第28話 言い訳の理由
広場に、静寂が落ちていた。
割れた魔道具の残骸が、地面に黒い破片を散らしている。その前で、ハルヴァンは杖にすがるようにして立っていた。
八百年を生きた老エルフの背が、さっきまでより、ずっと小さく見えた。
「ハルヴァン殿」
リオネルの声は、静かだった。
「お話を、伺いましょう」
「……里の内政に」
口を開きかけて、ハルヴァンは言葉を止めた。何度も繰り返してきた台詞が、もう喉を通らないらしい。
その時、聖樹が、さわりと枝を鳴らした。
*
変化は、全員の目に見えた。
セルフィーナが濾過した魔素が、根を伝って幹へ流れ込んでいく。黒ずんでいた樹皮が、根元から順に、深い茶色を取り戻していった。垂れていた葉が持ち上がり、淡い光が、梢のほうまで駆け上がる。
「聖樹が……」
「息を、吹き返している」
エルフたちの間から、嗚咽に似た声が漏れた。
ハルヴァンが、膝を折った。杖が、からんと地面に転がる。
「……わしは」
老いた声が、震えた。
「わしは、聖樹を、守っているつもりだったのだ」
*
場所を屋敷の客間に移した。長老衆のうち、事情を知る数名だけが同席を許された。さっき視線を泳がせていた老エルフも、その中にいた。
ハルヴァンは、円卓の一点を見つめたまま、語り始めた。
「秋の初めのことだ。里の外から、一人の客が来た。身なりは旅の学者。名はエルドと名乗った」
――偽名、ですか。
「後で思えば、そうだったのだろう。……その男は、わしの名を知っていた。そして、もう一つの名を口にした」
彼は、ぎゅっと目を閉じた。
「ヴァルド。わしの甥だ。百五十年前、里の掟を破って追放された」
リオネルが、息を呑んだ。
「甥は、ダークエルフの里に身を寄せていると聞いていた。客は、その甥から言伝を預かってきたと言った。『叔父上に会いたい』と。……そして、こう続けたのだ」
ハルヴァンの声が、かすれた。
「『争いを終わらせたい。三百年の憎しみを、聖樹と月樹に祈ることで、終わりにしたい』と」
「それで、聖樹に近づけたのですか」
「祈りだけだと言われた。わしは、信じたかった。甥の名が出て、里の者に言えない事情ができた。長老衆の中にも、同じ思いの者がいて、わしの判断に従った」
視線を泳がせていた老エルフが、うつむいたまま、小さく頷いた。
「リオネル殿に、告げなかったのは」
「……面目、だ」
ハルヴァンは、自嘲するように笑った。
「甥の名を出された末に、まんまと騙されたなど、長老衆筆頭として、口が裂けても言えなかった。聖樹が黒ずみ始めたときも、疑いは、すぐに湧いた。それでも、口を閉ざした。認めてしまえば、わし自身の過ちになるからだ」
彼は、顔を覆った。
「死域のせいにしておけば、誰も傷つかぬと思った。……傷つけたのは、あの娘だ」
その視線の先で、セルフィーナが、静かに目を伏せていた。
*
部屋に、重い沈黙が落ちた。
アリシアが、腕を組んだまま、低く言った。
「主様。この人、許せません」
――分かってる。
俺も、怒っていた。セルフィーナは、無実の罪で糾弾され、泣きながら償おうとしたのだ。それを、この男は黙って見ていた。
けれど、同時に、見えるものがあった。
甥の名を出されて、信じたくなった老人。恥を恐れて、言い出せなくなった老人。それは、前世で何度も見た構図だった。小さな嘘を隠すために、嘘を重ねて、取り返しがつかなくなる。
(悪意じゃない。弱さだ。だから、厄介なんだ)
許すかどうかは、俺が決めることじゃない。
――ハルヴァンさん。
俺は静かに声をかけた。
――あなたが謝る相手は、俺たちじゃない。聖樹と、セルフィーナと、この里の人たちです。
「……分かっておる」
老エルフは、椅子から降りて、床に膝をついた。
セルフィーナのほうへ向き直り、頭を、床につけた。
「死域の支配者……いや、セルフィーナ殿。そなたに、汚名を着せた。この八百年の生で、これほど恥じ入ったことはない。許してくれとは言わぬ。ただ、詫びさせてほしい」
セルフィーナは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ふわりと、いつもの微笑みを浮かべた。
「お顔を、お上げくださいませ」
「だが」
「わたくしは、聖樹がお元気になってくだされば、それで十分ですわ。……ただ」
彼女は、少しだけ声を強めた。
「同じことを、二度となさらないでくださいませ。誰かのせいにして楽になるのは、思っている以上に、誰かを傷つけますもの」
ハルヴァンは、額を床につけたまま、肩を震わせた。
「……肝に、銘じる」
*
リオネルが、静かに立ち上がった。
「長老衆に、処分を下します」
部屋の空気が、張りつめた。
「ハルヴァン殿は、筆頭の任を解きます。無断で聖域を開いた者は、合議の席から、一年間の謹慎を。そして」
彼女は、俺のほうへ向き直った。
「コウイチ殿。お約束を守れず、申し訳ございませんでした。仲間の皆様を疑いの目で見ないという条件を、里は、破りました」
深く頭を下げる。翡翠色の髪が、卓の上に落ちた。
――……謝罪は、受け取ります。でも、一番に謝るべき人は、もう謝ってもらいました。
「はい」
リオネルは、顔を上げた。苦渋の判断を下した族長の顔には、疲れが滲んでいた。
部屋の外から、ざわめきが聞こえた。
処分を聞きつけたエルフたちの声だった。「長老を裁くとは何事だ」という怒号と、「当然だ」という声が、入り交じっている。
「里の意見は、割れるでしょう」
リオネルが、窓の外を見ながら呟いた。
「ですが、これで進むしか、ありません」
――一人では、ないですよ。
俺が言うと、彼女は、ふっと目を瞠った。それから、静かに、笑った。
*
その夜。
俺たちは、宿で休んでいた。
セルフィーナは、まだ少し疲れが残っていた。それでも、顔は晴れやかだった。寝台に腰かけ、窓の外の聖樹を眺めている。
「コウイチ様」
――ん?
「ありがとうございました。……今日、わたくしは、初めて、自分の力で『ここにいていい』と思えましたの」
頬が、ほんのり赤い。
――お前が頑張ったからだ。俺は、後ろで支えただけだ。
「その『支えてくださった』ことが、どれほど心強かったか」
彼女は、照れたように目を伏せた。いつもの優雅な笑みの下に、少女のような表情が覗く。
その横で、アリシアが、むすっとした顔で腕を組んでいた。
「……セルフィーナだけ、ずるいです」
――何が。
「アリシアも、がんばりました」
――ああ。ありがとう、アリシア。
枝の手で、頭を撫でる。ぱっと表情が緩んだ。
――背中、さすってやる約束だったな。
「……覚えていてくださったのですか」
――約束は、守る。
アリシアの尻尾が、見えない勢いで揺れた気がした。
窓の外で、聖樹の枝が、風に揺れていた。
その梢の向こう、夜空の端に、細く欠けた月が浮かんでいる。
遠く、森の彼方から、何かの気配が近づいていた。




