十一 学屋ノ裏
人間は、人間として産まれ、人として生き、そして、人間として死ぬ。
人間には、見えるものと見えないものがある。
見えるもの。それは、信号機、ビル、スマホ、オムライス、コーヒー、スプーン、蝶、花、猫。
見えないもの。それは、空気、時間、音楽、価値、心、嘘、神様、幽霊。
人には、ミエル者とミエナイ者がいる。
ミエル者。それは、幽霊が見える者。
ミエナイ者。それは、幽霊が見えない者。
伊住美侑 (いずみ みゆ)
柏井糸 (かしわい いと)
西見友里恵 (にしみ ゆりえ)
案内人
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「雨が降ったあとは、空気が洗われたみたいに綺麗ね」
伊住美侑は、早朝の空とそれを反射した田んぼを見て呟いた。
ゆっくりと深呼吸をして、背伸びをした。
犬の散歩をする人に挨拶をした。
「おはようございます!今日も犬さんがかわいいですね!」連れられた犬は、じっと伊住を見つめた。「お気をつけてー!」
いつも同じ時間に、同じルートをランニングする人に挨拶をした。
「おはようございます!今日もお早いですね!」走る人は、伊住の隣をすっと素通りした。「お気をつけてー!」
これは、当然である。
伊住は、四十七年前に起きた地震災害で既に死んでいるのだから。
「さ!お弁当の支度をしよう!」
現世を生きる者、いわゆる生者には、死んだ者、いわゆる亡者の伊住の姿は見えない。俗にいう、幽霊である。
日課である弁当作りは、生者のころから毎日欠かさずに続けている習慣だった。
努力は裏切らない。もしも裏切ったなら、それは努力に値しない程度だったのだろうと、勉学に励む時は常に心に留めてある。
おかげで成績優秀で、有名大学を卒業したあとは、有名企業に就職を叶えた。
副業で塾講師をしていたのは、学生には努力を惜しんで欲しくなかったから。それと、仲のいい生徒ができたから。
彼女の名前は、柏井糸。当時、高校二年生。
柏井は、伊住と似ているところがあった。
勉学や努力に対する向き合い方とか、親に対する向き合い方とか、その価値観とか。
他の生徒よりも贔屓をしているつもりはなかった。だけど、伊住にとって柏井は特別な存在だった。
だから、海外に引越しが決まったときは内心どこかで迷いがあった。
目を離したら、柏井はまた非行に走る日々に戻ってしまうのではないか。
また、学校に行かなくなってしまうのではないか。また、煙草を吸ったり、酒を飲んだり、万引きをしたり、薬に手を出したりしてしまうのではないか。
心配は、山ほどあった。
だからこそ、なのかもしれない。伊住は、柏井が柏井として大人になった時に、精一杯褒めてあげようと決意し、海外への引越しを承諾した。
また会いたかった。
会う日程を、何度も考えた。
最近はどう?なんて聞くのも、我慢した。
今に思えば、勧めた紅茶の感想くらい聞きたかった。
出来上がった弁当の蓋を閉じると、リュックに詰めて家を出た。
午前中は、小学校の運動会を見た。
午後になると、図書館の読み聞かせを聞いた。
そして夕方十七時に、塾校に到着した。
アパートのテナントに借りている塾校に、ぞろぞろと塾講師が建物へ入っていく。
「おはようございます!今日は一段と涼しいですねー」マスクをつけた男性講師は、腕時計で時間を確認してからのど飴を口に突っ込んだ。「お!それ最近広告で流れてくるやつですね!どうですか?美味しいですか?」
バタン、と男性講師は塾校のトビラを閉めると、中にあかりが点った。
伊住の部屋は、別にあった。その塾校が倉庫として所有している、同じ階の二〇四号室である。
二〇四にはお化けが出ると噂になっていたのは、何年も前の話。今ではそれは都市伝説とされて、信じる者が笑われるほどに長い時間が経った。
誰にも気づかれることなく、快適に仕事ができる。
時々、生徒を見回りに行っては口出しをして、見えないマジックペンでホワイトボードに板書をして、生徒を見守ってた。
そう、快適に、仕事が。
「こんばんはー」
「あれ?こんばんはー?」
作業部屋から玄関を覗くと、青年が立っていた。
