第5話 巨大な影
逃げなければ。
そう思った次の瞬間、体はもう動いていた。
根っこの足で地面を蹴る。転びそうになりながら、巣の隅へ走った。手のひらサイズの体では、逃げ込める場所も限られている。目に入ったのは、枯れ枝の山だった。
(あそこだ!)
頭から突っ込む。枝の隙間に体をねじ込み、動きを止めた。
……頭の葉っぱが、はみ出ている。
(だ、大丈夫。ただの草に見える。俺は草だ。ただの草だ)
自己暗示をかけながら、枝の隙間からそっと外を覗いた。
巣の入口を、赤銅色の巨体がふさいでいた。
大きい。母竜ほどではないが、見上げるほどだ。四肢は太く、翼は雪解けの朝日を透かして赤く光っている。長い尾が、ゆっくりと地面を撫でていた。
(でかい……。誰だ、これ。母竜が帰ってきたのか?)
いや、違う。鱗の色が少し明るい。何より、魔素の輝き方が、母竜のそれより若く、荒削りだった。
竜は巣の中を見回していた。鼻先を動かし、何かを探している。
(探されてる。絶対に探されてる。俺を、食べる気だ)
枝の山の奥で、ぷるぷると震えた。震えるたびに、枝がかさかさ鳴る。
(止まれ、止まれ、止まれ俺の体!)
竜の頭が、こちらを向いた。
金色の瞳が、まっすぐに枝の山を捉えた。
*
ずしり、ずしりと、足音が近づいてくる。
逃げ場はない。もう見つかっている。観念して、目をぎゅっとつぶった。
(せめて、痛くないように……)
巨大な鼻先が、枝の山にそっと差し込まれた。
熱い息が、ふわりとかかる。
つまみ上げられた、と思った。ところが、いつまで待っても牙は来ない。おそるおそる目を開けると、竜は枝をそっとどけて、俺を見下ろしていた。
そのまま、鼻先で、ちょんとつついてくる。
(え……?)
もう一度、ちょん。
優しかった。噛む気配がまるでない。
竜はゆっくりと体を丸めた。巨大な顎を地面につけ、両の前脚で、俺の体を包むように抱き寄せる。ごつごつした鱗の感触と、体温が、全身に伝わってきた。
(あったかい……)
攻撃ではない。抱きしめられている。
竜は喉の奥から、ぐるる、と低い音を鳴らした。威嚇ではない。猫が喉を鳴らすときの音に近かった。
*
魔素感知が、竜の内側を映した。
その魔素の流れは、覚えがあった。冬の前、瀕死だった小さな体に、必死で流し込んだ魔素だ。あのときの色と、同じ匂いをしている。
(お前……あの子か?)
冬を越して、生きていた。
小さな体で、雪を払い、狩りをして、生き延びた。それがこんなに大きくなって、こうして戻ってきた。
胸の奥が熱くなった。喉があれば、きっと詰まっていた。
ただ、頭の片隅で、不安が一つ残る。
(でも、俺を認識してるのか? ただ懐いてるだけなのか?)
試しにステータス画面を開いた。何かヒントがあるかもしれない。
スキル欄の、天賦徴税に意識を向ける。すると、これまで灰色だった項目が、光を帯びていた。
【貸与中:魔素吸収(小)】
【貸与先:(名称未設定) 種族:レッサー・ドラゴン】
【累計ロイヤリティ:****】
(累計……ロイヤリティ?)
数字が桁を隠されている。指で触れるように意識すると、詳細が開いた。
――貸与関係にある間、貸与先が得た経験値の一割が、貸与元へ自動的に還元されます。
――貸与先が戦い、成長するたび、貸与元も成長します。
頭の中で、何かが繋がった。
冬のあいだ、夢の底で感じていた温かい粒。小さな雨だれのように、ぽつぽつと落ちてきたもの。あれは、この子が狩りをするたびに、俺へ流れてきた経験値だった。
そして目覚めた瞬間の、あの奔流。
(お前が、あんなに頑張ってたのか)
俺は眠っていただけだ。何もしていない。それなのに、一人で狩りを覚え、一人で冬を越え、その成果を、半分眠った俺に分けてくれていた。
一割。たった一割の取り分だ。それでも、俺を進化させるほどの量になった。
(いや、それ以上に……)
俺が何もしなくても、この子は俺を守っていた。
前世で、頼まれたことをすべて背負った結果、俺は何も得なかった。今世では、貸したものが、こんな形で戻ってきた。
不思議な感覚だった。取り立てた、というより、贈り物を受け取った気分だった。
*
竜が、鼻先で俺の頭の葉っぱをそっと押した。何度も、何度も。
まるで、無事を確かめているようだった。
(大丈夫だよ。生きてる。お前も、生きてたな)
声は出ない。代わりに、根っこの足でぎこちなく立ち上がり、竜の鼻先に、ぽんと手を当てた。
竜の目が細くなった。
嬉しそうだった。尾が、パタパタと地面を叩いている。巣の枯れ枝が、その風圧でばらばらと吹き飛んだ。
(尻尾、尻尾! 風圧すごい! 俺、飛ぶ!)
吹き飛ばされかけて、あわてて竜の前脚にしがみつく。竜はますます嬉しそうに、喉を鳴らした。
しばらくして、竜の体が、ゆっくりと横たわった。
眠るつもりのようだ。俺を抱えたまま、目を閉じようとしている。
(おい、俺まだ話したいことが……。いや、話せないけど)
言葉が通じない。それでも、こうして触れ合える。それだけで、今は十分だった。
ふと、頭の中に、かすかな違和感が生じた。
――ん、……。
音とも声ともつかないものが、魔素感知の端に引っかかった。
誰かが、何かを、言おうとしている。
竜の呼吸に合わせて、揺らぎのような何かが、ゆらゆらと頭に響く。
(なんだ、これ。……こいつの魔素が、俺に、何かを伝えようとしてる?)
揺らぎは、まだ言葉にならない。
ただ、竜が眠りに落ちるほんの直前、その揺らぎが、はっきりとした音の形を取りかけた。
――……あ……る……。
そこで、途切れた。
コウイチにとって、初めて「貸したものが返ってくる」経験になった回です。前世では、貸した時間も労力も恩も、ほとんど返ってきませんでした。だからロイヤリティを「取り立て」ではなく「贈り物」と受け取る場面は、この物語のテーマの入り口として、丁寧に書きたいと思っていました。
枯れ枝の山に隠れるコウイチは、書いていて一番楽しかったところです。頭の葉っぱがはみ出しているのに「俺は草だ」と言い聞かせる姿は、彼の臆病さとかわいげを同時に表せたかなと思います。
次回、いよいよ幼竜との「会話」が始まります。ラストで途切れた声の続きと、彼女に贈る名前にご注目ください。
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