第6話 名前をあげる
目が覚めたとき、俺はまだ竜の前脚の中にいた。
朝日はすっかり高く、巣の中は明るい。竜は先に起きていたらしく、金色の瞳でじっとこちらを見ていた。目が合うと、尾がぱたん、と地面を叩く。
(起きてたのか。……寝顔、見られてた?)
竜はのそりと立ち上がり、巣の外へ出ていった。しばらくして戻ってくると、口に何かをくわえている。
巨大な猪だった。
どさり、と俺の目の前に置かれる。血の匂いが鼻を突いた。竜は誇らしげに胸を張り、鼻先で猪を俺のほうへぐいぐい押してくる。
(え、これ、俺に? 丸ごと? サイズ感がおかしい!)
俺の体は手のひらサイズだ。猪は俺の百倍はある。
そのとき、また魔素感知の端に、あの揺らぎが走った。
――……たべ……て。
途切れ途切れの、幼い声だった。
(……声だ。やっぱり、この子の声だ)
確信した。声は魔素に乗って、直接頭へ届いている。
*
聞こえるのに、返せない。
「食べないんだ」と伝えたい。ありがとうと言いたい。けれど、口から出るのは「きゅう」だけだ。
竜は首をかしげた。もう一度、猪を押してくる。
――たべ……て。おいし……よ。
(違う、そうじゃない! 俺は肉は食えないんだ! いや、ありがたいけど!)
もどかしさで、根っこの足をばたばたさせた。竜はますます首をかしげる。
どうすれば届く。声が出せないなら、あの日と同じだ。
冬の前、この子に魔素を流し込んだ。言葉が通じないなら魔素で、と。
(あれは一方通行だった。でも、この子の声は俺に届いてる。ってことは、逆もできるはずだ)
目を閉じて、魔素感知を研ぎ澄ませる。自分の中の魔素を、細く、細く、竜へ向けて押し出す。
言葉を乗せるつもりで、強く念じた。
(ありがとう。聞こえてるぞ。俺はここにいる)
届かない。
もう一度。
(聞こえてる! ありがとう! でも食べられないんだ!)
念じすぎて、頭の葉っぱがぷるぷる震え出した。額に青筋が立つ気分だ。ないけど。
五回目、六回目。魔素が、ふっと軽くなった。
何かが、繋がった感触があった。
*
竜が、ぴたりと固まった。
尾も、首も、瞬きすら止まっている。金色の瞳が、大きく見開かれた。
――……いま、こえ……した。
今度ははっきりと、言葉の形をしていた。
(届いた……!)
竜はおそるおそる、俺に顔を近づけた。
――あるじ、さま……? いま、こえ、した。あるじさま、の。
「あるじさま」。あの最後の音は、それだったのか。
(ちょっと待て。主? 俺が?)
訂正しようと念じるより早く、竜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
――ずっと、おなじ、まそ、かんじてた。
――ふゆ、さむかった。おなか、すいた。でも、あるじさまの、まそ、あった。
――さみしくなかった。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
冬の夢の中で、俺が感じた「ひとりじゃない」。あれは一方通行ではなかった。この子もまた、俺の魔素に寄りかかって、雪の夜を耐えていたのだ。
(そうか。お互いさまだったのか)
喉が詰まる。声が出せてよかったと、初めて思った。念話だけれど。
――ありがとう。俺のほうこそ、助けられた。
――でも、食べられないんだ。ごめん。俺は肉を食べないんだよ。
――たべ、ない……?
竜はますます困惑した顔をした。
――おなか、すかない? おいしい、よ?
――俺は魔素を吸って生きてるんだ。だから、お前が食べていい。半分、俺のために取っておこうとしてくれたんだろ?
――……うん。
――ありがとう。その気持ちだけで、十分もらったよ。
竜は少し考えてから、猪の肉をがぶりと食べ始めた。半分で止めて、残りを俺のそばに置く。食べない、と言ったばかりなのに。
まあ、いいか。
*
食事が終わったところで、ふと思い出した。
――そういえば、名前は? お前、名前あるのか?
――なまえ……? ない。
――ないのか。母さんは、なんて呼んでた?
――……わからない。おかあさん、こえ、かけなかった。
竜の尾が、しゅんと地面に垂れた。
母親のことを聞くのは、まだ早かったらしい。話を変えようとして、ふと、この子に名前を贈りたいと思った。
前世で、俺はいつも名前ではなく「佐藤さん、これもお願い」と呼ばれていた。名前を呼ばれるのは仕事を頼まれるときだけだった。だからこそ、この子には、ちゃんとした名前を。
昔遊んだゲームに、強くて優しい竜使いの女の子がいた。あの子の名前がいい。
――アリシア、ってのはどうだ?
――ありしあ……。
竜は口の中でゆっくり繰り返した。
――アリシア。アリシア、アリシア!
尻尾が地面をばしばし叩いた。巣の枯れ枝がまた吹き飛ぶ。俺は再び前脚にしがみついた。
――アリシア、うれしい! あるじさま、ありがとう!
――俺はコウイチだ。コウイチ、って呼んでくれ。
――こう、いち……。あるじさま!
――いや、コウイチだって。
――あるじさま!
――主じゃないんだよ。ただのコケ……いや、マンドラだ。
――あるじさま!
全く聞いてない。
俺は諦めて、ため息をついた。呼び方は、そのうち直せばいい。
*
それより、大事なことがあった。
この子は、冬の間、一人で狩りをしていた。今も、俺のために獲物を運んできた。頑張りすぎる子だ。頑張りすぎて壊れた大人を、俺は知っている。
――アリシア、聞いてくれ。約束してほしいことがある。
――やくそく?
――三つだ。一つ、無理な狩りはしない。二つ、危ない場所に行くときは、必ず俺に知らせる。三つ、手に入れたものを、一人で全部抱え込まない。
アリシアは首をかしげた。意味が半分も伝わっていないのは、表情で分かる。
――むり、だめ。あぶない、おしえる。ひとりじめ、だめ。……あってる?
――合ってる。それでいい。
――やくそく、する。あるじさまが、いうなら。
アリシアは、金色の目をまっすぐこちらへ向けた。
――あるじさま、うれしい?
――ああ。すごく、嬉しい。
人に何かを頼む側になったのは、初めてだった。断る側になったのも、初めてだった。それが、少しも怖くなかった。
アリシアは巣の中を見回してから、ぱっと顔を上げた。
――あるじさま、ここ、さむい。すむところ、つくる?