伊住は青年に近寄って、声をかけてみた。
「あのー、あれ。生徒さん?塾ならここでないですよー。階段上がって左の」
青年は靴を脱いで一歩踏み込み、伊住の前に立ち塞がった。
「勉強しにきました」
「・・・と、言いましても。その。塾なら階段上がって左の」
「教えてください。この絵について」
差し出されたのは、鯨の絵。
「この絵のことを、貴方は知っていますね?先生」
久方ぶりだった。先生、と呼ばれたのは。
もう誰も、柏井も、伊住のことを先生と呼んではくれないから。
「私は、この絵のことを知りません」
鯨の絵。
絵に触れると、柏井と美術館に行った日のことを思い出した。
その日、伊住は柏井にその絵のことを語った。
坂道を登るバスの窓から、麓に広い海が見えた。
「せんせ?」
柏井は言った。
美術館のガイドブックを眺めたままの伊住は、少しだけ柏井のほうに耳を傾けた。「ん?」
「せんせがこの前言ってた紅茶のアソート、見つけたよ」
「え?うそ」伊住は見ていたガイドブックを畳むと、柏井に目線を向けた。
「売ってたの?」
「うん。いいづかスーパーの前の店にあった」
今若者を中心に人気を集めるカフェ、トラモント。SNSでその名が広まる前は、密かな隠れファンが多かった紅茶のアソート、ルネディ・ダウトゥンノも、今では店頭で見かけることすらなくなった大人気商品となった。
「あんな所まで行ったの?遠かったでしょう」伊住は、トラモントのロゴデザインが施されたタンブラーをドリンクホルダーからカバンにしまった。「でも、見つけてくれて嬉しいわ。飲んでみた?」
「んーん。まだ」
バスの揺れが落ち着いて、運転手が目的地の到着を知らせた。
「本当に美味しいから。感想、教えてね」
「わかったよ」
「絶対よ。本当に美味しいから」
「わかったって」
十月の朝は涼しくて、柏井は何となく息がしやすい気がした。
『寺潟美術館』の銘板の前では、海外からの観光客が写真を撮っている様子があった。
平日だが、それでも観光客は多かった。
長いエスカレーターがゆっくりと登り切ると、二人はエントランスホール中央にある受付に進んだ。
あちらこちらで少人数のグループが作られ、それぞれでガイドが説明をしていた。
ロッカーは既に空きはなく、売店では絵画のデザインのTシャツを選ぶ人の姿があった。
「大人、二人です」
伊住は受付のスタッフに言った。
当日券だと大人一人三千円と表示があり、柏井は財布取り出した。
「前売り券をお預かりします」スタッフは、伊住から二人分の前売り券受け取った。
伊住は柏井に、にっこりと笑顔を作った。
受付を済ませると、伊住は言った。
「当たり前でしょ?糸は、まだ子供なんだから」
社会人の伊住からすれば、高校生の柏井は子供扱いで不思議なことはなかった。
「さあ」伊住は受付でもらったパンフレットを広げて、順路を探した。
「ここをこうまわって見ていくのねー」
「せんせ、来たことあるんでしょ?」柏井はパンフレット越しに伊住を覗き込むようにして訊いた。
伊住は立てた人差し指を、横に振った。
「実は、ここ、寺潟美術館は、数ヶ月にリニューアルオープンしているのです」伊住が指し示した掲示版には、リニューアルオープンを記念したポスターがあった。
「リニューアル前は建物自体の改装ってホームページにはあったけど、そのあとに展示物の追加って発表があったの。だから、順路はもう一度しっかり見ておかないとね」
伊住は、順路入口に進み、音声ガイドのQRコードをスマホに取り込んだ。
ブルートゥースが接続されたイヤホンから音声テストの音源が流れてきて、片方を柏井に渡した。
「だから、私を誘ってくれたのか」
持病の肺疾患で柏井が咳き込むと、伊住は柏井の背中をさすった。
「ごめんね。先生の我儘に付き合わせちゃって」
「いいよ」咳が落ち着くと、パンツのポケットから吸入器を取り出して吸った。「せんせとどっか行けるの、これで最後だから」
伊住は、来月、オーストラリアへ行くことが決まっていた。恋に落ちた相手が海外の人だと、いつの日か照れくさそうに笑っていた。
前向きなお別れだとわかっていても、本心は寂しい思いが柏井にはあった。
何言ってるの、と伊住は柏井の手を握った。
