第3話 雪の下の夢
雪が降った。
巣の入口から吹き込んだ白い粒が、岩の窪みに積もっていく。その真ん中に、緑色の小さな塊があった。コケだ。
幼竜は、それをじっと見ていた。
子犬ほどだった体は、少しだけ大きくなっている。鱗の赤は濃さを取り戻していた。けれど、細い脚は雪に沈むたびに震える。
幼竜は鼻先で、コケの上に積もった雪をそっと払った。冷たいものが触れると、緑の塊が縮こまる気がしたからだ。
払っても払っても、雪は降り積もる。それでも幼竜は、何度もそれを繰り返した。
*
暗い。
どこまでも暗くて、寒くはない。眠っているのだと分かった。体は動かないのに、頭のどこかだけが冴えている。
そこに、声が聞こえてきた。
「佐藤さん、これもお願いできる? 佐藤さんなら早いでしょ」
前世の職場だ。書類の束が、机の端にどさりと置かれる。隣の席の同僚が、申し訳なさそうに笑っていた。
(いや、それ、お前の担当だろ)
言えなかった。「分かりました」と口が勝手に動く。
場面が変わる。終電の後の、誰もいないフロア。蛍光灯だけが白く光っている。時計は午前三時を回っていた。キーボードを叩く自分の背中を、夢の中の俺が、少し離れたところから見ている。
(やめとけよ。誰も見てないぞ)
夢の中の俺は、やめない。
さらに場面が変わる。半年前、新人が大きなミスをした日だ。俺は一週間、寝る間を削って尻拭いをした。ようやく片づいて、新人が頭を下げに来た。
「あの、ありがとうございました」
それだけだった。翌月、その新人は「佐藤さんって、断らないから頼みやすいですよね」と別の同僚に笑って話していた。給湯室の前で、俺はそれを聞いた。
(……ああ)
あのとき、何も言い返さなかった。そういうものだと思っていた。
貸した時間も、貸した労力も、一度も返ってこなかった。数えれば数えるほど、胸の底が冷えていく。
(俺は、何のために)
夢の中の自分は答えない。ただ、キーボードを叩き続けていた。
*
吹雪の夜。
幼竜は、巣の入口に立っていた。瞳が金色に光っている。外の暗闇から、低い唸り声が近づいてきた。痩せた狼のような魔獣が、雪を踏んで巣を覗き込んでいる。
幼竜は、一歩も引かなかった。背後には緑の塊がある。
小さな牙をむき出しにして、喉の奥から、精一杯の声を出した。
魔獣が飛びかかる。幼竜は転がるようにして、その首元に食らいついた。爪が滑る。牙が浅い。振り回されて、岩壁に叩きつけられる。それでも離さなかった。
長い揉み合いの果て、魔獣は動かなくなった。
幼竜は荒い息をつきながら、しばらくその場にへたり込んでいた。それから、獲物の端を引きずって、コケのそばまで運んだ。
コケは食べない。それを知っているのか、いないのか。幼竜は肉を半分に裂き、片方をコケの前に置いた。
残りの半分を口にして、また、雪を払う。
*
暗闇の底で、ふと、温かいものを感じた。
小さな粒が、ぽつ、ぽつと落ちてくる。雨だれのような感覚だ。落ちるたびに、体の奥がほんのり温まる。
(……なんだ、これ)
夢の中の書類の山が、少しずつ遠のいていく。
温かい粒が、また落ちた。誰かが、遠くで何かを頑張っている。そんな気配が、糸のように細く、こちらへ繋がっていた。
(誰だ。……ああ、あの子か)
夢の中で、前世の俺が振り向いた。深夜のオフィスに、ひとり。背中は丸まっている。
(お前、そろそろ帰っていいんだぞ)
夢の俺は、少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりとキーボードから手を離した。
*
雪が、やんだ。
幼竜は巣の入口に座り、空を見上げていた。雲の切れ間から、細い月が覗いている。北の空。母が飛び去った方角だ。
しばらくそうしていた。翼を畳んだまま、動かない。
幼竜は小さく鳴いた。返事はなかった。
やがて、ゆっくり振り向く。奥の岩陰で、緑の塊が静かにそこにある。
幼竜はとことこと戻ってきた。コケのそばで丸くなり、額をそっと押し当てる。
その瞬間、魔素が、細い糸を伝ってコケの奥へ届いた。
*
――さむくない。
言葉ではなかった。温度に近い感覚だった。
――ひとりじゃ、ない。
その一言が、真っ暗な眠りの底に染み渡った。
前世で一度もかけてもらえなかった言葉だと、気づいた。夢の中の自分が、ぽろりと泣いていた。
(……ありがとう)
声には出ない。でも、確かに思った。
その途端、暗闇の向こうから、白い光が滲み出してきた。
遠くで、雪解け水の音がする。
光が、近づいてくる。




