第26話 月の刻印
リオネルが用意してくれた宿は、里の外れにある小さな木造の家だった。
窓から聖樹の梢が見える。戸口にはエルフの衛兵が二人立っていたが、リオネルの直属らしく、こちらを見る目に棘はない。
「コウイチ様、わたくしは平気ですわ。少し、立ちくらみがしただけで」
――平気な人は、抱えられて帰ってこない。
寝台の端に座ったセルフィーナを、半ば強引に横にさせる。彼女は「まあ」と言って、大人しく従った。蒼い髪が白い枕に広がる。
ゆるいタンクトップの胸元が、呼吸に合わせてゆっくり上下していた。おっぱいの丸みが布の下で揺れるたびに、視線が持っていかれそうになる。
(今は病人だぞ。見るな)
枝の手で、彼女の背中を、そっとさすった。
「……あ」
――痛いか?
「いえ。あたたかくて、気持ちがいいですわ」
ふにゃり、と表情が緩む。魔素の使いすぎで冷えていた背中に、少しずつ体温が戻っていく。
背後から、視線が刺さった。
「…………」
アリシアが、部屋の隅で腕を組んでいた。頬がわずかに膨らんでいる。
「アリシアも、昨日、戦いました」
――ああ、知ってる。
「アリシアは、背中、さすってもらっていません」
――……後でな。
「後で、ですか」
――後で、ちゃんとやる。約束だ。
「……約束」
不満げな顔のまま、それでも尻尾が揺れている気配がした。ちょろい、と思ったが、口には出さなかった。
セルフィーナが、枕に顔を半分埋めて、くすくす笑っていた。
「ふふ。アリシアさんは、本当に分かりやすいですわ」
「笑わないでください」
「失礼いたしました」
やがて、セルフィーナの呼吸が、穏やかな寝息に変わった。
*
夜が更けた。
窓の外は、月のない暗闇だった。リオネルの衛兵が交代する隙を見計らい、俺とアリシアは、裏口からそっと抜け出した。
――セルフィーナ、よく寝てたな。
「はい。少し心配ですが、リオネル殿の衛兵がいます」
アリシアは声を潜めて答える。闇の中でも、金色の瞳だけが淡く光っていた。
聖樹の広場へ向かう。昼間は人でごった返していた場所が、嘘のように静まり返っていた。白い縄の向こう、根元のあたりには、見張りが二人。
――アリシア、あの二人を寝かせられるか。
「殺さないで、ですか」
――殺さないで。
「分かりました」
アリシアが、音もなく影の中に溶けた。数秒後、二つの小さな呻き声と、どさりという音。戻ってきた彼女は、何食わぬ顔で言った。
「首の後ろを、軽く叩きました。朝まで起きません」
――……助かる。
少し怖かった。頼もしくもあった。
*
根元は、ひんやりしていた。
昼間、魔素感知が捉えた冷たい気配は、この真下から来ている。植物鑑定を地面に向けると、何重にも層になった根の隙間に、異質な反応があった。
――ここだ。アリシア、掘れるか。ただし、そっと。
「そーっと、ですね」
アリシアの爪が、土を静かに掻き分けた。あの日の水路事件の教訓が生きている。数十センチ掘ったところで、指先が硬いものに当たった。
出てきたのは、手のひらほどの大きさの、黒い金属の塊だった。
表面に、細かな溝が刻まれている。魔素の流れを導く回路だ。中央には、欠けた月をかたどった刻印があった。
鑑定を走らせる。
【魔道具:汚染魔素の注入・魔素吸引の複合装置。聖樹の根に接続されている】
――……これが、原因だ。
聖樹に汚染した魔素を流し込みながら、同時に、聖樹の魔素を吸い上げている。ただの汚染ではなかった。誰かが、意図的に聖樹を弱らせ、力を奪っていたのだ。
「主様。この印、見たことがありません」
――俺もだ。けど、リオネルさんなら、知っているかもしれない。
装置を布に包み、懐にしまう。土を元に戻して、痕跡を消した。
(長老衆は、これを知っていたのか?)
答えは、まだ出ない。
*
翌朝、宿の客間に、リオネルを呼んだ。
セルフィーナも起き上がり、顔色は随分よくなっていた。円卓の上に、黒い装置を置く。
リオネルは、それを見た瞬間、息を止めた。
「……この、刻印」
翡翠色の瞳が、大きく見開かれる。顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「ご存じなんですか」
「……いえ。確かめるまでは、何も」
声が、かすれていた。
「ただ、これが聖樹の根元に埋められていたというなら、里は――」
言いかけて、リオネルは口を閉ざした。
そのとき、屋敷の外で、足音が響いた。
一人や二人ではない。整然とした、鎧の擦れる音。
アリシアとセルフィーナが、同時に立ち上がった。
「来ました」
「ええ。数は、二十ほどでしょうか」
扉が、乱暴に蹴り開けられた。
「族長リオネル! 聖域を荒らした罪で、外の者どもを捕らえる!」
長老衆の手勢のエルフ戦士たちが、弓と剣を構えて雪崩れ込んできた。
*
矢が放たれた。
アリシアが前に出て、拳で矢を叩き落とす。続く矢は、セルフィーナの水の幕に絡め取られ、ぽとりと床に落ちた。
「屋敷の中で、矢を射るなど」
セルフィーナが、いつもの微笑みのまま、声を低くした。
「少々、無作法ではございませんこと?」
水の鞭が、戦士たちの足を払った。数人が床に倒れ込む。
アリシアが冷気を放ち、扉のあたりを一瞬で凍らせた。後続の戦士たちの足が止まる。
「主様に、近づくな!」
二人が戦っている。けれど、戦士たちの狙いは、明らかに装置と、そして俺だった。
アリシアとセルフィーナは、二人とも、俺を背後にかばう位置を崩せない。手数が足りなくなる。
(また、守られてる)
その思いが、枝の右手を動かした。
――伸びろ。
右手から、八十センチの木の棒が生える。魔力を通すと、しなやかに硬くなった。
斬りかかってきた戦士の剣を、棒で受け流す。剣技が、体を導いてくれる。半歩踏み込み、手首を返して、戦士の手首を打った。
「ぐっ!」
剣が落ちる。
別の戦士が、横から突いてきた。身を捻って避け、棒の先で脛を払う。転んだところを、アリシアの足が踏み越えていった。
「主様、すごいです!」
――まだ全然、拙い! だけど、やれる!
胸の奥が、熱かった。前に出ると決めて、本当に前に出られた。
その時だった。
円卓の上の魔道具が、突如、赤く光を放った。
――しまっ……!
欠けた月の刻印が、脈打つように明滅する。耳障りな高音が、部屋中に響いた。
罠だった。