「この間も言ったでしょ。たまには帰ってくるし、糸が呼んでくれたら先生すぐに帰ってくるんだから」
柏井は、頷いた。
「糸が悪い子に戻らないって、約束守ってくれてたらね?」
柏井は、もう一度頷いた。
先月、柏井は未成年の飲酒と喫煙で警察に連行された。その時、署まで迎えに来たのは伊住だった。
「ね?だから今日は、これからも何回もあるお出かけのなかの、たわいもないただの特別な一回よ」
柏井は、最後に頷いた。
二人は順路通りに、全ての展示物を巡り終わった。
売店は、入館した時と変わらず混雑していた。
「仕事にひとつと、塾のみんなにも買って行ってあげようかな。それと、家族に、友達に」伊住は絵画のイラストプリントがされたクッキーのクッキー缶を、いくつも買い物カゴに入れた。
日が落ちて薄暗くなったテラスに照明が灯ったのを見つけて、伊住は柏井の手を引いた。
「楽しかった。せんせ、ありがとう」
柏井が恥ずかしそうに言うと、伊住は売店で柏井のために買った物を渡した。「こちらこそ、ありがとう」
渡されたのは、鯨の絵画がプリントされたトートバッグだった。
「これ絵、あったよね!」
「糸、今回、一番その絵を見ている時間が長かったから」
他のものと比べて人気の少ないその作品の前で、柏井は立ち止まっていた。
「その絵、好き?」
「うん。なんか、見ちゃう」
綺麗とか、美しいとかでもない。それこそ、描写とか光と影とか、明暗とかタッチとか、技法は全然知らないし分からないけど、その作品には惹かれるものがあったと、柏井は思い返した。
鯨のその作品は、作者も経緯も未だ不明なのだと伊住は語った。
注文したドリンクが二人分テーブルに並んで、今日の感想を二人で言い合った。と言っても、殆どが伊住の感想だった。
「せんせは、好きな言葉とかある?」
「なあに?急に」
「せんせみたいないろんなことを知っているひとは、どんな言葉が素敵だと思うのかなって」
柏井が持ってきた鞄は、タグが切られた鯨のトートバッグの中にそのまま入っていた。
伊住は、唸りながら遠くを見つめた。
「自分を忘れることによって自分を見いだし、死ぬことによって永遠の命に生きる、かな」
それが聖人マザー・テレサの言葉だと柏井が知ったのは、ずっとあとだった。
「今日は、本当にありがとうね。糸」アパートの前まで柏井を送った伊住は言った。「元気でね」
伊住の言葉に、一瞬、心臓を掴まれたみたいな苦しさを感じた。しかし、すぐにそれは消えた。美術館の入口で、先生が手を握ってくれたのを思い出したからだ。
”「これからも何回もあるお出かけのなかの、たわいもないただの特別な一回よ」”
これが伊住が柏井に言った唯一の嘘になることを、この時の柏井は知る術もなかった。数年後の地震災害で、伊住は帰らぬ人となった。
「また遊ぼうね!せんせ」
「もちろんよー!」
見えなくなるまで、伊住は振り返っては柏井に手を振った。「紅茶の感想教えてねー!」
柏井も、伊住に手を振った。「わかってるよー!」
「柏井糸。彼女は、今も犯罪に手を染めています」
その名を、青年ははっきりと口にした。
「詐欺に窃盗、薬物に、殺人。俺は薬屋だが、暗殺屋も請け負ってる。彼女に殺されたやつの親族が、この間も俺のところに来た。柏井糸の顔写真を寄越して、この女を殺してほしいと」青年は、柏井の顔写真を絵に重ねて置いた。「それは、今回だけじゃない。これまでに何件もだ」
見て見ぬふりをしていた。
亡者になってからは日本に戻ってきて、柏井の様子を見に行く機会があった。
柏井はもう、あの頃の柏井ではなくなっていた。
犯罪グループのメンバーで、依頼された人を殺しては海や山に捨てて、手に入れた薬を浴びるようにからだにいれていた。
それを見て、ようやく勘違いに気づいた。
柏井ではなくなったのではない。これが、柏井なんだと。
それからは見るのが辛くなって、柏井のことを心配する自分の心すらも、伊住は見て見ぬふりをした。
見に行く機会が減って、柏井ももう大人になった頃、何十年後しに伊住は柏井をこの塾の前で見かけた。
真夜中。
やせ細って青白くやつれた柏井は、建物の陰になったところで仲間のひとりを刺した。
