八 飯屋ノ裏
人間は、人間として産まれ、人として生き、そして、人間として死ぬ。
人間には、見えるものと見えないものがある。
見えるもの。それは、信号機、ビル、スマホ、オムライス、コーヒー、スプーン、蝶、花、猫。
見えないもの。それは、空気、時間、音楽、価値、心、嘘、神様、幽霊。
人には、ミエル者とミエナイ者がいる。
ミエル者。それは、幽霊が見える者。
ミエナイ者。それは、幽霊が見えない者。
西見 友里恵 (にしみ ゆりえ)
案内人
津野 晃司 (つの こうじ)
津野 早希 (つの さき)
スマホの口座アプリを開くと、多額の数字と『入金』の文字が並んでいた。
「・・・件につきましても、小松様のご理解とご協力があっての結果となりました」
営業のための笑顔を作った紺色のスーツ姿の男は大袈裟な身振りをしながら、西見に言った。
目の前で、饒舌に話すのはとある製薬会社の社員。薬の取引相手だ。「数日前にお送りしたメールはご覧いただけましたか?」
はい、と西見は頷いた。
「ありがとうございます。そちらの内容を改めまして、今回の件を要約・・・」
今回は、外回り慣れした社員を寄越したのだろう。革靴ではなくスポーツシューズに、動きやすく軽い素材でできたスーツはシワひとつない。しかし、ネクタイとネクタイピン、腕時計は芸能人も御用達のハイブランド。
「・・・になりまして、こちらの方針は既に小松様にご理解いただいている通りでございます」
先ほど渡された名刺は、偽物。
偽名の取引相手は今、新薬の研究レポートを西見から買い取った製薬会社の代表代理として、『小松』と名乗った西見に笑顔を振り撒いている。相手も当然偽名と分かっているだろう。
新薬の研究レポートは、今回も多額の金となった。
研究のための施設も貸してくれるし、国内未発表の論文や開発途中で未承認の化学合成物質のデータも閲覧できる。データベースのアクセス権限をもらった訳ではないが。
これが初めてのことではなかった。互いに都合のいい取引は生き延びる。そして、世間は狭く、闇は深い。そうこうするうちに現在、取引相手の企業は一社ではなくなった。
「それでは、この書面をもちまして、私は失礼いたします。またの機会があれば、我々一同、どうぞご贔屓によろしくお願いします」
「こちらこそ。是非、よろしくお願いします」
扉から出ていく直前、最後に一度頭を下げて男は去った。
扉の前にはホワイトセージが咲いていた。
ローテーブルの上で重なった書面の束をシュレッダーにかけ、洗面台に向かう。
頭と顔面から変装を剥がし、服装も元のものに着替えると、鏡には西見友里恵が写った。
使ったテーブルの消毒をする前に、湯を沸かす。珈琲でも淹れよう。
「いつからいた?」
西見は、いつの間にかデスクチェアに座っている案内人に言った。
「いつでもいいだろう」
消毒用エタノールをテーブルとソファに撒く。「いつでもいいけどさ」
取引相手が扉から出てから、扉の開閉の音はしなかった。
なら、考えられるのは、それ以前からこの部屋にいた可能性。
俺が到着したのは、午前中。取引相手より一時間先に、この部屋に入った。その時に気配があるなら分かるはず。それが、気配はなかった。
考えるのを諦めて、西見はため息をこぼした。
「羽振がよさそうじゃないか」
「おかげさまで」乾いたタオルで撒いたエタノールを拭き取っていく。「生活には困っていませんよ」
「息子が違法ドラッグで生計を立ててると知ったら、母親はどんな顔をするだろうなあ」
西見は母親に、違法ドラッグの売買に関与していることを隠している。
「バレたら、そん時だ」
「やけに、冷静だな」
もう何度も、想像したからだ。
最初は、犯罪に手を染めるたびに母親の顔がチラついた。
悲しむだろうか。怒るだろうか。
生まれてきて一度だけ、母親に怒られたことがある。理由は、もう思い出せない。
ただ、俺に向かって、母さんが怒っていたことしかもう覚えていない。
「そんなことより、お前がきたってことは仕事か?」
タオルを洗濯機に投げ入れて、西見はドリップコーヒーを引っ掛けたカップに沸いた湯を注いだ。
端末が鳴った。
メッセージには、地図が添付されていた。送り主には、『案内人』。
「仕事だ」
7
津野晃司は、旅館『金色楼閣』の料理長だった。
それは、生前の話。
今となっては亡者の姿で、未練を残したこの世を未だに彷徨いている。俗にいう、幽霊だ。
「情けないの言葉に尽きる」
廃料亭の一室で一人、晃司は深いため息をついた。
気づけば、順調だった生活は跡形もなく壊れていた。
妻とは、娘の早希が幼い頃に別居した。
離婚後は、思春期真っ只中の早希から精神的暴力を毎日浴びせられ、帰る家もなく職場や車に泊まることが増えた。
晃司がいない日は、妻が家に家事をしに来ている様子もあったし、早希の生活に関しては心配はなさそうだった。
思春期が終わる時期には、上京するのに早希は家から出ていった。それからは、妻も家に来なくなった。
