第4話 歩けるコケ
光が、弾けた。
最初に感じたのは、水の音だった。ぽたり、ぽたりと、岩の天井から雫が落ちている。雪解けの音だ。
(……朝、か?)
そう思った次の瞬間、頭の中に何かが雪崩れ込んできた。
熱い。重い。量が多すぎる。
どこからともなく流れ込む力が、体の芯を満たし、溢れ、また満たしていく。まるで、冬のあいだ堰き止められていた川が、一気に決壊したようだった。
(ちょ、待て、待て待て待て! 入る、入りきらない!)
悲鳴を上げる暇もなく、頭の中で無機質な声が響いた。
【経験値が規定量に到達しました】
【進化条件を達成しました】
【進化先を選択してください】
(は? 進化?)
目の前に、ステータス画面が開く。レベルの欄が、見たことのない桁になっていた。
*
進化先の一覧が、ずらりと並んでいる。
【ウォーキング・マンドラ】
【ハイ・マナゴケ】
【ブルーム・スポア】
【ヴェノム・モス】
【( )】
(多いな。……おい、最後のは何だ)
一番下の項目だけ、灰色に塗りつぶされていた。選択しようとしても、反応しない。名前は空白のままだ。
(条件未達、ってことか。まあ、今は関係ないか)
残りを順に見ていく。
ハイ・マナゴケは、今より少し大きなコケ。動けない。
ブルーム・スポアは、胞子を撒く花。動けない。
ヴェノム・モスは、毒を持つコケ。動けない。
(全部、動けねえのかよ!)
ウォーキング・マンドラの説明欄に、目が吸い寄せられた。
――根を足として歩行が可能。植物系種族の中でも、最も自由度が高い。
歩行が、可能。
その二文字を読み終えたとき、選択はもう決まっていた。
(これだ。これ以外、ない)
迷いなく、指を伸ばす。指はないので、念じた。
【ウォーキング・マンドラに進化しますか?】
【はい】
体が熱くなる。芯から溶けて、また固まっていく感覚があった。意識が、ふわりと白く霞む。
*
目を開けた。
開けられる目があった。それだけで、涙が出そうになった。
(見える。……見えるぞ)
岩壁。天井の割れ目。差し込む朝日。いつもより、はっきり見える。世界の輪郭が、くっきりしていた。
まず、自分の体を見下ろす。手のひらに乗るくらいの、小さな体。緑の胴体に、二本の細い根っこが生えている。
根っこの足だ。
(あ……歩ける、のか)
恐る恐る、片方の根を動かしてみた。ぴくり。動いた。
もう片方も動かす。動いた。
立ち上がろうとして、盛大に転んだ。頭から地面に突っ込む。
(痛……くはないけど! いや、少し痛い!)
もう一度立つ。ふらつく。転ぶ。立つ。転ぶ。
五回目で、ようやく二本の根で立てた。膝はないので、ふくらはぎのような部分で踏ん張る。
一歩。
また一歩。
岩の地面を踏む感触が、根の先から伝わってきた。冷たくて、ざらざらしている。それが、たまらなく愛おしかった。
(動ける。歩ける。……俺、歩けるんだ!)
巣の中を、ぐるぐると走り回った。途中で三回転び、一回は壁に激突した。それでも止まらなかった。
前世では、走る余裕もなかった。歩くのは駅までの道だけで、急ぐのはいつも遅刻しそうな朝だった。今は、ただ走っている。目的も理由もなく、ただ走っていい。
*
息が切れて、巣の真ん中で立ち止まった。ステータス画面を開く。
【名前】コウイチ
【種族】ウォーキング・マンドラ
【Lv】1
【スキル】魔素感知(中)/天賦徴税/植物鑑定/魔素吸収(小)【貸与中】
魔素感知が中に上がっている。新しく、植物鑑定も加わっていた。
試しに、足元の草に意識を向ける。
【ヒカゲソウ:日陰に生える雑草。無毒】
その隣の、白い花のようなものにも向ける。
【月見草:夜に淡く光る。煎じると鎮静作用がある】
(すげえ。読めるぞ)
植物なら何でも分かる。これは便利だ。巣の周りには、名前も知らない草がたくさん生えている。
そこで、ふと思った。
(……ん? 植物鑑定。そういえば、俺も植物か)
自分自身に意識を向けてみると、こう出た。
【コウイチ:ウォーキング・マンドラの幼体。食用不可。掘り起こされると悲鳴を上げるが、聞いた者に害はない】
(掘られる前提かよ)
笑ってしまった。転生してから初めて、声を出して笑った。実際の声は、ちいさな「きゅう」だった。
自分の声に驚き、また笑った。
*
歩き回るうちに、少しずつ冷静さが戻ってきた。
あれだけの経験値はどこから来たのか。眠る前のことを思い返す。幼竜はどうなった。あの子は、無事だったのか。
(冬を越せたのか。まさか、死んで……)
巣の中を見回した。地面のどこにも、冷たくなった小さな体はない。ほっとして、けれど不安は消えない。
夢の中で、誰かが頑張っていた気がする。温かい粒が、ぽつぽつと落ちてきた。どんな夢だったか、もう思い出せない。ただ、あれのおかげで目覚められたような気がしていた。
(いや、考えるのは後だ。今は、この体を使ってみたい)
もう一度、巣の中をぐるりと歩く。魔素感知(中)が、以前より広く、細かく世界を映し出していた。壁の向こうの風の流れまで分かる。
足を止めた。
嬉しさが胸に広がるのと同時に、別の感情が、ひたりと足元から這い上がってきた。
(歩ける。動ける。……つまり、働ける)
その事実に気づいた瞬間、背筋が冷えた。
前世の俺は、動けたから働かされたのだ。頼まれたら動ける体があるから、断れなかったのだ。
(また、あんなふうに、なるんじゃないだろうな)
根っこの足が、少しだけ竦んだ。
自由を手に入れた喜びと、それを失う怖さ。どちらも本物だった。
ゆっくり、息を吐く。
(……いや。今度は、断れる。断れるはずだ。……たぶん)
自信はなかったが、そう言い聞かせるしかなかった。
*
そのときだった。
魔素感知が、巣の外に巨大な反応を捉えた。
空気が、ずしりと重くなる。風が逆流し、雪解けの雫が空中で止まったように感じた。何かが、空から降りてくる。
大きい。とてつもなく大きい。
巣の入口が、影で暗くなった。
(……おい、嘘だろ)
生まれ変わって最初に手に入れた自由が、いきなり終わるかもしれない。
巨大な影が、ゆっくりと巣に近づいていた。