そしてほかの仲間と小声で言い合ったあと、迎えの車がきて柏井は姿を消した。
柏井は、犯罪グループのリーダー格らしかった。
刺された人は、他の仲間によって運ばれていった。
伊住は、言葉を失っていた。
柏井の前では正直で明るくいれた伊住自身の姿も、目の前でバラバラと崩壊していくようだった。
「君、暗殺屋をやっているの?なら、その依頼を受けて糸を殺せばいいじゃない」
「俺は、暗殺屋をやっている」
「だから、糸を」
「ただ俺が今日ここに来たのは、この絵のことを教えてもらいにきた」青年は、鯨の絵を伊住に寄せた。
「じゃあなんで、わざわざ糸の話題をだしたのよ」
「教えてくれたら、貴方の要望に答える」
青年の手から離れた一輪の造花と、金袋が床に落ちた。「暗殺か、金か」
「私が、糸の暗殺を君に依頼するの?」
青年は、虚空を見つめたまま答えなかった。それを見て、伊住は忘れていたことを思い出した。
この青年から、幽霊の伊住の姿は見えていないし、伊住の声は聞こえていないのだ。
青年があまりにも自然なテンポで会話をするものだから、当然のことを忘れていた。
「そうだったわね。君も、私が見えていないものね」
伊住は柏井のことで取り乱していたが、落ち着きを取り戻した。
「それなら、私の質問も答えられなくて当然ね」
「交渉には多少ルールがあって」青年は言った。「購買人のこちら側から代金の選択を強制できない」
「購買人?代金の選択?」
「詳しくは、これを見てくれ」
鯨の絵の隣に、新たに用紙が置かれた。赤い用紙に、黒い文字で文章が綴られていた。
「要するに、貴方が決めることなんだ」
「・・・糸を殺すか、お金をもらうか。私が、お金を選ぶかもしれないわよ?」
「これを聞けば、貴方はきっと金は選ばない」
すると、青年はスマホに録音された音源をスピーカーモードで再生した。
『リーダー?』
『・・・』
『リーダーは、好きな言葉とかあるっすか?』
『なんで?』
『いや、なんとなくっす』
『・・・忘れた。・・・なんだっけな』
『・・・』
『・・・えーっと』
『・・・』
『死ぬことによって・・・永遠の命を生きる。・・・って言葉』
『・・・なんか、いいっすね。なんでっすか?』
『・・・大好きな先生が、教えてくれたから』
『えーまじっすか。なんか、似合わないすね』
『殺すぞ』
『嘘っすよ。やめてくださいね』
音源は、そこで停止した。
「入手ルートは企業秘密だが、声の主は分かって貰えたと思う」青年はスマホを、ポケットにしまった。
「そして、なんと。俺から、ビッグボーナスチャーンス」
青年は反対のポケットからアイムジャグラーのchanceの文字が光るキーホルダーを出して、スイッチをオンにした。
chanceの文字がピンク色に、背景が青色に光っていた。
「この絵のことのほかに、俺はもうひとつ貴方に教えて欲しいことがある。それも教えてくれたら、俺からもうひとつ貴方にとっていい情報を渡す」
「それじゃあ。ありがとう」と青年は、扉から出ていった。
靴箱の上には、鯨の絵が残されていた。
"「この作品は、作者も経緯も未だ不明なの。私が知っていることは何もないわ。
ただ、数多くの諸説の中で、私のお気に入りのタイトルがあるの。それでもいいかしら。
ラポカリッセ・ディ・クアルクノ。
それが、この名もない作品に隠されたタイトルよ。
そうね、それともうひとつの君が知りたいことだけど。ごめんなさい。それについても、私が知っていることは無いわ。
学生の時、植物学の研究の少しやっていた時期もあったけど、そのような文献は見たことがないわね。どこで、それを知ったの?」"
”「知ってる?死んだら、あの世にいくらしい」”
"「え?なに。いい情報って、まさかそれ?」"
青年は、真剣な表情でなお虚空を見つめていた。
伊住が肩を落として、青年は言葉を漏らした。
「ではなぜ、貴方はここにいる?」
伊住は青年の言葉に、自らの亡者の姿を見た。透明であり、当然、生者の青年からは見えていないはずだった。
しかし、青年の言葉の論点はそこではないことにすぐに気がついた。
"私は、何故、現世にいる・・・?・・・何故、あの世にいない・・・?"
