第14話 触れられない少女
「それ以上、近づかないでくださいませ」
蒼い髪の女が、震える声で言った。
優雅な口調だった。けれど、両腕は自分の身体を抱くように交差している。ゆるいタンクトップの上でおっぱいが腕に押し上げられ、谷間が深く寄っていた。目のやり場に困る絵面だが、彼女が隠したいのは体ではない気がした。
足元の地面は、彼女が動くたびにじゅうと音を立てて溶けている。
「あるじさま、あぶない。もどろう」
アリシアが低く言い、肩の上の俺を守るように手を添えた。
――待ってくれ。話を聞きたい。
俺は魔素に言葉を乗せて、女のほうへ飛ばしてみた。
女は、びくりと肩を揺らした。
「……いま、頭の中に、声が」
――驚かせてすまない。俺たちは、この森の異変を調べに来ただけだ。あなたを傷つけるつもりはない。
女は長い間、俺たちを見つめていた。
やがて睫毛を伏せて、ひどく静かに笑った。
「……お優しい方々ですのね。でしたら、なおさら離れてくださいませ」
*
「この泉を枯らしたのは、わたくしですわ」
彼女は、ひび割れた泉の底に視線を落とした。
「昔は、花の咲く場所でしたの。わたくしの身体から溢れるこの酸が、少しずつ、水も木も草も、枯らしてしまいました」
――わざとじゃないんだな。
「ええ。止め方が、分かりませんの」
声は落ち着いているのに、指先が小刻みに震えている。
「最初は、仲間のそばで暮らしておりました。けれど、触れようとした子が、わたくしの手で大怪我をいたしまして」
彼女は自分の掌を見つめた。
「それからは、誰も近寄らなくなりました。忌まわしいと。出て行ってほしいと。……当然のことですわ。わたくしがいれば、皆が傷つくのですもの」
ぽたり、と涙が落ちた。
地面に触れた雫が、じゅっと小さな煙を上げる。その光景に、彼女自身が一番傷ついた顔をした。
「迷惑ばかりおかけして、申し訳ありません……。この森の魔物たちが荒れているのも、きっと、わたくしのせいですわ。どうか、もうお帰りくださいませ」
俺は、答えられなかった。
彼女が悪いわけではないのに、彼女だけが謝っている。
前世の俺も、自分のせいではない失敗に、何度も頭を下げてきた。
*
――アリシア、降ろしてくれ。
「だめ。あぶない」
――頼む。
しばらく睨み合ったあと、アリシアは唇を噛んで、しぶしぶ俺を地面に降ろした。
根っこの足で、一歩、二歩。足元の地面が熱を持っているのが分かる。魔素感知が、鋭い酸の気配を肌に突きつけてくる。
「来ないで……!」
女が、悲鳴のように叫んだ。
「お願いですから、それ以上は、いけませんわ!」
――大丈夫だ。話をするだけだ。
もう一歩。
女の顔が、恐怖にひきつった。拒むように、片手を横に払う。
その軌道に沿って、透明な液体が扇状に撒き散らされた。
――しまった。
避けられない。
次の瞬間、赤銅色の影が俺の前に飛び込んでいた。
*
じゅうううう、と嫌な音がした。
アリシアが俺を抱え込み、背中で酸を受けていた。顔が彼女のおっぱいに強く押しつけられたが、今度は少しも笑えなかった。
布の焼ける匂いがした。そして、肉の焼けるような匂いが。
「……っ、う」
アリシアの喉から、押し殺した声が漏れた。
――アリシア!
彼女の腕と肩が、赤黒く爛れていた。皮膚が溶けるように崩れ、その下の赤い肉が覗いている。竜鱗の衣が魔素で修復しようとするが、酸の勢いが勝っていた。
「うそ……」
アリシア自身が、呆然と呟いた。
「アリシア、こうげき、きかないはず。うろこ、かたい。ほのおも、こうげきも、はじいてきた。なのに」
防御を貫かれたのは、初めてなのだろう。
それでも、彼女は真っ先に俺を見た。
「……主様、大丈夫ですか? お怪我は、ありませんか?」
流暢な言葉だった。舌足らずだった声が、必死さでいつの間にか整っている。
――俺は無傷だ。お前が庇ったんだぞ!
「よかった。……よかった、です」
アリシアは、微笑んだ。腕の傷を見ようともしないで。
背後で、女が崩れ落ちる音がした。
「ああ……。わたくし、また……また、誰かを……!」
*
俺は焦っていた。この傷は放っておけない。酸の魔素が残っていて、いまも肉を溶かし続けている。
(回復草は巣だ。今はない)
――アリシア、傷を見せてくれ。
傷口に根っこの先を当て、魔力濾過を発動する。
傷に残る鋭い酸の魔素が、ふるいにかけられるように分離した。溶け続けていた肉が、それ以上崩れなくなる。
(止まった……!)
完治ではない。ただ、進行は食い止められた。
「主様、痛くない、です」
――嘘をつくな。
「……すこし、いたい」
――それが本当だ。
アリシアは、ほっとしたように笑った。
(この酸は、濾過できる)
その事実を、頭の隅に強く刻んだ。
*
アリシアの傷は、とりあえず落ち着いた。
俺は泉のほとりで小さくなっている女を見た。
彼女は、両腕で自分を抱いていた。細い肩が震えている。酸がまた漏れて、足元の石が音もなく崩れていた。
彼女が自分の身体を憎んでいるのが、痛いほど伝わってくる。
魔素感知に、彼女の魔素の流れが映った。酸を吐き出しているのではない。溢れる魔素が、行き場を失って、彼女の外へこぼれ続けているだけだ。
そして、それを止める術を、誰も教えてくれなかった。
誰かが近づけば傷つけ、追われ、独りになった。
枯れた泉で、誰にも触れず、誰にも触れられず、それでも花の咲いていた頃を忘れずに。
(俺は、この人の気持ちが分かる)
同じ経験をしたわけではない。けれど、「自分がいるだけで迷惑になる」という感覚は知っている。
根っこの足で、また一歩、彼女に近づいた。
「いけません、あなた」
――近づかない。今度は、酸の届かないところで止まる。
俺は距離を置いて、立ち止まった。
女が顔を上げる。涙で濡れた蒼い瞳が、俺を映した。
――聞かせてほしい。
――あなたは、誰かに触れられるようになりたいか。
――それとも、このまま、誰も傷つけない場所にいたいか。
枯れた泉に、静寂が落ちた。




