第29話 月の使者
夜明け前、魔素感知が、里の外れで小さく震えた。
冷たい。聖樹の根元で感じた、あの無機質な気配と同じ質だった。
――アリシア、起きてるか。
「……はい、主様」
隣の寝台で、アリシアはとうに目を開けていた。金色の瞳が、闇の中で細くなる。
「外れの方角です。数は、十五ほど」
「わたくしも、感じておりますわ」
セルフィーナも身を起こしていた。昨夜の疲れは、まだ完全には抜けていない。それでも、声は落ち着いている。
――リオネルに知らせてから向かう。二人とも、無茶はするな。
「「はい」」
俺は枝の手で、棒を一度だけ生やして、引っ込めた。調子は悪くない。
*
里の外れ、聖樹の枝が届かなくなる境目に、その一団はいた。
黒に近い濃紺の外套。浅黒い肌に、銀白の髪。エルフに似た長い耳を持つ者たちが、十数人、整然と並んでいる。
(ダークエルフ、か)
その先頭に立つ男が、一歩前へ出た。
痩せた長身で、年は四十ほどに見える。切れ長の目は、笑っているのに温度がない。手には、骨のように白い杖を持っていた。
「夜分に失礼。我々は、ある品物を回収しに参っただけです」
声は丁寧だった。丁寧すぎて、薄気味悪かった。
「聖樹の根元に埋めてあった、手のひらほどの黒い装置。心当たりが、おありでしょう」
リオネルが、衛兵を率いて駆けつけ、俺の隣に並んだ。
「あれは、すでに破壊されました」
「存じております。ですから、残骸だけでも、引き取りたいのですよ」
術師は、穏やかに微笑んだ。
「素直に渡していただければ、何も起こらずに済みます」
背後のダークエルフたちが、無言で杖を構えた。
*
――お断りします。
俺は、一歩前に出て言った。
――あれは、聖樹を傷つけた証拠です。あなたたちが持ち帰る理由は、ありません。
「ほう」
術師の目が、初めて俺を捉えた。カカシのような、植物の姿を。
「これは、面白い。……あなたが、噂の」
視線が、ゆっくりと、俺の左右に滑った。
アリシアの角。セルフィーナの蒼い髪。二人は、無言のまま、半歩前へ出ていた。
「主様に、そんな目を向けないでください」
アリシアの声が、低く響いた。足元の地面に、霜が走る。
「この里で、これ以上、勝手は許しませんわ」
セルフィーナの周囲で、水の魔素が渦を巻き始めた。大気が、びりびりと震える。
術師の笑みが、わずかに固まった。
背後の部下の一人が、小さく息を呑む音がした。
空気の重さが、数倍になっていた。
二人は、まだ何もしていない。ただ、そこに立っているだけなのに、地面が軋むほどの圧が広がっている。
――……おい、二人とも。
威圧が、強すぎる。完全に、殺す気の目だった。
「主様に手を出すなら、ここで終わりです」
「ええ。一歩でも、踏み込めば」
術師は、数秒、黙った。
それから、静かに杖を下ろした。
「……なるほど。噂は、控えめでした」
部下たちに向かって、手を振る。
「引きますよ。ここで消耗しても、得るものがない」
*
ダークエルフたちが、潮が引くように後退を始めた。
術師は、最後に、ゆっくりと振り返った。
その視線は、アリシアでも、セルフィーナでもなく、俺に向けられていた。
「一つだけ、聞かせてください」
――何ですか。
「あなた方は、聖樹の汚染を、本当に浄化したのですか」
――ええ。完全ではないですが、回復し始めています。
術師の目が、ふっと、熱を帯びた。
笑みではなかった。もっと、切実なものだった。
「……そうですか。聖樹を、蘇らせた」
彼は、呟くように言った。
「ならば、お前たちなら、我らの樹も……」
言葉が、途中で途切れた。
はっとしたように、術師が口を噤む。それから、何事もなかったように、元の冷たい笑みに戻った。
「失礼。独り言です」
濃紺の外套が、夜明け前の闇へ消えていく。
残されたのは、風の音と、静けさだけだった。
*
リオネルが、剣の柄から手を離した。
「……あの男、何を言いかけたのでしょう」
――分かりません。ただ、敵意だけじゃなかった。
去り際の、あの目。
追い詰められた者が、藁にもすがる目だった。
アリシアが、俺の隣で、ふん、と鼻を鳴らした。
「主様、あいつは敵です。信用しないでください」
――分かってる。でも、気になる。
「……主様は、いつもそうです」
彼女の声には、呆れと、少しの不安が混じっていた。
空が、白み始めていた。
その東の端、夜の名残の中に、細く欠けた月が、まだ薄く残っている。
俺は、昨日の聖樹の声を思い出していた。
――あれは、敵じゃ、ない。
(敵じゃない……?)
刻印の月が、重なって見えた。




