第19話 主とは
――あの、二人とも。ちょっと、こっちに来てくれ。
俺は跪いたままのリオネルたちに「少々お待ちを」と軽く会釈して、アリシアとセルフィーナを巣の隅へ引っ張っていった。枝の手で二人の袖をつまむ。
――どういうことだ。主って。
「え? そのままの意味ですが?」
「ええ、そのままの意味ですわ」
二人は顔を見合わせて、きょとんと首をかしげた。なぜ聞かれるのか、本気で分かっていない顔だ。
――俺は、主になった覚えはないぞ。
「アリシアの主様は、最初から主様です」
「わたくしにとっては、初めて触れてくださった方ですもの。主と呼ぶのに、何の不足がありまして?」
……だめだ。話が通じない。
俺は深いため息をついた。ため息の真似、だが。
*
リオネルたちの前に戻ると、彼女はまだ地面に額がつきそうな姿勢のままだった。
――顔を上げてください。俺は、そんな偉い者じゃない。
「滅相もございません。お二方が主と仰ぐ御方に、無礼は許されません」
――……それで、ご用件は。
リオネルはようやく顔を上げ、翡翠色の瞳に、深い憂いをにじませた。
「エルフの里の中心に、聖樹と呼ばれる大樹がございます。里の命そのものです。その聖樹が、ここ数か月で魔素に蝕まれ、枯れかけているのです」
――魔素汚染、か。
「はい。原因は不明ですが……死の領域から流れる汚染された魔素が、風に乗って里へ届いているのではないか、という声が、里で上がっております」
隣で、空気が凍った。
見ると、セルフィーナが唇をきゅっと結んでいた。蒼い瞳が揺れて、伏せられる。ほんの一瞬、その横顔から、微笑みが消えた。
「……わたくしの、せいですのね」
小さな声だった。リオネルには聞こえなかったかもしれない。俺にだけ届く音量だった。
*
(頼みごと、か)
喉の奥が、ひやりと冷えた。
里の存亡に関わる依頼。それも、見知らぬ他種族からの、一方的な相談だ。
前世の俺なら、ここで引き受けていた。「分かりました」と口が勝手に動いて、その後で徹夜が待っている。あの感覚を、体が覚えている。
(断ろう)
はっきりと、そう思った。
俺は、ここに転生して、ようやく手に入れた居場所がある。日向ぼっこと水路のせせらぎ。二人と暮らす、静かな日々。それを、また他人の厄介事で潰したくない。
――リオネルさん。事情は分かりました。でも、俺たちは……。
言いかけた。
視界の端で、セルフィーナが動いた。
「……コウイチ様」
彼女は、いつもの微笑みを貼りつけていた。
「わたくしのことは、お気になさらず。もしそちらの聖樹が、わたくしの魔素で枯れたのでしたら、どうぞ、わたくしを里へ連れて行って、お好きになさってくださいませ」
声が、少しだけ震えていた。
――セルフィーナ。
「それが、筋というものですわ」
笑顔のまま、握り込んだ両手の指が、白くなっている。
アリシアが、心配そうに彼女を見た。
*
言葉が、喉で止まった。
断るつもりだった。断れるようになったはずだった。前世との一番の違いは、それだと思っていた。
けれど、目の前で、彼女は自分を差し出そうとしている。
(また、この人は、自分のせいだって背負い込もうとしてるのか)
泉のほとりで「迷惑ばかりおかけして」と頭を下げた彼女の姿が浮かぶ。あのとき、自分の責任でもないものを謝り続けていた。
俺と同じだ。
ここで見て見ぬふりをしたら、断ったことにはならない。ただ、彼女を一人にするだけだ。
(断ることと、見捨てることは違う)
前世の俺は、断れなかった。だから今度は、ちゃんと自分で選ぶ。
引き受けるのは、リオネルのためじゃない。セルフィーナのためだ。
――……セルフィーナ。
「はい」
――勝手に、罪を背負うな。
彼女が目を見開く。
――まだ、お前のせいだと決まったわけじゃない。それを確かめに行くんだ。
「……確かめに、ですか」
――ああ。もし本当にそうなら、俺が除染する。フィルタリングがあるからな。
枝の手で、彼女の指を包んだ。白くなっていた指が、ほんの少し、緩む。
――誰にも、お前を連れ出させたりしない。
セルフィーナの瞳が、みるみる潤んだ。
「コウイチ様……」
隣で、アリシアが息を呑む。それから、静かに、頷いた。
「主様がそうなさるなら、アリシアも行きます」
*
俺はリオネルに向き直った。
――聖樹を、見に行きます。ただし、条件があります。
「条件、でございますか」
――俺の仲間を、疑いの目で見ないこと。もし里の誰かが彼女を傷つけようとしたら、その時点で、俺は帰ります。
リオネルは、少しの間、俺を見つめていた。それから、静かに、深く頭を下げた。
「お約束いたします。里の者には、私が責任を持って伝えます」
その声は、震えていなかった。
ふう、と息をつく。
(また、頼まれごとを引き受けちまった)
ただ、前世とは違うと思った。今回は、俺が条件を出した。自分の意思で、選んだ。
巣を出る準備を始めながら、ふと、リオネルの視線を感じて顔を向けた。
彼女は、ほんの一瞬だけ、まるで何かを試すような目で、俺を見ていた。




