り響くまでの間、ミラーハウスは無音に沈んでいた。
"「聴き終わったら、礼を言って約束の取引にかかれ」"
西見は腰を落としてしゃがむと、取引に必要なものをカバンからだして、鏡の床にひとつずつ置いた。「それじゃあ約束通り、お礼をしなくちゃね」床には、一輪の造花と、空間を作って、金が入った金袋が置かれた。
"「あっちで待っていると伝えてやれ」"急に離れたら驚くかもしれんからな、案内人の声はいつもより穏やかだった気がすると、西見は思い出した。
「おにいさんはあっちで待ってるから。決まったころに、また見に来るね」
時計の針が一周する前に、変化はおきた。
遠くで、コインが落ちる高い音。
振り返ると、造花と一緒に置いたはずの金袋が離れた場所に移動している。金袋は、開いた状態になっていた。
起こったその変化は、取引が成立したことを表していた。
提案時より、移動もしくは消失があったものが代金として選ばれたことになる。
相手が歌の代金として選択したのは、金だった。
花は、選ばれなかった。つまり、今回の相手に暗殺してもらいたい人はいないらしかった。
西見は足元に落ちている造花を拾い上げ、開いた金袋がある場所へ戻った。
”「取引を済ませたら、別れを告げろ。依頼に向かえ。
それだけだ。
うまくやれ」"
片手に造花を持った西見は思い出していた。案内人は言った。今回の取引相手は、罪のない子どもであるということを。
「素敵な歌だった」ぼそっと、呟いた。「ありがとう」
罪のない子どもの素敵な歌。
案内人に、西見は訊いた。なぜ、罪のない?
案内人は、西見に応えた。流産だ。
「生まれてきて、会えるはずだった?」
ミラーハウスで、ひとり、西見は呟いた。「愛されるはずだった?」
西見は、両親を思い描いた。
「母さんは」俺を愛してくれた。
ここにいる子も、そのはずだった。
歌声が聞こえて、耳を澄ました。
ミラーハウスは、静寂だった。
「ありがとう」優しい取引相手にそう言って、西見は開いた金袋を拾った。「ところで、それはなんの歌なの?」台本にない台詞だった。
西見は、造花も、選ばれた金袋も、カバンにしまってミラーハウスに別れを告げた。
「目の前の欲望に打ち勝つことで、人間本来の美を取り戻すことができます」
全身裸の指導者は、ヨガをする数人の様子を見てまわりながら語った。「そうすれば、我々は神に再び近づくことができます」
指導者以外も皆、指導者の姿同様、産まれたままの姿でヨガのポーズをしている。流れる汗は首を伝っていた。
「思い出すはずです。大事な身体と心の健康と、楽園のような豊かな暮らしを」
とあるマンションの最上階の一室で、今日も儀式は行われていた。
この集団を豊潤淑美会と名付けたのは、その指導者である興野信介だった。
「しかし、あなたはもうあの頃の愚者とは違います。蛇も林檎も、必要ないのです。その過ちを、知っているからです」興野は、熱心にヨガに取り組む会員ひとりひとりに強く語りかけた。
最上階からのひらけた景色に、自分の中の知らない何かを解放するような気持ちで、男も女も全員が全てをさらけ出していた。
「仲間と共に共感しましょう。分かち合い、抱き合い、健康と美を尊敬し愛しましょう。欲望を捨て、神が造られたそのままの人間の姿に戻りましょう」
興野の言葉で、会員は今までキープしていたポーズは崩し、興野に向き合った。
「昨日より、今日のあなたは美しい」今日もありがとうございましたと、興野は頭を下げた。
儀式が終わりを告げると、会員は自然と笑顔を浮かべていた。会員同士で抱き合い、共に流した汗を共有した。
そのなかに、羽賀根朋子はいた。
着替えを済ませた羽賀根が帰ろうとした時、後ろから声をかけられた。
「羽賀根さん、お疲れ様」
「お疲れ様です。兎澤さん」
兎澤朱美は、羽賀根と同じ職場のパート従業員である。「羽賀根さんって明日出勤?」
「あ、いや。明日は、お休みをいただくことにしました。申し訳ありません。今回の会も、これを一旦区切りとしまして、会のほうもしばらくお休みをいただくつもりです」
「そうなんだ」兎澤は、遠くで会員と親しく話す興野を見てから訊いた。「それって、体調不良?」
「え?えっと」羽賀根は、兎澤からの視線を逸らして応えた。「そうです。最近どうも調子が悪い日が多くて。ご迷惑おかけします」
パート先の店長に長期間の休みの希望と理由については話したが、兎澤に伝えた覚えはなかった。