”「柏井糸に、会えるといいね」”
扉から出ていく直前に、青年は言った。
伊住は、一本の造花を空き瓶に生けた。
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”「三丁目の豆腐屋の向かい、三階建てアパート二階の、一番奥だ。
十八時を過ぎれば、鍵は空いている。入りなさい」"
ガチャりと、西見はドアノブを引いた。
狭い玄関に、靴はなかった。
ガチャりと、扉が閉まると外からの明かりが遮断され一切の光がなくなった。
「こんばんはー」
西見の声は、誰もいないワンルームに谺した。
靴箱の上には、乱雑に重なった書類の束とネームタグがついた複数の鍵。
短い廊下には、未開封のダンボールが積み上げられ、シュレッダーにかけられた紙くずはビニール袋につめられていた。
"「学屋だ。
そこにいるのは優秀なやつだ。博士号も幾つか取っている。
先生と呼ぶのには相応しいだろう」"
ここにくる前、案内人は西見に言った。
靴を脱いで、一歩廊下に足を踏み入れる。
「勉強にしにきました」
そう言ってから、渡されていた一枚の鯨の絵を靴箱の上に置いた。
「教えてください。この絵について」
暗闇の中で、バスが左折する音とバイクが走る音が近くで聞こえた。
この部屋は現在倉庫として使われているらしいが、出入りはほとんどないのだろう。埃がこもったような匂いがした。
"「これを見せるといい。
見せたら、こう言うんだ」"
西見は、言われた通りに次の台詞を言った。
「この絵のことを、貴方は知っていますね?先生」
"「今回は、特例だ。
しかし、やつになら分かってもらえるだろう。
真面目なやつだ。自分にも、他人にも」"
「柏井糸。彼女は、今も犯罪に手を染めています。詐欺に窃盗、薬物に、殺人。俺は薬屋だが、暗殺屋も請け負ってる。彼女に殺されたやつの親族が、この間も俺のところに来た。柏井糸の顔写真を寄越して、この女を殺してほしいと」西見は、柏井の顔写真を絵に重ねて置いた。「それは、今回だけじゃない。これまでに何件もだ」
"「だめだ。
暗殺を強制することはできない。
お前は、あくまでも購買人でしかない。
物を買う人間が、物の値段を決められるのはおかしいだろう?
物の値段を決められるのは、買い手ではない。売り手だ」"
「俺は、暗殺屋をやっている。ただ俺が今日ここに来たのは、この絵のことを教えてもらいにきた。教えてくれたら、貴方の要望に答える」
西見は、一輪の造花と、金袋を床に落とした。「暗殺か、金か」
数日前に、目を腫らした女は、西見のもとに訪れた。
どこで聞きつけたか、頬に涙を伝わせたその女はインターフォンのカメラ越しに言った。
「もしも、人違いならごめんなさい。人が死ぬ薬はありますか」
どちらでもいい、とその女は言った。死ぬのは、旦那を殺した人でも、私自身でもと。
警察捜査の進捗と、マスコミに公開されてる記事を聞けば殺した犯人グループはすぐに予想がついた。この辺りでは有名な犯罪グループだったからだ。それに、西見は過去に同じ依頼を蹴ったことがあった。
「ごめんよ。奥さん。やっぱり、俺には何の話か分かんないや」
そう言って、インターフォンのカメラの接続を切ろうとした。
「そうでしたか。こちらこそ、急にお邪魔してすみませんでした」
一週間後に女が首吊りなんてしてなかったら、西見はまたこの依頼を受けなかっただろうと思い返した。暗殺対象に対して、たかが一般市民の依頼報酬じゃ割に合わないからだ。こちらもビジネスだ。コストパフォーマンスが悪い話には、残念ながらのらないことが多い。
だけど、もしも、依頼人が亡者だったならば。
依頼達成の暁に、花が降る。
