第33話 砂と谷
出発して二日目の昼、森が終わった。
最後の木を越えた瞬間、景色が変わった。緑が、ぷつりと途切れている。その先は、赤茶けた大地がどこまでも続いていた。
「ここから先は『乾きの砂海』です」
先頭を歩くネフィラが振り返って言った。
「日中は日陰がありません。水は、こまめに摂ってください」
――分かりました。
返事をしたものの、肌に触れる空気が、すでに違った。ひどく乾いている。森の湿り気に慣れた体が、ぴりぴりと軋んだ。
「主様、アリシアのそばを離れないでください」
――約束したからな。
アリシアは満足そうに頷いて、俺の右隣に張りついた。反対側では、セルフィーナが日傘代わりに水の薄膜を頭上に広げている。
*
一刻ほど歩くと、異変が起きた。
足が、重い。根っこの足が、砂の熱で焼けるようだった。枝の腕を持ち上げると、指先の若葉が、くたりと垂れている。
――あれ……。
ステータス画面を開く。
【状態:乾燥(軽度)】
【HP】41/60
(そうか。俺は、植物なんだ)
マナゴケ由来の体質のおかげで魔素は染み込んでも、水分までは補えない。魔力濾過が使えれば、空気中の水分も集められたかもしれないが、あれはセルフィーナに貸している。
「主様、お顔の色が悪いです」
アリシアが立ち止まった。
――大丈夫、ちょっと喉が渇いただけ……。
言い終わる前に、視界がぐらりと傾いた。膝が砂に落ちる。
「コウイチ様!」
柔らかいものが、俺の体を受け止めた。
*
気づけば、俺はセルフィーナの腕の中にいた。
お姫様のように、横抱きにされている。背中に、むにゅりとしたものが当たっていた。彼女のおっぱいだ。ゆるいタンクトップ越しに、ひんやりとした体温が伝わってくる。
「動かないでくださいませ。今、お水をお作りしますわ」
セルフィーナは片腕で俺を抱えたまま、もう片方の手を宙にかざした。
乾いた空気の中から、細かな水の粒が、きらきらと集まってくる。魔力濾過の青い光が走り、粒の中の砂埃と魔素の濁りが、すうっと取り除かれた。
透き通った水の球が、掌の上に浮かぶ。
「お口を開けて」
――いや、自分で飲め……。
「だめです」
きっぱりとした声だった。
水の球が、俺の口元へ運ばれてくる。
冷たかった。喉の奥まで、澄んだ水が染み渡る。枝の腕の先まで、じんわりと力が戻っていくのが分かった。
垂れていた若葉が、ゆっくりと持ち上がる。
(うまい。水って、こんなにうまかったか)
視線を上げると、すぐそこに、セルフィーナの顔があった。蒼い瞳が、心配そうに俺を見下ろしている。
「もう少し、お召し上がりくださいませ」
――ああ。……ありがとう。
二杯、三杯と水を飲んで、ようやく体が楽になった。
*
「……主様」
隣から、氷点下の声がした。
アリシアが、腕を組んで、じっとこちらを見下ろしていた。唇が、きゅっと結ばれている。
「アリシアも、お水を作れます」
――お前の氷、飲み水にするには魔素が強すぎるだろ。
「では、日陰を作ります」
アリシアは、砂の上にしゃがむと、両手を地面にかざした。ぱきぱきと霜が走って、半透明の氷の天幕が組み上がっていく。
直射日光が遮られ、ひんやりとした冷気が、頬を撫でた。
――お、これは助かる。
「でしょう?」
アリシアの顔が、ぱっと輝いた。
「アリシアは、主様のお役に立てます」
――立ってる。すごく立ってる。
「……では、そこは、アリシアの腕の中でお休みになってもよいのでは」
――いや、今は、セルフィーナに運んでもらったほうが、水を貰いやすいから……。
「…………」
アリシアの目が、じわり、と潤んだ。
――あ、いや、その、違う、そういう意味じゃなくて。
あわあわと手を振ると、セルフィーナがくすくすと笑った。
「アリシアさんが拗ねてしまわれましたわ。ですが、お水を作るのは、わたくしの役目ですもの。氷の天幕を作るのは、アリシアさんの役目。どちらも、コウイチ様には必要ですわ」
アリシアは、しばらく唇を尖らせていたが、やがて、小さく頷いた。
「……役割分担、ですね」
「ええ、そのとおりですわ」
――二人とも、ありがとう。助かった。
そう言うと、アリシアは耳まで赤くなって、そっぽを向いた。
セルフィーナは、少しだけ視線を落として、微笑んだ。
「当然ですわ」
いつもの優雅な口調だった。けれど、頬がほんのり赤い。長い睫毛が、小さく震えている。
(……照れてるな)
わざと気づかないふりをして、俺は、空を見上げた。
*
その日の夕方、砂海の風が冷たくなってきた頃に、ネフィラが足を止めた。
「ここで、野営をしましょう。夜は冷えます」
アリシアの氷の天幕が、夜は逆に防寒になった。氷は熱を逃がさない、という不思議な性質を、彼女自身も初めて知ったらしい。
焚き火を囲んで、ネフィラが少しだけ、自分の里のことを話してくれた。
砂海の地下には、古い水脈が流れていること。里は、その水脈を頼りに作られたこと。月樹が弱ってから、水脈の水位も、年々下がっていること。
「月樹は、里の水の源でもあるのです」
――月樹が枯れれば、水も枯れる。
「はい。だから、里の者は、必死なのです」
ネフィラの横顔は、焚き火に照らされて、寂しげだった。
アリシアとセルフィーナは、彼の話を黙って聞いていた。警戒は解いていない。ただ、さっきまでより、少しだけ、視線が和らいでいた。
*
三日目の昼過ぎ、足元の砂が、岩に変わった。
赤茶けた岩が、ごつごつと盛り上がり、その向こうに、風の音が変わる地帯が見えてきた。
ネフィラが、前方を指した。
「あれが、我らの里への入口です」
近づくにつれ、大地が、途切れているのが分かった。
岩の縁に立った。
目の前に、巨大な裂け目が口を開けていた。
大地が、斧で断ち割られたようだった。幅は、向こう岸が霞むほど。底は、見えない。縁から覗き込むと、光が途中で吸い込まれて、ただの暗闇が広がっている。
――……これは。
喉が、鳴った。
深い。あまりにも深い。
太陽の光さえ、あの底までは届かないだろう。
「ここを降りた先に、我らの里がございます」
ネフィラの声は、誇らしげで、どこか哀しげだった。
アリシアが、ぎゅっと俺の腕を掴んだ。
「主様。アリシアのそばを、絶対に離れないでください」
「コウイチ様、わたくしも、おりますわ」
左右から、二人の体温が伝わってくる。
谷底から吹き上がる風が、冷たく俺の頬を撫でた。
右手の甲が、じんと熱を持つ。聖樹の加護の模様が、谷底へ向かって、淡く光っていた。




