第34話 谷底の里
谷の縁には、岩を削って作られた階段があった。
幅は狭く、手すりもない。片側は垂直の岩壁、もう片側は、底の見えない闇だった。
「足元に気をつけてください。滑りやすい箇所があります」
先頭のネフィラが、慣れた足取りで降りていく。
――うわ……。
覗き込んだだけで、根っこの足が竦んだ。
身長一メートルのカカシが、この階段を自力で降りるのは、なかなかの冒険だった。
「主様、アリシアの手を」
――ありがとう。
「離してはだめです。約束ですから」
――分かってる。
左手をアリシアが握り、右側ではセルフィーナが、俺の肘のあたりを軽く支えている。両側から挟まれて、一段、また一段と降りていった。
*
半刻ほど降りたところで、階段の途中に、岩棚があった。
「ここで、休憩にしましょう」
ネフィラが言った。
岩棚に腰を下ろすと、体の力が一気に抜けた。見上げると、空は細い青い帯になっている。
「主様、ここは足場が狭いので」
アリシアが、俺をひょい、と持ち上げた。
――え、ちょっと。
そのまま、彼女の膝の上に座らされた。横から、セルフィーナが身を乗り出す。
「コウイチ様、お水をどうぞ。ここは、わたくしが」
「主様は、アリシアの膝の上で休むのです。落ちないように」
「あら、それでしたら、反対側から、わたくしが支えますわ」
右にアリシア、左にセルフィーナ。結局、俺は二人に挟まれて、座っているのか抱えられているのか分からない状態になった。
(絵面が、完全に介護だな)
ネフィラが、少し離れた岩の上で、気まずそうに視線を逸らしていた。
「……仲が、よろしいのですね」
――誤解です。たぶん。
「誤解ではありません」
「誤解ではございませんわ」
二人が同時に否定した。
*
再び降り始めて、さらに一刻。
空が、完全に見えなくなった。
代わりに、足元から、淡い光が滲み上がってきた。
――光だ。
「里の灯りです。もうすぐ、着きます」
最後の数十段を降りきったとき、足の裏に、平らな地面の感触が戻ってきた。
谷底だった。
空気は、ひんやりとして、少し湿っている。砂海の乾きが嘘のようだった。耳を澄ますと、どこかで、水の流れる音がする。
そして、目の前に広がっていたのは。
街だった。
岩壁をくり抜いて作られた住居が、段々に連なっている。その間を縫うように、細い道が伸びていた。道の両側には、街灯のように、小さな魔道具が等間隔に立っている。
魔道具は、淡い青白い光を放っていた。月明かりに似た、静かな光だった。
――きれいだな。
思わず、声が漏れた。
「月樹の魔素を、光に変える魔道具です。里の者の、誇りです」
ネフィラが、かすかに笑った。
*
歩きながら、俺は街灯の魔道具に近づいた。
植物鑑定ではなく、魔素感知で、仕組みを探る。
【月光灯:月樹の魔素を光へ変換する。里の生活基盤】
表面には、細かな回路の溝が刻まれていた。聖樹の根元で見つけた装置と、少し似ている。
けれど、決定的に違うところがあった。
――刻印が、ない。
エルフの里の装置にあった、あの欠けた月の刻印。この街灯には、どこにも見当たらない。回路の組み方も、微妙に違う。
(偽装、か?)
あの刻印を、ダークエルフのものだと言ったのは、リオネルだ。けれど、ダークエルフ自身が作る魔道具に、その刻印がないというのは、不自然だった。
(誰かが、わざと刻印を、ダークエルフのものに見せかけた?)
仮説が、頭の中で形になりかけた。
――ネフィラさん。この街灯、刻印は入れないんですか。
「刻印、ですか? いえ、里の魔道具には、作り手の印を刻む習慣はありません。月樹の魔素を扱う者は、全員、里の技師ですので」
――じゃあ、欠けた月の刻印は、里では使われていない。
「欠けた月……?」
ネフィラの顔が、わずかに曇った。
「その印なら、聞いたことがあります。ただ、我らの里のものではありません。古い伝承では、月樹に仇なす者の印だと」
――仇なす者の印。
俺は、思わず足を止めた。
ダークエルフの里で、その印は、敵の印と考えられている。
エルフの里では、その印は、ダークエルフの印と考えられている。
(互いに、相手の印だと思い込んでいる)
背筋が、ぞくりとした。
*
「主様? どうかされましたか」
アリシアが、心配そうに覗き込んできた。
――いや、後で話す。今は、里の人たちに、変に思われたくない。
「はい」
歩みを再開すると、住居の窓から、視線がいくつも突き刺さった。
浅黒い肌のダークエルフたちが、窓辺や戸口から、こちらを見ている。好奇心と、警戒と、そして、ほんの少しの期待が、混ざった視線だった。
「あれが、聖樹を救った……」
「植物の姿だ。本当に、あれが」
「古代龍の末裔と、死域の支配者を、従えているという」
囁きが、谷底に反響する。
(この里でも、その噂は広がってるのか)
アリシアとセルフィーナは、毅然と前を向いていた。けれど、視線の圧に、わずかに肩が強張っているのが分かる。
俺は、二人の手を、それぞれ軽く握った。
――大丈夫だ。俺がいる。
アリシアの指先が、ぎゅっと俺の手を握り返した。セルフィーナは、小さく息を吐いて、微笑んだ。
「ええ。コウイチ様が、おりますもの」
*
里の中心に近づくにつれ、建物が大きくなっていった。
岩壁に、巨大な門のような入口が口を開けている。その奥から、ひときわ強い光が漏れていた。
ネフィラが、足を止めた。
「あれが、族長の館です」
門の前には、二人の衛兵が立っている。ネフィラを見て、一礼した。
「族長は、お待ちです。どうぞ、お入りください」
門の奥は、長い廊下になっていた。壁には、月の満ち欠けを描いた壁画が、ぐるりと並んでいる。その一番奥に、扉があった。
ネフィラが、扉の前で振り返った。
「コウイチ殿。ここから先は、里の主と、直接お会いいただきます」
――はい。
「どうか、ご無礼のないよう。……いえ、あなたなら、きっと大丈夫でしょうが」
彼は、苦笑して、扉に手をかけた。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
奥から、冷たく澄んだ光が、溢れ出してきた。