「へー」頭を下げた羽賀根に、兎澤は半笑いで言った。「まさか、おめでたではないよね?」
羽賀根は少し驚いたが、表情は隠した。
「違います。まさか、そんな」
「そうだよね。崖っぷち寸前のあなたをここに招待して、あなたを救済してあげたのはこの私だよね」兎澤は、人差し指で羽賀根の唇に触れた。「そんな恩人に、羽賀根さんは嘘はつかないわよね」
こくりと、羽賀根は頷いた。
それをみた兎澤は、ふっと笑って、羽賀根の耳元で囁いた。「嘘ついたら、許さないからね」舌で耳に触れた。
ひゃっと高い声をあげた羽賀根は、赤面のまま振り返って出口に向かった。
興野に近づいた兎澤は、艶っぽい声で呼んだ。「興野さん、今日もご苦労さまでした」
興野の周りを囲っていた会員は去り、興野は兎澤に向き直った。
「君も、お疲れ様」興野は人の目が届かない場所で、兎澤の尻を撫でた。「今日も素敵だったよ」
「それより、興野さん」兎澤は鋭い眼差しで興野を見つめて、小声になった。「裏切り者がいるようですよ」
その夜、興野と兎澤はホテルのベッドの上にいた。
甘い言葉を囁きあい、ベッドは軋み、互いに喘ぎあった。
豊潤淑美会は、設立時から変わらないルールがある。会員同士の恋愛と淫らな行為を禁止。
「エロジジイが紛れ込んだら一溜りもないからな」興野は煙草をふかした。行為後の一服だった。
「俺以外の、でしょ」裸のままの兎澤は、スマホを片手に言った。「会員からスマホを没収するのも情報漏洩の対策だもんね」
「あたりまえだ。俺のための時間なんだから」
「じゃあ、どうする?美人が一人、誰かのものになったようですよ」
そのルールに新たに加えられたのが、処女または童貞であることだった。
「結婚ならまだしも、妊娠なんて」興野は、親指を噛んだ。
怒った時の興野の癖だった。兎澤は、内心それを気持ち悪いと思っていた。
「おろさせるしかないわよね?」画面をスクロールしては、眺めた。
「だが、相手の了承を得られるはずないだろう。この会が公になるのも避けたい」
「なら、私に任せて」兎澤は、スマホを枕元に置いて興野の背中から抱きしめた。
熱く柔らかいものが当たった感触に、興野は再び興奮を覚えた。
放り出されたスマホ画面には、写真や動画が一覧になって写っていた。
画面に写る全て、目隠しされた女性が撮影者の陰部を舐めるシーンとその逆、首を絞められるシーン、放尿をするシーン、玩具で自慰行為をするシーンだった。
『別れよ』
短いメッセージに、西見は短く返信した。『わかった』
相手は二ヶ月付き合った女で、昨日記念日を迎えたところだった。
女には、癖があった。自分の立場が優位と感じる時、足を組み直す。その逆で、自分の立場が優位に思わないと感じる時、髪を触る。加えて、嘘をつかれた時に俯きがちに目を逸らす。
都合のいいように西見に利用されている立場であることに女が気づいたのは早かった。
気付き始めてからは、西見との夜中の電話はわかりやすく減って、代わりに女友達との通話履歴が増えた。しかもその履歴は、遊園地のバイトが休みの日に朝まで長時間電話していることが多かった。
耐えきれなくなった引き金になったのは、その電話相手のアドバイスだろう。電話相手のカップルはつい最近別れた。男の浮気が原因で。
眩しい朝日に大きな欠伸をして、ねみぃと呟いた。
本数の少ないバスを待って、ようやく目的地に到着したときには睡魔は限界に達しようとしていた。
木造建築の古い平屋。
壊れて鳴らないインターホンを通り過ぎて、玄関の引き戸をがらがらと開けると魚の焼けた匂いがした。
キッチンから食器を洗う音が聞こえた。
「ただいまー」
食器が重なる音がやんで、年配の女性は玄関のほうへ顔を覗かせた。
「東井さん?」
腰の曲がった女性は、西見の顔を見るなり解けるように笑顔になった。
「元気してた?紫乃さん」
エプロンで濡れた手を拭きながら、品野紫乃は西見を歓迎した。「お陰様で元気してたよー。東井さんも元気してた?」
「もちろん。なかなか来れなくてごめんね」
「いいのよ」片手で拳を作った品野は、ぽんっと胸を軽く叩いてみせた。「そのための、あたしだもの」
「ささ。今からご飯だけど、東井さんも食べていきな。昨日の残り物だけどね」品野はキッチンに戻っていった。
「すぐ行くから適当でいいからねー」
聞こえているのか聞こえていないのかも分からないまま、西見は別室へ向かった。