「交渉には多少ルールがあって、購買人のこちら側から代金の選択を強制できない。詳しくは、これを見てくれ」西見は、絵の隣に新たに用紙を置いた。赤い用紙に、黒い文字で文章が綴られていた。「要するに、貴方が決めることなんだ」
"「だから購買人は、その物に価値があることを証明する。いわば、オークションだ」"
「これを聞けば、貴方はきっと金は選ばない」
西見は、スマホに録音された音源をスピーカーモードで再生した。
『リーダー?』
『・・・』
『リーダーは、好きな言葉とかあるっすか?』
『なんで?』
『いや、なんとなくっす』
『・・・忘れた。・・・なんだっけな』
『・・・』
『・・・えーっと』
『・・・』
『死ぬことによって、永遠の命を生きる。・・・って言葉』
『・・・なんか、いいっすね。なんでっすか?』
『・・・大好きな先生が、教えてくれたから』
『えーまじっすか。なんか、似合わないすね』
『殺すぞ』
『嘘っすよ。やめてくださいね』
音源は、そこで停止した。
「入手ルートは企業秘密だが、声の主は分かって貰えたと思う」西見はスマホを、ポケットにしまった。
「そして、なんと。俺から、ビッグボーナスチャーンス」
西見は反対のポケットからアイムジャグラーのchanceの文字が光るキーホルダーを出して、スイッチをオンにした。
chanceの文字がピンク色に、背景が青色に光っていた。
「この絵のことのほかに、俺はもうひとつ貴方に教えて欲しいことがある。それも教えてくれたら、俺からもうひとつ貴方にとっていい情報を渡す」
"「いいか、今回は特例だ。
あの世とこの世の区別化を図ったり、インフラ整備をするのは案内人の仕事だ。もちろん、住民にその説明をすることも
お前は、案内人ではない。購買人だ」"
西見が話していない間、部屋は静かだった。
遮光カーテンで閉ざされたリビングに光は入らないし、使われない倉庫には電球すらなかった。
もう二度と朝は来ないような気がした。堕ちていく闇と沈黙の中で、時計の針が二周した。
「知ってる?"死んだら、あの世にいく"らしい」
"「言っていいのは、これだけだ。
うまくやれ」"
西見は、振り返って靴を履いた。解けかけた靴紐を結び直して、足元に落ちた金袋を拾って、ドアノブに手をかける。
「ではなぜ、貴方はここにいる?」
西見は言葉を零すと、扉を開けた。
「柏井糸に会えるといいね」
吐血した血が、バッグにかかった。
不協和音が鳴り響く過疎化したゲームセンターで、己が倒れた事に気がついた時には、死を覚悟した。
音が、遠のいて行く。
周りには、誰一人いない。客すら、スタッフすらも。
持病の肺疾患の薬は、遠の昔にのむことを辞めていた。いくらのんだって、身体は良くならないからだ。金の無駄だ。
だが、それが今になって祟っているとは思わない。いずれ、こうなっていた。
意識が遠のく刹那、血塗られた鯨が見えて約束を思い出した。
購買人は、テーブルの上に商品の代金を提案する。
店主は、商品の代金を選択できる。
購買人によってテーブルに置かれる品は、造花と金。
では店主に提案する代金は、造花か金。実はそうではない。
それは、人間が見える情報であるだけ。店主は、人間ではないかもしれない。
代金として提案されるのは、みっつ。
一つ目は、生者の殺し。
ふたつめは、亡者の殺し。
三つ目は、金。
このみっつの選択から店主は代金を自由に選択する。
金を選ばなかった依頼人は、最も恨む人間の殺しを依頼する。
それは生者でも、もしくは、亡者でも。
生者の殺しは簡単。暗殺するだけ。
でも亡者の殺しは、どうするか。亡者はその通り、もう死んでいる。
亡者を殺しは、蘇生だ。
生き返るんだ。人間として。
浴びせられるような悲劇と絶望を伴う豊かな人生をまた最初から始めてもらう。
そうだろ?この自殺願望で咲き乱れた世界で、亡者にとってそれが一番の殺しだろ?