早希が成人を迎えてからは、晃司に対して謝る機会が増えた。思春期だったから仕方ないと晃司からも何度も早希を許したが、暴言を言ったことや辛い目にあわせたことをそれでも早希は謝った。
誕生日もクリスマスも、父の日も早希は毎年欠かさずにプレゼントとメッセージを晃司に送った。晃司は気恥しいほどだった。
「何もかも順調なんてないんだから、ある時に俺は気づかなきゃいけなかった」
後悔を吐いたところで、引き戸が開いた。
入ってきたのは、一人の青年だった。
しかし、晃司は驚かなかった。
ここが数年前に廃旅館になってからは、マニアが度々訪れる。
夜には心霊マニアが、昼間には廃墟マニアがカメラを回しながら好き勝手喋って帰る。
多くはないし、こちらに害を加えてこないので静かに見守っていた。
今回もその類だろうと、晃司はまたクルマの雑誌に目線を落とした。
「こんにちは。西見友里恵です。初めまして」
晃司のちょうど向かいに座った青年に、カメラを回している様子はなかった。録音を開始した動きもなかった。しかし、明らかに誰かに向かって青年は挨拶をした。
幽霊の晃司の姿が、青年に見えるはずがない。今までも、ここへ訪れた生者に晃司の姿は見えていなかった。
晃司が少し動揺していると、青年は平然とビニール袋からビール瓶を取り出して開けた。
人がぐびぐびと酒を食らう様を見るのは久しかった。晃司は酒は飲まないが、人が酒を飲むのを見るのは好きだった。
だから、酒と飯を食らう人に囲まれる職につけたのは晃司にとって幸せなことだった。
そんな晃司にとって、この『初雪』で料理長を務めることになったことは有難い話だった。
『初雪』では、海の幸をメインに提供していた。特に人気は、フグのコースだった。
毎朝市場から直送で届く新鮮なフグの料理は、テレビやSNSで紹介されるほど注目を浴びたこともあった。
「ここに鍋料理はありますか?」
五分くらいしたとき、青年はまた誰かに訊いた。
当然のことながら晃司の姿は見えているはずもないが、晃司は面白半分に答えた。
「あるわけないでしょう。お客さん、ここは鍋よりもフグが有名ですよ」
「でも、おいしいと聞きました」
違和感のない会話のテンポだった。亡者の晃司の声が生者の青年に聞こえるはずがないのに、会話が成立したような感覚がはっきりとあった。
鍋料理は一般に提供していないメニューだったが、ある人だけの特別な待遇として提供していた。
「誰に聞いたのかは知りませんが、ここはフグ料理で有名なお店でした。それも、かつてのお話です。あなたも見てわかるでしょうが、ここはもう営業していません。ここはかつての『初雪』ではなく、ただの廃墟です」
「俺はフグも好きだけど、しゃぶしゃぶが食べたいんです」
ある人だけの特別な待遇。それを知っているのは、それを作る晃司と『初雪』の従業員数名だけだった。
その光景を思い出して、晃司は急に懐かしい気持ちになった。
料理長になってからは、いままでよりもっと忙しくなった。
部下の失敗を毎日怒鳴っては疲弊して、くたくたの身体で向かったコインランドリーで仮眠して、飛び起きて身体中が痛くて、漫画喫茶でシャワーを浴びて、眠い目をこすりながらコンビニのおにぎりを食べて、また仕事に行った。
休みの日に家に帰ると、まだ小さかった早希が玄関に走ってきて迎えてくれた。
「お母さんと作った」と言ってクッキーをくれたし、「わたしが選んだ」とくつ下をくれた。晃司が作ったオムライスを「お母さんが作った方がおいしい」と笑った。
早希が笑うと、つられて笑った。晃司はそれが幸せだった。
「俺はお腹がすきました」
気のせいか、青年と目が合った気がした。
その言葉を言われて、断る料理人なんて『初雪』が許すはずもなかった。
青年は、肉を頬張った。亡者の晃司が作った料理に驚くこともなく、不思議がることもなく、写真も動画も撮らずに、終始最も普通の食事をした。
「私には、ひとりの娘がいました。
早希がまだ幼いころには、よく二人でここに泊まったんです。
社員割もあったんですが、なにより従業員みなさんが早希を可愛がってくれるもんで、お母さんがいない時間の寂しさが少しでも軽くなればなんて、自分勝手に解釈してはこの部屋に連れてきました。
早希は、好き嫌いしない子でした。
こんな畏まった料亭の料理も美味しそうに、でもどこか探るような表情をして何でも食べました。
でも、フグは苦手だったんです。
だから、早希にだけは俺が鍋を作ってやってました。料理長の特権だったのかもしれませんね。早希にだけの特別な待遇でした。
外の迷路もそうです。社長にお願いしたら、子供客にも喜んでもらえるとのことで作ってもらいました。
思春期が終わると、また優しい早希に戻ってくれたような気がしました。
飼っている猫の写真キーホルダーをくれました。俺は猫アレルギーなので、上京するまで我慢してくれていたんだと思います。
