第23話 内側から広がる黒
リオネルの屋敷は、外から見るより広かった。
床は磨かれた白木で、壁には蔓草を編んだ装飾が掛かっている。窓からは聖樹の枝葉が見え、淡い光が室内に揺れていた。
通されたのは、円卓のある客間だった。アリシアは俺の右隣に、当然のように座る。
リオネルが茶を出してくれた。葉の香りがする、透き通った緑色の茶だ。俺は飲めないので、枝の手で器を包んで温もりだけ受け取った。
「お口に合わなくて申し訳ありません。植物系の方には、水のほうがよろしいでしょうか」
――いえ、お気遣いなく。それより、聞きたいことがあります。
俺は器を置いた。
――聖樹の汚染について、気になる点がありました。あの濁りは、死の領域の酸とは質が違います。冷たくて、粘りつくような重さでした。
リオネルの睫毛が、かすかに動いた。
――もう一つ。黒ずみが出ている場所は、幹の上から下まで、まんべんなく、というより、根元に近いほど濃いですよね。
「……お気づきでしたか」
――風に乗って外から届いた汚染なら、風上側から濃くなるはずです。でも、あれは中から滲み出ているように見えました。
植物鑑定で見た黒ずみの分布を、頭の中で並べ直す。前世の仕事で、トラブルの原因を追う癖がついていた。症状が出ている場所ではなく、最初に異常が出た場所を探せ。
――里の外に敵対する勢力や、恨みを買った覚えはありませんか。
*
部屋が静かになった。
リオネルは、しばらく円卓の木目を見つめていた。
「敵対する者は、おりません」
答えは早かった。早すぎた。
――本当に、ですか。
「……はい。エルフは、外との交流が少ない種族です。恨みを買うほど、関わってもおりません」
言葉に嘘はなさそうだった。けれど、指先が、卓の縁を小さく擦っている。
「主様」
アリシアが、小声で言った。
「この人、まだ何か隠しています」
――分かってる。
俺は急かさなかった。前世で、部下や取引先が言いにくいことを抱えているとき、急かして出てきた話にろくなものはなかった。待つほうが、結局は早い。
お茶の湯気が、ゆらりと揺れる。
やがて、リオネルは小さく息を吐いた。
「……一つだけ、引っかかっていることがございます」
彼女は視線を上げた。翡翠色の瞳に、迷いと、覚悟が混ざっていた。
「聖樹の黒ずみは、死域の方角ではなく、里の内側、根元から広がり始めました。私は最初、それを見ないふりをしていたのです。死域のせいだと信じたほうが、楽でしたから」
セルフィーナの前でそれを言わなかったのは、責任を押しつけたかったからではない。里の者たちに、そう思わせておくほうが、混乱が少なかったからだと、彼女は続けた。
「本当に、申し訳ありません」
――謝るのは、後でいいです。続きを。
「その少し前、秋のことです。里の外から来た者が、聖樹に近づきました」
*
「誰が、ですか」
「分かりません。私は、その場におりませんでした」
リオネルの声に、苦さが滲んだ。
「里には、長老衆という合議の場がございます。古くからの掟を重んじる方々で、外の者を聖域に入れることを、決して許してきませんでした。その長老衆の一部が、私に無断で、その者を通したのです」
――族長に、無断で。
「ええ。あとから、衛兵の記録で知りました」
彼女は自分の手を、きつく握った。
「私は、里を少しずつ外へ開くべきだと考えております。他種族との交易、知識の交換、必要なら助け合いも。聖樹に頼るだけでは、いずれ里は立ち行かなくなります」
――開放派、ということですか。
「はい。ですが長老衆の多くは、真逆です。掟を守り、閉じて、変わらないことが里を守る唯一の道だと信じておられます」
(開放派の族長と、閉鎖派の長老衆か)
どこの組織にもある構図だった。前世の会社にも、新しいやり方を入れたい若手と、今まで通りを崩さない古参の対立があった。
そして、その対立の隙間に、外から入り込む者がいる。
――じゃあ、その外から来た者が、聖樹に何かした可能性がある。
「私も、そう疑っております。ただ、証拠がなく、長老衆に問い質しても、はぐらかされるばかりで」
アリシアが、椅子の上で身を乗り出した。
「では、その長老衆に、直接聞けばいいです」
――アリシア、そう簡単には。
「簡単です。呼んで、話してもらいます」
言い方が、少しだけ物騒だった。
リオネルが、はっと顔を上げた。
「……それは、お願いしてもよろしいのでしょうか。私には、長老衆筆頭を呼びつける権限はあります。ただ、私一人では、彼はいつも逃げてしまうのです」
――俺たちが同席すれば、逃げにくくなる、と。
「はい。あまり、褒められたやり方ではございませんが」
*
しばらく考えてから、俺は頷いた。
――分かりました。ただし、条件があります。
「何でしょう」
――俺たちは、問い詰める役はやりません。あくまで、同席するだけ。話を聞くのは、あなたの役目です。
リオネルは、瞬きをした。
「それでよろしいのですか」
――里のことは、里の人が決めるべきです。俺たちが強引に乗り込んで解決したら、その後で、あなたが長老衆と暮らしにくくなります。
前世の経験が、そう言っていた。外部の人間が現場を荒らして帰った後、残された側が一番苦労する。
リオネルは、しばらく黙っていた。
それから、不意に、ふっと口元を緩めた。
「……コウイチ殿は、本当に不思議な方ですね」
――よく言われる気がします。
「強大な方々を従えながら、誰よりも、私の立場を気遣ってくださる」
――従えてません。
「はい、承知しております」
絶対に承知していない顔だった。
アリシアが、その様子を見て、むっと頬を膨らませた。
「主様は、誰にでも優しすぎます」
――お前にも優しくしてるだろ。
「……それは、そうですが」
そこで拗ねるな、と言いたかったが、やめた。
リオネルは席を立った。
「では、今から使いを出します。長老衆筆頭ハルヴァンを、こちらへ呼びましょう。……彼は、素直には来ないでしょうけれど」
彼女は扉に手をかけて、振り返った。
「コウイチ殿。もし彼が、何も話さなかったとしても。あなたが同席してくださることが、私には、大きな支えです」
その声は、族長のものではなかった。
四百年を生きた一人の女性の、ほんの少しだけ疲れた声だった。
窓の外で、聖樹の枝がざわりと揺れた。
夕暮れが、近づいていた。




