第32話 条件
――条件は、一つです。
夕暮れの巣の入口で、俺は膝をついたままのネフィラを見下ろした。
――エルフの里の聖樹に、魔道具を設置した首謀者と実行犯。その全員を、こちらへ引き渡してください。
ネフィラの瞳が、揺れた。
「……全員、ですか」
――全員です。聖樹は、あなたたちの里の月樹と対の存在だと聞きました。それを傷つけた者が裁かれないままでは、リオネルさんたちも納得できない。
それに、と俺は続けた。
――あなたが本当に、里の総意ではないと言うのなら、引き渡せるはずです。
沈黙が落ちた。
夕風が、巣の水路をさらさらと鳴らす。アリシアとセルフィーナは、固唾を呑んで、ネフィラの横顔を見つめていた。
彼は長い間、地面を見つめていた。
「首謀者は、里の中でも、決して軽い立場の者ではありません」
――でしょうね。
「引き渡せば、里の中でも、割れます」
――でしょうね。
「……それでも、よろしいのですか。私の里に、あなたが足を踏み入れることになる」
――そのための条件です。
ネフィラは、ゆっくりと息を吐いた。
それから、顔を上げた。迷いの抜けた目だった。
「お受けします」
*
「ただ、一つだけ、お許しください」
ネフィラが、言葉を続けた。
「月樹には、もう時間がありません。引き渡しは、里に着いてから、里の中で行わせていただきたいのです。ここで人を連れてくる余裕は、ございません」
「やっぱり罠です」
アリシアが、即座に言った。
「里の中へ、主様を連れ込むための口実です」
「わたくしも、同感ですわ」
セルフィーナが、静かに頷く。
俺は少し考えた。確かに、里の中で引き渡すというのは、相手の土俵に入ることだ。けれど、あの術師の目と、ネフィラの目は、同じだった。嘘を重ねる者の目ではない。
――分かりました。里で受け取ります。
「主様!」
「コウイチ様!」
二人の声が、きれいに重なった。
*
ネフィラが、巣の外で待つことになった。夜は、距離を置いて野営するという。
俺は、日向の寝床に戻った。
そこで、二人の説得が始まった。
「主様、考え直してください」
アリシアは、俺の正面に正座して、真剣な顔でこちらを覗き込んでいた。赤銅色の髪が、肩から胸元へさらりと流れる。金色の瞳が、焚き火の明かりを映して、揺れていた。
「ダークエルフは、聖樹を傷つけた連中です。信用できません。主様が、また吹き飛ばされたら……アリシアは、あんな思いは、もう嫌です」
――分かってる。心配してくれてるのは、ちゃんと伝わってる。
「だったら」
「コウイチ様」
左側から、セルフィーナが、すっと身を寄せてきた。
ふわりと、水のような涼やかな香りがした。蒼い髪が、俺の肩に触れる。白い指先が、俺の枝の手を、そっと包み込んだ。
「わたくし、コウイチ様のお考えは、尊いと思っておりますの。敵であっても、まず話を聞く。そのお優しさに、救われた者が、ここに二人もおりますもの」
――セルフィーナ……。
「けれど、だからこそ、お守りしたいのですわ。優しい方ほど、真っ先に傷つくものですもの。……ねえ、コウイチ様」
上目遣いに、蒼い瞳が俺を見る。深海のような瞳が、少し潤んでいた。
「お願いです。やめてくださいませ」
(うっ、これは、効く……)
アリシアが、負けじと反対側から俺の腕に抱きついた。
「主様、アリシアも、お願いします。お願いです。主様がいないと、アリシアは、だめです」
ぎゅうっと力がこもる。おっぱいが腕に押しつけられて、柔らかく形を変えた。じんわりと温かい。
セルフィーナも、負けじと反対の腕を取る。こちらもおっぱいの感触が、むにゅりと腕に沈んだ。
右も左も、美少女に、おっぱいで挟まれている。
しかも二人とも、今にも泣きそうな顔をして、必死に俺を見上げていた。
(なんだこれ。前世の俺が見たら、嫉妬で血の涙を流す光景だ)
心臓の鼓動が、早くなる。いや、マンドラに心臓はないはずなのだが。
「「お願いです、主様(コウイチ様)」」
声が揃った。アリシアの頬は赤く、セルフィーナの睫毛が、涙で濡れている。
――…………。
ぐらり、と心が傾いた。
傾いたが、枝の手を握りしめて、踏みとどまった。
――ごめん。気持ちは、すごく嬉しい。でも、行く。
*
「……どうしても、ですか」
アリシアの声が、小さくなった。
――どうしても。あの人の目は、嘘をついてない。俺は、それを確かめたい。
「危険、ですのに」
――危険でも、確かめなきゃいけない気がする。もしこれで、俺が間違っていたら、そのときは、二人が助けてくれ。
沈黙が落ちた。
アリシアは、しばらく唇を噛んでいた。それから、ふう、と長く息を吐いた。肩から力が抜けて、拗ねたように、頬がぷくりと膨らむ。
「……主様は、ずるいです」
――ずるい?
「そんなふうに言われたら、反対できなくなります。アリシアは、主様の『助けてくれ』に、弱いのです」
視線をそらした耳たぶが、真っ赤だった。尻尾があったら、きっと不満げに、ぱたぱたと床を叩いていただろう。
「……分かりました。行きます。でも、約束してください。絶対に、アリシアの視界から、離れないって」
――約束する。
「離れたら、ほんとうに、怒りますから」
――分かった。
ぷい、と横を向きながらも、アリシアは俺の腕を、ぎゅっと抱え直した。離す気は、ないらしい。
セルフィーナが、小さく笑った。
「あらあら。アリシアさんが折れてしまわれましたわね」
「折れたのではありません。譲っただけです」
「ええ、ええ、そうでございますわね」
セルフィーナは、俺の手を両手で包んだまま、頬を寄せるようにして、ふわりと微笑んだ。長い睫毛の影が、白い頬に落ちている。
「コウイチ様は、一度決めたら、梃子でも動かない方ですもの。そこが、お好きなところではございますけれど」
――セルフィーナ。
「ただし、ひとつだけ」
彼女は、人差し指を、俺の口元に、ちょんと当てた。
「無茶をなさったら、今度こそ、本当に、抱えて運びますわ。お約束くださいませ」
近い。顔が、近い。吐息が、頬にかかる。
――……約束する。
「ふふ。よろしゅうございます」
蒼い瞳が、いたずらっぽく細められた。少し湿った睫毛が、そのたびに揺れて、見ていると、胸の奥がきゅっとなる。
(この二人、本気で、可愛いな)
そんなことを思ってしまう自分が、少しだけ恥ずかしかった。
*
夜が更けた。
寝床では、左右から腕を抱え込まれたまま、動けなかった。
右では、アリシアが、頬を赤くしたまま、俺の腕に顔を埋めている。左では、セルフィーナが、静かな寝息に変わっていた。
ふと、右手の甲が、じんわりと温かくなった。
見ると、聖樹の加護の模様が、一瞬、淡く光っている。
その光は、東の、遠い砂漠の方角へ向かって、細く伸びていた。
(月樹の方角……か)
まるで、呼ばれているようだった。
夜明けとともに、俺たちは、ダークエルフの里へ向けて出発する。