申し訳なくなるくらい、早希は俺に優しくしてくれるんです。
だから、俺はもっと早く早希の「助けて」に気づかなきゃいけなかったんです。
俺が一番近くにいたはずなのに、助けてあげれたかもしれないのに。
早希が自殺未遂で病院に搬送されたのを知ったのは、その翌日でした。
都内の病院から着信があって知って、その日に飛行機で向かいました。
多くの障害が、早希の身体に残りました。肺と心臓の障害のせいで、呼吸だって自分一人でできないほどでした。
この先長くないと医師に告げられた早希は、謝る俺に言いました。
「もう、これからは、お父さんの、近くに、いたいな」
早希のことは、可能な限り俺の職場に近くの病院にうつしてもらいましたが、一番近くて隣の県でした。それでも、車で四、五時間かかるところです。
面会には毎週必ず行きました。
行くたびに、早希が弱っているのを見るのは本当に辛かったです。
早希は俺の最後の方、延命しないで、痛くて苦しくて、楽になりたいと泣きながら言っていました。
俺にはそれがどうすることもできなくて、俺はまたしても無力でした。
早希の親である責任を何も果たせていないと、自分を責めるうちに、精神疾患と診断されました。
身体の不調を訴えては病院に通い、おなかにがんが見つかる始末です。
自分の病気なんてどうでもよかったですが、早希はそれを許してはくれませんでした。病室で千羽鶴を折ってくれたようで、「手術、がんばって」と俺に渡してきました。
鶴を広げると、一枚一枚メッセージが書いてあるらしいんですが、そんなのもったいなくて今も壊せないままです。
自宅は売ったのでありません。早希や妻がいない家は、俺には必要ないと思ったからです。
車で生活をしていました。しかし、これがいけなかったんです。偏った食生活と極度の睡眠不足で、複数の生活習慣病を患いました。
その頃に、職場がここから新しい職場に移動が決まったんです。
その矢先でした。俺は車の中で死にました。がんに合併した脳梗塞でした。
車で一人の俺が発見されるのには時間がかかりました。俺が自分で作った運命でした。
早希は、泣いてはくれませんでした。
ただ、ただ、毎日痛みと苦しみに襲われながら目を開けては閉じてを繰り返すだけでした。
早希は、笑わなくなりました。そして、とうとう頷くことしかしなくなりました。
その姿はまるで、死を待っているようでした。
そんな早希を見て、俺が先に死ぬべきではなかったと自分を情けなく思いました。
これが、俺としての人生の一番のやり直せない失敗であり、後悔です」
青年は手を合わせて「ごちそうさま」と言ったあと、座卓に何かを置きだした。
座卓には、造花が一輪と、少し空間をあけて、金が詰まった金袋が置かれた。
「これは。・・・そういえば」
晃司は、亡者の噂で聞いたことがあった。この世には、暗殺屋がいることを。
「造花と、金。造花なら暗殺、金なら金」
そこまで言ったところで、晃司は思い出した。
亡者になったすぐのころ、ここを訪れた案内人と名乗る人物が赤い手紙を手に晃司に言った。
"「殺してほしいやつはいるか」"
その案内人と名乗る人物は、晃司に続けてこう言った。
"「いずれここにも、購買人が来るだろう。
購買人は、テーブルの上にサービスに対する代金を提案する。
サービスをした店主は、代金を選択できる。
購買人によってテーブルに置かれる品は、造花と金。
では提案された代金は造花か金か。実はそうではない。
暗示なのだ。
代金として提案されるのは、みっつ。
一つ目は、生者の殺し。
ふたつめは、亡者の殺し。
三つ目は、金。
このみっつの選択肢から店主はサービスに見合った代金を自由に選択できる。
造花なら暗殺。金なら金。選ぶといい。
なに、ただの事業さ」"
案内人はそう言って、赤い紙を置いていった。
晃司は造花を選ぶと、食べ終わった食器を持って個室から消えた。
購買人は、提供された商品やサービスへの代金をテーブルの上に提案する。
店主は、商品の代金を選択できる。
購買人によってテーブルに置かれる品は、造花と金が入った金袋。
では店主に提案する代金は、造花か金か。実はそうではない。
それは、人間が見える情報であるだけ。店主は、人間ではないかもしれない。
代金として提案されるのは、みっつ。
一つ目は、生者の殺し。
ふたつめは、亡者の殺し。
三つ目は、金。
このみっつの選択から、店主は代金を自由に選択する。
金を選ばなかった店主を、以降、依頼人と呼称する。依頼人は、最も恨む人間の殺しを依頼する。
それは生者でも、もしくは、亡者でも。
生者の殺しは簡単。暗殺するだけ。
でも亡者の殺しは、どうするか。亡者はその通り、もう死んでいる。
亡者を殺しは、蘇生だ。
生き返るんだ。人間として。
浴びせられるような悲劇と絶望を伴う豊かな人生を、また最初から始めてもらう。
そうだろ?この自殺願望で咲き乱れた世界で、亡者にとってそれが一番の殺しだろ?




