第30話 エルフの礼
朝の聖樹は、昨日までとは別の木のようだった。
幹の黒ずみは、根元から腰の高さまで消えている。垂れていた葉は持ち上がり、淡い光が梢へ向かって、ゆっくりと脈打っていた。
その根元に、小さな影が三つ、並んでいた。
エルフの子供たちだ。
一番背の高い男の子が、仲間の袖を引っ張られながら、じりじりとセルフィーナのほうへ近づいていく。広場の大人たちは、遠巻きに息を詰めて見守っていた。
セルフィーナは、聖樹の幹に手を当てたまま、動きを止めていた。
「……あの」
男の子が、声を絞り出した。
「おねえさん、さわっても、いい?」
広場が、しんとなった。
セルフィーナの肩が、小さく揺れる。蒼い瞳が、助けを求めるように、俺を見た。
――大丈夫だ。今のお前なら。
彼女は小さく息を吸って、膝を折り、子供と目の高さを合わせた。
「ええ。どうぞ」
男の子の小さな指が、おそるおそる、彼女の手の甲に触れた。
何も起きなかった。
ひんやりとして、やわらかい。それだけだ。
「つめたい! でも、きもちいい!」
男の子が、ぱっと笑った。
後ろの二人も、わっと駆け寄ってくる。髪を引っ張られ、袖を掴まれ、セルフィーナはあっという間に子供たちに囲まれた。
「まあ、まあ、そんなに引っ張ってはいけませんわ」
声が、笑いで震えていた。目尻から、涙がこぼれる。その雫は、地面に落ちて、静かに土を濡らしただけだった。
広場のあちこちで、大人たちが目を伏せた。母親らしいエルフが、口元を押さえている。
アリシアが、俺の隣で、ぼそりと言った。
「……よかったですね、あの人」
――ああ。
「アリシア、少しだけ、ほんの少しだけ、うらやましいです」
――お前には、俺がいるだろ。
「……はい」
耳まで赤くなって、アリシアは顔をそむけた。
*
昼前、リオネルの屋敷の前庭に、里の主だった者たちが集められた。
長老衆の席は半分ほどが空いている。謹慎中の者もいれば、ハルヴァンのように、すべての役を降りて、末席でうつむいている者もいた。
リオネルが、壇に立った。
「聖樹は、この方々のおかげで、息を吹き返しました」
翡翠色の髪が、朝日に光る。
「アリシア殿、セルフィーナ殿、そして、コウイチ殿。里を代表して、深く感謝いたします」
族長が、深く頭を下げた。
続いて、全員が一斉に頭を垂れた。ざわりと、衣擦れの音が波のように広がる。
――あの、顔を上げてください。大したことは……。
「大したことです」
リオネルが、顔を上げて言った。
「この里が、閉じたまま三百年続けてきた因習を、あなた方は、ひと月足らずで揺るがしました」
彼女は、微笑んだ。作り物ではない、四百年生きた者の、柔らかな笑みだった。
「この恩は、忘れません。何かあれば、一度だけ、必ず協力いたします。里の名にかけて」
「一度だけ、ですか?」
アリシアが、首をかしげた。
「ええ。軽々しく何度も約束するのは、重みが薄れますから」
――分かりました。覚えておきます。
長老衆の末席で、ハルヴァンが、深々と頭を下げているのが見えた。
*
それからが、大変だった。
里のエルフたちが、次々と俺の前に集まってきたのだ。
「聖樹の守護者様!」
「どうか、お言葉を」
「我が子に、お手を触れていただけませんか」
――いや、俺は、守護者とかじゃなくて……。
「謙虚でいらっしゃる」
「さすがは、死域の支配者と古代龍の末裔を従える御方」
――従えてません!
誰も聞いていない。枝の手を握られ、葉を撫でられ、小さな子供に抱きつかれて、俺は完全に動けなくなった。
背後で、アリシアとセルフィーナが、顔を見合わせてくすくす笑っている。
「主様、人気者ですね」
「ふふ、よろしゅうございましたわ」
――助けてくれ。
「「いいえ、お似合いです」」
見事に揃った声だった。
*
夕刻、リオネルが、細長い包みを抱えて現れた。
「お礼の品です。受け取っていただけますか」
包みを解くと、中から、一本の枝が現れた。
長さは、腕ほど。白に近い樹皮に、淡い翡翠色の光が、細く走っている。
――これは。
「聖樹の枝です。回復の証として、今朝、自ら落ちたものを拾いました」
鑑定を走らせる。
【聖樹の枝:世界樹の魔素を宿す。植えれば、新たな根を張る】
(植えれば、根を張る……)
枝を受け取った瞬間、手のひらがじんと温かくなった。
「植物系の方に託すのが、一番良いと思いまして」
――ありがとうございます。大切にします。
リオネルは、静かに頷いた。
*
その夜は、里の広場で、小さな宴が開かれた。
エルフたちが運んでくる木の実や、果実の甘露。俺は食べられないが、香りだけで十分に満たされた。
焚き火を囲んで、アリシアが、身ぶり手ぶりで今日の出来事を語っている。
「それで、主様が、こう、ぴしっと言って。『顔を上げてください』って」
「あらあら、アリシアさん、そこは少し違いましたわ」
「違いません」
「コウイチ様は、もっと凛々しゅうございました」
「そうでしょうか」
二人が、俺の活躍を競うように讃えている。聞いている俺のほうが、顔が熱い。
(賑やかだな。前世の宴会とは、まるで違う)
あの頃の飲み会は、上司の話を聞いて、酒を注いで、終電を気にする場だった。今は、誰も俺に何も要求しない。ただ、笑ってくれる。
それが、たまらなく、ありがたかった。
*
宴が落ち着いた頃、俺は一人、広場の端に座り、聖樹の枝を膝に乗せていた。
月は、昨日より少し太っていた。
ふと、昼間の術師の顔が浮かぶ。
――聖樹を、蘇らせた。ならば、お前たちなら、我らの樹も。
あの目は、嘘をついていなかった。
装置を埋めたのが、本当にダークエルフなのか。だとしたら、なぜ、助けを求めるような顔をするのか。
(ダークエルフ側にも、何か、事情がある)
確証はない。ただ、拭えない予感があった。
聖樹が、風もないのに、さわりと枝を鳴らした。
まるで、「その通りだ」と頷くように。




