第1話 コケは動かない
視界が、ぷつりと落ちた。
最後に見たのは、蛍光灯の白い光と、床に散らばった書類だった。心臓が変な音を立てている。誰かが「佐藤さん?」と呼んだ気がしたが、返事をする力はなかった。
(ああ、これ、まずいやつだ)
三十二歳。入社十年。有給はほぼ手つかず。頼まれた仕事は断れず、断れないから増え、増えるから帰れない。
(どうせ死ぬなら……生まれ変わったら、何もしないで、ぼーっとしたい)
願いのあとから、悔しさが遅れて追いついてきた。
(貸した仕事も、恩も、ちゃんと取り立てておけばよかったな)
(あと、童貞で死ぬのかよ……)
情けない未練を三つ並べたところで、意識は暗闇に溶けた。
*
冷たい。
最初に来たのは湿った冷気で、次に土と獣と、焦げたような匂いだった。
目を開けようとして気づく。開ける目がない。手も足もない。それなのに、周囲の「何か」だけがぼんやり分かる。
(……ステータス、とか?)
半ば冗談で念じると、目の前に半透明の板が浮かんだ。
【名前】コウイチ
【種族】マナゴケ
【Lv】1 【HP】3/3 【MP】8/8
【攻撃】0 【防御】0 【敏捷】0
【スキル】魔素感知(小)
「マナゴケ」の文字を三回読み返した。説明欄にはこうある。
――魔素の濃い場所に生えるコケ。動かない。何もしない。スライムより弱い。
(スライム以下って、それもう生き物の比較対象じゃないだろ)
板の下にまだ項目が続いていそうだったが、スクロールする気力はなかった。移動の欄には無慈悲に「不可」とある。
少しして、乾いた笑いが込み上げてきた。声は出ないので、脳内だけで笑った。
(何もしなくていい。確かにそう願ったよ。願ったけど、何も『できない』は別の話だろ!)
ぼーっとしたいとは言った。ぼーっとしかできない体にしろとは言っていない。
転生といえば美少女に囲まれてハーレムだ。何度も妄想した。実際は囲まれる側が苔である。村人Aどころか、背景のシミだ。
(せめてコケでも、日当たりのいい壁とかに……)
そのとき、頭の上に何かが落ちた。落ち葉だった。どかす手がないので、そのまま乗っている。
(……ああ、俺、もう本当に、何もできないんだな)
絶望は静かに来た。怒鳴る上司も鳴り止まない電話もない。ただ、動けない。
*
どれくらい経ったのか。
やることがないので、ステータスにあった唯一のスキルを試してみた。魔素感知だ。意味は分からないが、念じてみる。
世界の輪郭が変わった。
空気の中に、色のない流れが見える。風に混じって漂う細かな粒。それが体の表面から、じんわりと染み込んでくる。
(なんだこれ。ちょっと……気持ちいい)
温泉に浸かっているような感覚だった。前世では風呂に入る余裕すら削られていた。
コケになって手に入ったのが「じっとして、空気を感じる」だけとは、皮肉な話だ。だが、悪くはないと思ってしまった自分に驚いた。
感覚をさらに広げると、頭上に山のような塊があった。巨大な、熱を持った、ゆっくり脈打つ魔素の塊だ。
周囲の壁は岩。床には枯れ枝と、白く乾いた骨。そして視界の端で、艶のある赤銅色の壁のようなものがゆっくり上下している。
壁ではなかった。鱗だ。
(……ドラゴン?)
血の気が引いた。もっとも、引く血がない。
ここは巣だった。食う側の家に、俺は生えている。
(動けない。逃げられない。声も出せない。詰んだ)
塊が身じろぎするたびに、地面が揺れる。尻尾の先が、コケの頭上ぎりぎりを通り過ぎていった。
(踏まれる、踏まれる、踏まれる……!)
何も起きなかった。ドラゴンは気にも留めていない。岩の割れ目に生えたコケなど、目に入らないのだろう。
初めて背景のシミであることに感謝した。
*
何日かが過ぎた。
ドラゴンは巣の中央で体を丸め、苦しそうな呼吸を繰り返していた。魔素の流れが乱れ、ある瞬間に一点へ収束する。
巣の真ん中に、大きな卵があった。
巨大な竜が、鼻先で卵をそっと転がす。爪の先でひっくり返す手つきは、驚くほど優しかった。低い唸り声が、子守唄のように岩壁を震わせる。
(……母親、なんだな)
狩りに出る以外、彼女は一日中卵のそばを離れなかった。冷たい風が吹くと翼を広げて覆い、雨の日は体で屋根を作った。
その姿を見ていると、胸のどこかが痛んだ。誰かを待って、帰ってきてくれる家があることが、少しだけうらやましかった。
(ぼーっとしてるだけって、思ったより退屈だな。スマホがほしい……)
そんな暢気なことを考えていた、夜明け前。
母竜が、ぴたりと動きを止めた。
首がゆっくりと持ち上がる。視線の先は、北の空だった。魔素の流れが一瞬、ひどくざわつく。何かに呼ばれたように。
(……どうした?)
彼女は卵を見た。長い間、見つめていた。
それから翼を広げ、弾かれたように飛び立った。突風が巣を薙ぎ、枯れ枝が舞う。赤銅色の鱗が一枚剥がれて、コケのすぐそばに突き刺さった。
黒い影は、あっという間に空の彼方へ消えた。
待った。日が昇り、日が沈み、夜が来た。
母竜は戻らなかった。
*
巣には、俺と卵だけが残された。
風が冷たくなっている。秋も終わりだ。この巣に、残された卵を温めるものはもういない。
(なんで置いていったんだよ。あんなに大事にしてたのに)
答えは出ない。動けないコケにできることも、ない。
それでも魔素感知は、暗い巣の中心に、小さくて弱い光を捉えていた。卵の中で、何かが脈打っている。生まれたがっている。
そのとき、乾いた音が響いた。
――ぴき。
卵の殻に、細い亀裂が走った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
過労死した社畜・恒一。
転生したら、まさかの最弱生物「マナゴケ」でした。
動けない。
戦えない。
逃げられない。
……でも、働かなくていい!
本人としては理想の転生……だったはず。
そんなコウイチの前に残された、一つの卵。
果たして中から出てくるのは――?
次回、コウイチの異世界生活が本格的に始まります。
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