第15話 初めて触れた手
長い沈黙のあと、蒼い髪の女は唇を震わせた。
「……触れたい、ですわ」
絞り出すような声だった。
「もう一度だけ、花に触れたいのです。昔、この泉のほとりに咲いていた、小さな白い花に」
彼女は視線を、枯れた泉の縁へ落とした。ひび割れた地面の隙間に、たった一輪だけ、白い花が首をもたげていた。
「あれだけが、どうしても枯れてくれませんでしたの。わたくしが近づけば、きっと溶かしてしまうと分かっているのに、毎日、遠くから眺めておりました」
――分かった。試してみる。
「いけません。あなたが傷つきますわ」
――傷つかない方法がある。多分な。
自信はなかった。だが、手はあった。
*
巣で水路の水を濾したときのことを思い出す。魔力濾過は、濁りだけを弾いて、通したいものだけを通すスキルだ。
あの酸は、アリシアの傷から濾過して止められた。なら、酸が触れる寸前の一点で濾過し続ければ、俺の体は溶けない。理屈では通る。
――アリシア、見ていてくれ。何かあったら引っ張り出してほしい。
「……はい。でも、危なかったら、すぐです」
アリシアの声は硬かった。腕の傷は、竜鱗の衣の自己修復と本人の回復力で、赤黒さがだいぶ引いている。それでも、まだ痛むはずだ。
俺は根っこの足で、女の前まで歩いた。手のひらに、全神経を集める。
濾過を、両手に。
じり、と空気が焦げる音がする。酸の魔素が皮膚に触れる前に、細かな網目のようなものに絡め取られ、透明に変わっていく感触があった。
――指を、貸してくれ。人差し指の先でいい。
「……本当に、よろしいのですか」
――ああ。
女は目をぎゅっとつぶり、震える指先を、おそるおそる差し出した。
俺は両手で、その指先を包んだ。
*
何も、起きなかった。
溶けない。焼けない。痛くもない。
伝わってきたのは、ひんやりとして、少し柔らかい、人肌に似た感触だけだった。
女が、ゆっくりと目を開ける。
自分の指先と、それを包む小さな手を、信じられないものを見る目で見つめていた。
「…………」
言葉が出ない。蒼い瞳が、みるみる潤んでいく。
「触れて、おりますのね」
――ああ。
「痛く、ありませんか」
――全然。少し冷たいくらいだ。
「……冷たい」
彼女は小さく笑った。涙が一筋こぼれたが、その雫は、地面に落ちても煙を上げなかった。俺の濾過が、まだ効いているからだ。
(よかった。間に合った)
安堵と同時に、別のものが視界に入った。彼女が身を屈めた拍子に、ゆるいタンクトップの首元が深く垂れ、おっぱいの谷間が、すぐ目の前に――。
(見るな、見るな! 今は感動のシーンだ!)
視線を必死に彼女の顔へ固定する。三秒後には、また谷間に落ちていた。
「主様」
背後から、氷点下の声がした。
――見てない。
「まだ、なにも言っていません」
*
彼女は、名乗ってくれた。
「セルフィーナと申します。スライムの、突然変異種ですわ」
――スライム?
「ええ。本来は不定形の体ですけれど、この姿のほうが、体内の酸を外に漏らさずに循環させやすいのです。人の形は、いわば器の工夫ですわね」
なるほど、と魔素感知で確かめる。彼女の身体の中で、酸性の魔素がぐるぐると巡っている。ただ、その一部が、どうしても皮膚の外へ滲んでしまうのだ。
――俺はコウイチ。こっちは、アリシア。
「コウイチ様に、アリシアさん。……お名前を、伺えるだけでも、嬉しいですわ」
セルフィーナは、俺の小さな手に包まれた指先を、そっと動かした。握り返すというより、確かめるように、ほんの少し曲げる。
「こんなふうに、手を触れたまま話せるなんて。何年ぶりでしょう」
そのまま、しばらく手を握り合っていた。話しているうちに、時間が経つのを忘れていた。
――あ。
背後の気配に気づいたときには、遅かった。
*
「……主様」
アリシアが、俺とセルフィーナの間に、ぬっと割り込んできた。
腕を組んで、じっと蒼い髪の女を見下ろしている。金色の吊り目が、いつもより細い。
「手を、離して、ください」
――アリシア、これは治療のようなもので。
「主様はだまっていてください」
丁寧な口調が、いつもの舌足らずさを押しのけている。怒ったときのアリシアだ。
セルフィーナは目をぱちくりさせてから、口元に手を当てて、上品に微笑んだ。
「あらあら」
