第2話 貸すという選択
殻が割れる音は、思ったよりも小さかった。
ぱき、ぱき、と欠片が落ちる。その隙間から、濡れた小さな頭が転がり出てきた。
赤銅色の鱗。ただし、色が薄い。洗いざらしの布みたいな、くすんだ赤だ。
(生まれた……! よかった、生まれた!)
喜んだのは一瞬だった。
幼竜は立ち上がろうとして、前脚を折り、そのまま崩れた。子犬ほどの体が、ひゅう、ひゅう、と細い息を繰り返している。魔素感知に映る体の光は、今にも消えそうに揺れていた。
(……弱い。弱すぎる)
卵は何日も温められていなかった。あの母竜が飛び去ってから、風の冷たさは日ごとに増している。この巣の魔素は、生まれたばかりの体を支えるには薄すぎるのだ。
(母さんは? いないのか。なんで戻ってこないんだ、あんなに大事にしてたくせに!)
叫んでも、声は出ない。当然、母竜も戻らない。
幼竜が、小さく鳴いた。助けを呼ぶ声ですらない。ただの、かすれた息だった。
*
(俺に、何かできないか)
考えて、すぐに自分で否定した。
何ができる。動けない。攻撃力ゼロ。防御ゼロ。俺はコケだ。
(……いや、待て)
ステータスを開いた。ステータス画面が、半透明の光で目の前に広がる。前回は魔素感知しか読まなかった。だが、あの画面には続きがあったはずだ。
スクロールする。
【スキル】
魔素感知(小)
魔素吸収(小)
天賦徴税
(三つ、あったのか)
一番下の名前に目が止まった。ユニークスキル、と但し書きがついている。
――自らが持つスキルを、他者に貸与できる。
――貸与された者が得た経験値の一割を、ロイヤリティとして徴収する。
(貸与……? スキルを、貸す?)
前世の記憶がざわりと動いた。貸して、返ってこなかったものばかりの人生だった。仕事も、時間も、恩も。
それでも今、目の前で消えかけている命がある。魔素が足りないなら、魔素を吸うスキルを持たせればいい。
(貸す。……貸す、貸す、貸す!)
念じた。何度も念じた。
【対象が指定されていません】
そうか、相手がいる。幼竜を意識して、もう一度念じる。
【対象の同意が得られていません】
(同意ぃ!?)
この赤ん坊に、同意を取れというのか。生まれて三十秒の、言葉を知らない生き物に。
脳内で叫んでみた。「怖くないぞ! いいものをあげるぞ!」
幼竜は、ぴくりともしなかった。
完全に不審者の声かけだった。前世なら通報されている。
*
言葉が通じないなら、言葉以外で伝えるしかない。
魔素感知を全開にして、自分の中の魔素を、細く外へ押し出してみた。慣れない感覚だ。蛇口を回すように、少しずつ。
温かいものが、幼竜へ向かって流れていく。
幼竜のまぶたが、かすかに動いた。金色の瞳が、うっすらと開く。焦点は合っていない。それでも、魔素の流れが来るほうを探すように、首を動かした。
(そう、こっちだ。こっちだよ)
流し続けた。ステータスの隅で、MPが減っていく。8、7、6、5、4。
(もう半分か。まだ足りないのか)
迷いはあった。俺が空っぽになったらどうなる。けれど、ここで止めたら、この子が冷たくなるのは目に見えている。
流しながら、意図を乗せた。分かってもらえなくてもいい。貸したい。助けたい。お前を、死なせたくない。
幼竜が、ずる、と体を引きずった。
一歩、また一歩。ひどく遅い動きで、コケのほうへ這ってくる。そして、震える鼻先が、俺の体にそっと触れた。
その瞬間、画面が光った。
【対象の同意を確認しました】
【スキル「魔素吸収(小)」を貸与します】
体の奥から、ごっそりと何かが抜けていく。ステータス画面のMPが、瞬く間に落ちた。
【MP】1/8
(うわ、一気に持っていかれた……!)
*
鱗に、色が戻ってきた。
くすんだ赤が、少しずつ濃くなる。巣の空気中の薄い魔素が、幼竜の体へ吸い込まれていくのが感じられた。呼吸が整う。細かった息が、規則正しい寝息に変わっていく。
(……助かった、のか)
幼竜は俺の体にくっついたまま、丸くなった。すぐそばには、母竜が残していった鱗が一枚、地面に刺さっている。その隣で、小さな体は静かに上下していた。
安堵と同時に、視界の端が暗くなった。
眠い。ひどく眠い。MPが1しかないせいだ。それだけじゃない。空気が、いやに冷たい。
(そういえば、最近寒かったっけ。……冬眠、ってやつか)
マナゴケにそういう習性があるのかは知らない。ただ、体は勝手に、深い眠りへ沈もうとしていた。
(待て。今寝たら、この子は……)
冬が来る。食べ物もなく、母親もいない。いくら魔素を吸えても、それだけで冬は越せるのか。
自分は眠ってしまう。何もしてやれない。
(頼むから、生きてくれ。俺がいなくても、ちゃんと)
寝息が、すぐそばで聞こえる。その音を最後に、意識が闇に落ちた。
願いは、ひとつだけだった。
どうか、この子が、あたたかい春を見られますように。




