第12話 古代龍様
巣の外へ出るのは、進化してから初めてだった。
といっても、俺は自分の足で歩いている。根っこの足で三歩進んで、転んだ。もう一度三歩進んで、また転んだ。
「あるじさま、おそい」
――お前の一歩が、俺の十歩なんだよ。
「じゃあ、こうする」
ひょい、と持ち上げられた。気づけば俺は、アリシアの肩の上にいた。赤銅色の髪がふわりと頬に触れる。
――待て、これは歩いたことにならない。
「あるじさま、かるい。おちない?」
――落ちないが、心の平穏が落ちそうだ。
首筋の体温が近い。できるだけ前だけを見ることにした。
*
森は、俺の知る景色とは違っていた。
木々の根元に、爪痕がいくつも残っている。折れた枝、踏み荒らされた下草。魔素感知を広げると、遠くで黒い光がいくつも蠢いていた。どれも濁っている。
――アリシア、右。
「うん。みえてる」
茂みを割って、猪に似た魔獣が二頭飛び出してきた。牙は湾曲して長く、目は赤く濁っている。
アリシアは足を止めた。
「あるじさま、しっかりつかまって」
言うが早いか、彼女の手が横に払われた。
空気が凍った。
白い霜が地面を走り、二頭の足元から一気に凍りつく。動きを封じられた魔獣に、アリシアの踏み込みが重なった。拳が入り、一体が吹き飛ぶ。尾のような蹴りの軌道で、もう一体も木に叩きつけられた。
一瞬だった。
――……強いな。
「うん。からだ、かるい。うごきやすい」
アリシアは自分の手を見て、嬉しそうに笑った。確かに、竜の姿だった頃の大振りな動きとはまるで違う。
【ロイヤリティを受け取りました】
通知が視界の端に流れた。俺は何もしていない。肩の上で、揺れていただけだ。
*
その後も、道すがらの魔獣を倒しながら進んだ。
アリシアは、とにかく楽しそうだった。倒すたびに振り返って、俺の反応を確かめる。
「あるじさま、みた?」
――見た。すごいぞ。
「ほんとう?」
――本当だ。
ぱっと笑顔になる。次の敵に向かう足取りが、さらに軽くなった。
それから、戦いのあいだ何度も、ちらちらと俺を見ていることに気づいた。褒められたいのだ。分かりやすい。
――アリシア、前を見て。
「……みてる」
――俺を見てただろ。
「みてない」
――顔が赤いぞ。
「これは、れいき、つかったから」
理由になっていない。だが、それ以上突っ込むのはやめた。かわいかったので。
*
巣から歩いて小一時間。
木々の間に、丸太で組んだ小さな家々が見えてきた。樹上に作られた、鳥の巣を大きくしたような集落だった。
アリシアが足を止める。同時に、頭上の枝がざわりと揺れた。
羽音。無数の視線。木の上から、茶色い羽毛の人影がこちらを見下ろしている。
フクロウ族だ。人の体に、丸い顔と大きな瞳。背には短い翼があった。
その一人が、震える声で言った。
「……古代龍様」
沈黙が落ちた。次の瞬間、木々から次々と彼らが降りてきて、地面にひれ伏した。
「古代龍様がお戻りになった!」
「お待ちしておりました!」
「……?」
アリシアは首をかしげている。肩の上で、俺も首をかしげた。
――アリシア、お前、有名なのか?
「しらない。はじめて」
*
集落の長老だという老いたフクロウが、進み出た。
名はホルンと言った。杖をつきながら、深く頭を垂れる。
「失礼いたしました。あまりに気配が似ておりましたゆえ。……古代龍様の、御子でいらっしゃいますか」
「おかあさん……?」
アリシアの声が、わずかに揺れた。
ホルンはゆっくりと語り始めた。
この森には、古くから古代龍が巣を構えていた。その絶対的な力で魔物同士の争いを禁じ、森全体の秩序を守っていたという。フクロウ族も、他の種族も、その庇護の下で暮らしていた。
「ところが、ある秋の終わりを境に、古代龍様の気配が消えたのです」
俺は息を呑んだ。秋の終わり。あの巣で、卵を残して飛び去った日だ。
「以来、森は荒れました。魔物は縄張りを争い、気性の荒い個体が増え、我らも夜は巣から出られません。……皆、古代龍様の帰りを待っております」
アリシアは、黙って聞いていた。
やがて、ぽつりと言った。
「はやく、かえってくれば、いいね」
まるで他人事だった。
ホルンが目を瞬かせる。俺は、その横顔を見上げた。
悲しんでいるのでも、怒っているのでもなかった。ただ、母親という言葉が、まだ自分の中に居場所を持っていないのだ。声をかけてもらえなかった子にとって、母親は「いつか帰る誰か」ではなく、「知らない誰か」なのだろう。
――アリシア。
「なに、あるじさま」
――俺が、探してやる。お前の母さんを。
小さく、彼女にだけ聞こえるように念じた。
「……うん」
返事は短かった。でも、肩に触れた彼女の指が、少しだけ俺を強く支えた気がした。
*
話が一段落したところで、ホルンが声を落とした。
「もう一つ、お耳に入れたいことが。ここより奥、森の深部に、魔素が異常に濃い一帯がございます」
――異常に濃い?
「木々は枯れ、獣や魔物は凶暴になり、近づいた者は病のようになります。最近では『死の領域』と呼ぶ者もおります」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
巣で感じた、あの毒々しい魔素の流れ。魔獣たちの濁った目。全部、その方角から来ている。
「もしや、古代龍様の失踪と関わりが」
「わからない」
アリシアが首を振る。ホルンは、それ以上は何も言わなかった。
俺は魔素感知を森の奥に向けてみる。距離があるのに、ざらつく気配が肌を刺した。
――今日は、ここまでにしよう。
「いくの、やめる?」
――ああ。準備もしてないし、日も傾いてる。それに、俺はあそこが気になる。ちゃんと調べたい。
「わかった。あるじさまが、いうなら」
フクロウ族に別れを告げ、来た道を戻った。帰り道は、アリシアが手を繋いで歩いてくれた。俺の手のひらが小さすぎて、指をつままれる形になったが。
巣に着く頃には、空が茜色に染まっていた。
水路の音がして、寝床が見える。この場所は、母親の記憶ではなく、二人で作った家だ。それだけは確かだった。
――近いうちに、死の領域を見に行こう。
夕焼けの向こう、森の奥は、黒く沈んでいた。