品野紫乃。名前は、偽名。年齢、不詳。推定年齢、七十前後。もともとは、ホームレスだった。
薬草の栽培と管理のためにアパートやマンション、一軒家を複数借りている西見は、各施設の管理に苦労することがあった。
そこに居合わせたのが、ホームレスと呼ばれる人間だった。住民登録も十分じゃない人間は、薬草の違法栽培をする家の管理には当然うってつけだった。
管理に人員を導入したのは最近の話。名もない汚い老人に、生活を提供した。代わりに、施設内の植物の管理を任せた。
ヘルパーを雇って身の回りを最低限に整えさせ、美容院に、洋服屋に、靴屋に行かせた。
西見は老人を、「紫乃」と呼んだ。
見違えるほど綺麗になった品野は、涙を零して西見に感謝した。
好きな時に好きなことをしていい、と西見は品野に言った。ただし、仕事は必ずやること。もう一つ、俺、東井について干渉しないこと。
「申し分ないね。みんな綺麗だ」植物の様子を一通り見終わった西見は、食卓についた。「システムの異常もないし。問題なさそうだね」
テーブルには豆腐が浮かんだ味噌汁と焼けた鮭、白米、小鉢にひじきの煮物、納豆のパック、それぞれ二人分並んだ。
「お花がかわいくってね、いい日課になってるよ」いただきます、と品野は手を合わせた。
「紫乃さんが花が好きでよかった。紫乃さんが良ければ、庭の手入れをしてくれないかな。俺は、六月の紫陽花が好きでね」
「ならば、やらせておくれ」品野は、納豆をかき混ぜた。「ちょうどこの前、洗濯物を取り込んでる時に庭が寂しいななんて思ってたんだよ」
西見は頷きながら、柔らかい白米を口に運んだ。
「そういえば今日、遊園地に行ってきたよ。紫乃さん知ってる?」
「そっかい。昔は、この曜日は定休日だったんだけどね。楽しかったかい?」
西見は、何事もなかったかのように会話を続けた。「まぁ。ね」
「そうかい。あそこも、昔と比べりゃ栄えたもんだよ。たいしたもんだ。あっちからすりゃあ、不名誉なこったろうけどね」
西見の箸は、止まった。「なに?」
「東井さんは若いから知らないかもしれないねぇ。場所もあたしらが暮らしてた場所から近かったもんだから、噂になってたよ。宗教事件って」
宗教と偽り勧誘し、半年にわたって繰り返された性犯罪。主犯の男は、すぐに逮捕された。
犯罪が明るみになったのは、団体の会員だった被害者の夫による公表だった。
男性は弁護士であり、内部の情報を警察に届け出ることによって捜査に至った。
逮捕後も、被害者夫の男性は許せないと何度も語った。「こんなのが存在しなければ、妻は流産なんてしなくてよかったのに」と、瞳に涙を浮べては拳を強く握っていた。
ネット記事には、そう綴られていた。
「あの遊園地の設立者のご婦人も、どうやらその宗教にハマってたみたいで。報道番組に取り上げられる時に、被害者の中にはー、なんて。言わなくてもいいことまでいうもんだから、遊園地の知名度まであげちゃって」SNSでもその遊園地の名前は度々話題になって、と品野は当時のことを教えた。「まぁ繁盛してるならいいんだけど、なんだか不名誉に思っちゃってね」
「ありがとう。また近々くるよ」
西見は、栽培した薬草をいくつか瓶に詰めたものをビニール袋にいれた。
「こちらこそ、ありがとう。またいつでもおいで」
購買人は、提供された商品やサービスへの代金をテーブルの上に提案する。
店主は、商品の代金を選択できる。
購買人によってテーブルに置かれる品は、造花と金が入った金袋。
では店主に提案する代金は、造花か金か。実はそうではない。
それは、人間が見える情報であるだけ。店主は、人間ではないかもしれない。
代金として提案されるのは、みっつ。
一つ目は、生者の殺し。
ふたつめは、亡者の殺し。
三つ目は、金。
このみっつの選択から、店主は代金を自由に選択する。
金を選ばなかった店主を、以降、依頼人と呼称する。依頼人は、最も恨む人間の殺しを依頼する。
それは生者でも、もしくは、亡者でも。
生者の殺しは簡単。暗殺するだけ。
でも亡者の殺しは、どうするか。亡者はその通り、もう死んでいる。
亡者を殺しは、蘇生だ。
生き返るんだ。人間として。
浴びせられるような悲劇と絶望を伴う豊かな人生を、また最初から始めてもらう。
そうだろ?この自殺願望で咲き乱れた世界で、亡者にとってそれが一番の殺しだろ?




