第13話 死の領域
三日後、俺たちは森の奥へ向かった。
アリシアの肩に乗るのも、もう慣れた。慣れたというより、諦めた。歩幅が違いすぎて、自力で歩くと日が暮れる。
「あるじさま、あっち。くさいにおい、する」
――ああ、俺にも分かる。
魔素感知(中)が、森の奥から流れてくる濁りを捉えていた。進むほど濃くなり、ある地点で景色が変わる。
緑が、消えた。
木々は白く枯れ、葉の一枚も残っていない。地面は灰色にひび割れ、空気そのものが、うっすらと霞んで見えた。毒ガスと言われても信じる濃さだ。
「……あるじさま」
アリシアの足が止まった。
「ここ、いや」
――大丈夫か? 息苦しいか?
「へいき。あるじさまのくれた、きゅうしゅうのちから。からだ、まもってる」
貸与した魔素吸収(小)が、彼女の体で働いているらしい。濃すぎる魔素も、吸い込んで力に変えられるのだろう。
俺のほうは、拍子抜けするほど何ともなかった。
(マナゴケの体質か。魔素を浴びて育つ生き物だもんな)
*
奥へ進むにつれ、アリシアの様子がおかしくなった。
「……なにか、いる」
「みられてる、きがする」
「あるじさま、はなれないで」
枯れ枝が風に鳴るたびに、びくりと肩が跳ねる。ついには、俺を両手で掴んで、胸の前に抱え込んでしまった。
――アリシア、これは……。
「はなれない。ぜったい」
顔が、柔らかいものに埋まっていた。
(ちょっと待て! これはもう歩きにくいとかいう次元じゃ)
進化前は鱗だった。今は違う。暖かくて、むにゅりと形を変える、圧倒的なおっぱいの谷間だ。手のひらサイズの俺の顔面が、左右から挟まれている。
――アリシア、苦しい!
「あ、ごめんなさい。でも、こわい」
――こわいのは分かった! でも、せめて肩に戻してくれ!
「やだ」
即答だった。
(前世で三十二年、これを妄想し続けた俺が、なぜ今、素直に喜べないんだ)
答えは明白だった。腕の主が、怖がって震えているからだ。幼竜だった頃の、あの震え方と同じだった。
邪な気持ちは、ゼロではない。ゼロではないが、それより先に「守らなきゃ」が来る。そんな自分に、少しだけ驚いた。
ただ、胸の谷間に埋まったままでは何も見えない。
――……魔素感知で歩くから、道案内は任せてくれ。
「うん。あるじさまのいうほう、いく」
こうして俺は、胸に抱えられたまま、死の領域を進むことになった。
シリアスな探索のはずだったが、絵面は完全にコメディだった。
*
どれほど歩いただろう。魔素の濃さは、ある地点から、明確な流れに変わった。
一方向へ向かって、濁りが川のように流れている。その源は、奥の窪地だった。
――あの先だ。
魔素の質を、意識して探る。
ざらつく感触は、魔獣たちの濁りとは違った。もっと鋭く、刺すように酸っぱい。触れたら、皮膚が焼けそうな感じがする。
(これは、悪意のある魔素じゃない。自然に湧いてくる毒のような……)
うまく言えないが、誰かが企んで撒いたものではない気がした。魔獣を凶暴化させたのは、あの濁りとは別の、何かだ。
窪地の縁に立った。
眼下に、枯れ果てた泉が広がっていた。
水は一滴も残っていない。ひび割れた底に、白い石だけが転がっている。
そのほとりに、誰かが佇んでいた。
*
女性だった。
二十代前半に見える。ふわふわと柔らかそうな蒼いロングヘアが、風のない空気の中で、ゆるやかに揺れていた。背筋をすっと伸ばし、泉の底を見下ろす横顔には、憂いが滲んでいる。
優雅、という言葉が、これほど似合う人を初めて見た。
肌は白磁のようで、傷一つない。こちらへ振り向いた瞳は、深海のように静かな蒼で、目尻が少し下がっていた。
そして、目のやり場に困る要素が、二つあった。
ゆるいタンクトップが、圧倒的な質量を支えきれていない。首元は深く垂れ、脇の隙間からは、横乳の丸みがちらりと覗いていた。動くたびに、生地が今にもずれそうで、視線が勝手に吸い寄せられる。
(G……いや、Gはあるな。あのおっぱいは、危ない。存在そのものが事故だ)
薄い水色のミニスカートは、プリーツが揺れるたびに、太ももの付け根近くを危うく見せる。網目の荒い白のハイソックスが、その脚線をさらに際立たせていた。
(落ち着け。落ち着け俺。今は調査中だ。あそこにいるのは、酸性の魔素を漏らしている存在かもしれないんだぞ)
自分にそう言い聞かせながらも、視線は三秒ごとに胸元へ戻る。前世の三十二年分の修行不足が、こんなところで露見した。
その隣で、アリシアが低く唸った。
「あるじさま、みすぎ」
――え、見てない。
「みてる。おくちが、ぽかんって」
――口はない。
「かおが、そういう、かおしてる」
バレていた。
*
女性は、こちらに気づいたようだった。
蒼い瞳が、ゆっくりと見開かれる。驚いたというより、恐れに近い色だった。
彼女が一歩、後ずさる。その足元で、枯れた地面が、じゅ、と音を立てた。
白い煙が立ちのぼる。石の表面が、ぼろぼろと崩れていった。
彼女自身は、何もしていない。ただ、そこに立っているだけだ。
(酸だ。あの人の身体から、酸性の魔素が漏れてる)
魔素感知が、はっきりと告げていた。この窪地に満ちた酸っぱい魔素の源は、この女性だ。
彼女は、細い指で自分の胸元を押さえた。何かを恥じるように、あるいは、耐えるように。
枯れた泉のほとりで、蒼い髪だけが、ゆらりと揺れていた。
俺たちは、警戒しながら、一歩を踏み出した。




