第22話 聖樹
里に入った瞬間、空気が変わった。
木々の間に、白木で組まれた家々が並んでいる。枝の上に渡された吊り橋、風に揺れる薄布の飾り。美しい里だった。
ただ、視線が痛い。
家の窓から、橋の上から、枝の陰から、エルフたちがこちらを見ていた。好奇心ではない。警戒と、拒絶に近い色だった。
特に、セルフィーナへの視線が厳しかった。
「……あれが、死域の」
「近づくな。何が染みるか分からん」
小さな囁きが、風に乗って届く。
セルフィーナは、背筋を伸ばしたまま歩いていた。微笑みは崩れていない。ただ、両手を胸の前で組む指が、白くなっている。
――セルフィーナ。
「大丈夫ですわ、コウイチ様」
――違う。大丈夫じゃなくていい。
彼女が、驚いたように俺を見た。
――嫌なら嫌でいい。俺の隣を歩いてくれ。
「……はい」
小さく頷いて、彼女は半歩、俺に寄った。反対側では、アリシアが無言で距離を詰めてくる。二人に挟まれて歩くと、視線の圧が少しだけ和らいだ。
約束は守られている。今のところ、表立って何かを言う者はいない。リオネルが先頭で、目を光らせているおかげだ。
*
里の中心で、足が止まった。
見上げる。
首が痛くなるほど見上げても、梢が見えない。
巨大な幹は、十人で手を繋いでも回りきれないだろう。太い根が地面を割って四方に伸び、その一本一本が、小さな丘のようだった。空を覆う枝葉の隙間から、淡い光が降っている。
「これが……聖樹か」
思わず、声が漏れた。
「でかい……」
「はい。この里の、命そのものです」
リオネルが静かに言った。
「世界には、聖樹の中の聖樹と呼ばれる世界樹があるそうです。この聖樹は、その分枝に連なるものと伝えられております」
――世界樹。
いつか見てみたい。そう思った。
だが、今はそれどころではなかった。
幹の表面に、黒い染みが浮いていた。ところどころ、墨を垂らしたように、樹皮がどす黒く変色している。葉も一部が枯れ、力なく垂れ下がっていた。
「ひどい……」
アリシアが呟いた。
*
植物鑑定を発動する。
――聖樹を、調べさせてください。
「お願いいたします」
幹に枝の手を当てた。ざらついた樹皮の奥から、魔素の流れが伝わってくる。
【聖樹:世界樹の分枝。里の魔素循環の中核。状態:魔素汚染(中度)】
確かに、汚染されている。魔素感知で確かめると、黒ずんだ部分に濁った魔素が溜まっていた。
ただ、その質を探るうち、違和感が生じた。
(この濁り……死の領域の酸とは、違う気がする)
セルフィーナの酸性魔素は、鋭く、刺すような感触だった。だが、ここにあるものは、冷たく、粘りつくように重い。
(何か、引っ掛かる)
言葉にならない。ただ、どこかがちぐはぐだった。
――セルフィーナ。ここを、見てもらえるか。
「はい」
彼女は聖樹の前に立った。おそるおそる、幹に掌を当てる。
里の者たちが、息を詰めて見ている。酸で聖樹をさらに傷つけるのでは、という恐れが、視線に滲んでいた。
セルフィーナが目を閉じた。魔力濾過が発動し、掌から淡い青の光が広がる。
黒ずんだ樹皮の一部が、ゆっくりと色を薄めていく。
――どうだ?
「……はい。濾せますわ。ただ、量が膨大で。少しずつになりますが」
彼女は目を開けて、ほっとしたように微笑んだ。
里の者たちの空気が、わずかに変わる。誰かが、「本当に」と呟いた。
*
水と魔素を濾過する作業が、本格的に始まった。
セルフィーナは、聖樹の根元に座り込み、幹に手を当てたまま動かない。額に汗が滲んでいる。魔力を大量に使っているのが、見て分かった。
――無理はしないでくれ。
「ええ。でも、続けさせてくださいませ」
――倒れたら、意味がないんだぞ。
「分かっております。ですが、これは、わたくしにしかできないことですもの」
声は静かだった。けれど、譲る気配はなかった。
自分の魔素で傷ついたかもしれない木を、自分の手で治す。彼女にとっては、償いであり、初めて自分の力を誰かのために使える機会でもあるのだろう。
俺は、引き止めるのを諦めた。
――夕方まで、そのままでいい。でも、日が暮れたら迎えに来る。それまでは、俺の言うことを聞いて、休憩を挟むこと。
「まあ。コウイチ様は、心配性ですのね」
――そうだ。覚えておけ。
セルフィーナは、ふわりと笑った。
*
「コウイチ殿、屋敷にご案内いたします。少しお話を」
リオネルに促され、俺とアリシアは聖樹の広場を離れた。
振り返ると、セルフィーナの背中が、大樹の根元で小さく見えた。周囲のエルフたちは遠巻きに見守っている。
(何も起きなきゃいいけど)
嫌な予感が、胸の奥で小さく鳴っていた。
アリシアが、俺の隣で足を止めた。
「主様。アリシアは、セルフィーナのそばに残りましょうか」
――いや、大丈夫だ。お前は俺と来てくれ。
「……はい」
答えたものの、アリシアの視線は、最後までセルフィーナの背中を追っていた。
あの二人は、いつも張り合っている。けれど、いざというときは、互いのことをちゃんと見ている。
リオネルの屋敷は、里の高台にあった。木の上に建てられた、大きな一軒家だった。
扉が開く。
中は静かで、ほのかに樹の香りがした。リオネルが振り返り、二人きりで話したいことがある、という顔をして、俺を見つめていた。