その笑みが、逆にアリシアの眉を跳ね上げさせた。
「わらわないで、ください」
「失礼いたしました。ただ、とても大切にされているのですわね、コウイチ様は」
「あたりまえです。主様は、アリシアの主様です」
――俺は誰のものでもないぞ。
誰も聞いていなかった。
*
俺は咳払いの真似をして、話を本題に戻した。
――セルフィーナ。触れられるようにしてやりたい。俺の魔力濾過を、貸そうと思う。
「貸す……のですか?」
――貸与といって、俺のスキルを相手に預けられる力がある。同意してもらえれば、あなたも濾過が使える。体内の酸を自分で中和できるはずだ。
ステータス画面を開いて、貸与欄を確認する。
【貸与枠:2/3】
【貸与中:魔素吸収(小)→アリシア】
枠は三つのうち一つ使っていて、残りは二つ。今回で、あと一つになる。
貸与できる数には、上限があるらしい。いつの間にか、そういう表示が増えていた。
――ただし、貸している間は、俺は濾過を使えなくなる。
「では、コウイチ様の御身は」
――そのぶん、あなたが自分で使えるようになれば問題ない。
セルフィーナは黙って、自分の胸に手を当てた。
やがて、静かに、頭を下げた。
「お願いいたしますわ。わたくしに、お貸しくださいませ」
同意の声が、はっきり届いた。
【対象の同意を確認しました】
【スキル「魔力濾過」を貸与します】
*
体の奥から、魔素がごっそりと抜けていく。
(うおっ、これ、きつい……!)
ステータス画面のMPが、瞬く間に減った。
【MP】2/38
膝が抜けた。根っこの足が、もつれて、崩れる。
「主様!」
倒れる前に、アリシアの腕が俺を抱き上げた。今度は少しも嫌がらず、当然のように、おっぱいの上に乗せてくれる。柔らかさに沈みながら、視界がぼやけていく。
「大丈夫、です。主様は、ここに」
――……悪い。ちょっとだけ、力を使いすぎた。
俺の視界の端で、セルフィーナが目を閉じていた。
彼女の身体の中を、魔素が巡り始める。濾過が働き始めたのだ。酸性の鋭さが、ゆっくりと丸くなっていく。足元の地面から立ちのぼっていた白煙が、細くなり、やがて消えた。
「……あ」
セルフィーナが目を開けた。
「静かですわ。身体の内側が、静か……」
*
彼女は、泉のほとりに歩いていった。
一輪の白い花の前で、ゆっくりと膝を折る。
指を伸ばして、迷って、引っ込めて、また伸ばした。
花びらの端に、そっと触れる。
花は、揺れた。
溶けなかった。枯れなかった。ふるり、と小さく揺れて、元の位置へ戻った。
「…………」
セルフィーナは、その場に蹲った。
肩が震えている。声を出さずに、泣いていた。
触れられなかったのは、人だけではなかったのだ。花も、水も、風に揺れる草も、彼女はずっと遠くから眺めるだけだった。
アリシアも、何も言わなかった。腕の中の俺を抱く力が、ほんの少しだけ強くなった。
*
しばらくして、セルフィーナは涙を拭い、立ち上がった。
この窪地に満ちていた酸っぱい魔素は、確実に薄まっている。彼女の外へ漏れる量が減れば、この場所は、時間をかけて元に戻るだろう。
――これで大丈夫だ。俺たちは帰る。
俺はアリシアの腕の中から、そう告げた。
セルフィーナは、頷きかけて、ためらった。
「あの……コウイチ様」
――ん?
「わたくしも、ご一緒させていただけませんか」
沈黙が落ちた。
「あの、もちろん、迷惑でしたら、そのまま置いていってくださって構いませんわ。ただ、今更、行く場所もございませんの。……それに」
彼女は、少し照れたように笑った。
「一人は、もう、寂しゅうございますわ」
アリシアの顔が、露骨に曇った。
「主様。反対です」
――アリシア。
「この人は、危ないです。主様のそばに置くのは」
――もう危なくない。それに、一人は寂しいんだ。お前なら分かるだろ。
アリシアは、唇を噛んだ。
母親の顔を知らない子は、一人の寂しさを、誰よりも知っている。
「……主様が、決めるなら」
小さな声が、ようやくこぼれた。不満は隠しきれていないが、拒否ではなかった。
――ありがとう。
俺はアリシアの腕の中から、セルフィーナへ向き直った。
――一緒に来い。狭い巣だけどな。
「まあ……」
セルフィーナの蒼い瞳に、また涙が浮かんだ。今度は、地面に落ちても、静かに土を濡らすだけだった。




