第11話 人になった日
まぶたの裏が明るい。
光の繭は、夜明け前にほどけたらしい。寝床の隣にあった巨大な竜の体は、どこにもなかった。
(アリシア……?)
飛び起きて、根っこの足で周囲を見回す。寝床にも、水路にも、巣の入口にもいない。魔素感知を広げると、すぐ目の前に、見覚えのある魔素があった。
けれど、形がおかしい。あの巨大な光ではなく、ずっと小さくて、人ほどの大きさしかない。
視線を上げた。
そこに、女の子が座っていた。
*
赤銅色の長い髪が、朝日を受けてゆるやかに波打っている。額の両脇からは、磨かれた黒曜石のような角が伸びていた。色白の肌は光を透かすほどで、身体は細い。閉じたまぶたの下の睫毛が、長く影を落としている。
凛とした顔立ちだった。眠っていてもなお、目を引く美しさがある。
そして何より、その存在感が桁違いだった。
俺は、たっぷり三秒固まった。
(え。誰。……いや、待て。この魔素は)
見間違えようがない。冬を越えた小さな体に、必死で流し込んだ魔素と、同じ匂いがする。
(アリシア、か)
少女のまぶたが、ぴくりと震えた。ゆっくりと持ち上がる。
金色の、大きな瞳だった。少しだけ吊り上がった目尻が、勝ち気な印象を添えている。
彼女は俺を見なかった。まず、自分の手を見た。
ゆっくりと持ち上げて、指を開く。五本の指が、ひとつずつ動くのを、不思議そうに眺めている。握って、開いて、また握る。
「……ちいさい」
声が、初めて空気を震わせた。澄んだ、少し低めの声だった。
それから、彼女は顔を上げた。
*
「あるじさま」
金色の瞳が、俺を捉える。
次の瞬間、俺の視界は柔らかいもので塞がれた。
抱きしめられていた。それも、ものすごい力で。
手のひらサイズの俺の体は、彼女の腕の中にすっぽり収まってしまう。頬にあたるのは、布と、それ以外の、驚くほど柔らかいものだった。温かい。心臓の音が聞こえる。
(ちょ、ちょっと待て! これ、顔がどこに埋まって……!)
「あるじさま、あるじさま……!」
アリシアの声が震えていた。抱きしめる腕に、ぎゅう、と力がこもる。
「かえってきた。ちゃんと、かえってきた」
……そうだ。この子は、約束を守ったのだ。
変わっても、変わらなくても、ちゃんと帰ってこい。あの言葉を、そのまま持って。
喉の奥が熱くなった。柔らかいものに顔を埋めたまま、俺は念じる。
――おかえり、アリシア。
「ただいま、あるじさま」
記憶は、なくなっていなかった。それだけで、涙が出そうだった。
顔の埋まり具合を除けば、完璧な感動の再会だった。
*
少しして、ようやく解放された。
肩で息をつきながら、改めて彼女を見上げる。そして、見上げたことを、すぐに後悔した。
服が、その、問題だった。
肩紐のない黒いレース調の上着は、胸元をぎりぎりで覆っているだけだった。腰には黒いシースルーの布を巻きつけ、腰の脇で結んであるだけ。丈は短く、少し動くたびに布が揺れる。
どこを見ればいいのか分からない。
(服……いや、服なのか、これ)
ステータス画面のような光で鑑定すると、こう出た。
【竜鱗の衣:母龍の鱗に由来する素材。持ち主の魔素で自己修復する】
(母龍の鱗? あの、巣に刺さってた鱗か)
進化の時に、巣に残されていた鱗を取り込んだのだろう。母の気配が服になった。それを知らないまま、この子は着ている。
アリシアは立ち上がって、その場でくるりと回った。
「あるじさま、みて。ちいさい。てが、ある。あしが、ふたつ」
布が舞い、髪が広がる。そして、跳ねるたびに、その、上着の中身も一緒に――
俺は全力で目をそらした。
(見るな。見るな俺。この子は中身が幼いんだ。それを、見ちゃいけない)
前世の三十二年分の煩悩が総動員されて、理性の壁がみしみし鳴る。
「あるじさま? どうして、うしろ、むくの?」
――ちょっと、朝日が眩しくて。
「ここ、ひがしむき、じゃない?」
――そうだな。眩しいのは、たぶん別のものだ。
自分でも意味が分からないことを言っている自覚はあった。
*
落ち着かなければならない。
俺は一度、深呼吸の真似をして、ステータス画面を開いた。貸与欄を確認する。
【貸与中:魔素吸収(小)】
【貸与先:アリシア 種族:エルダードラゴン(龍人)】
貸与関係は、切れていなかった。名前も残っている。進化で、繋がりは壊れなかった。
ほっとして、その下の数値に目を向ける。
【累計ロイヤリティ:****】
伏字のままだ。ただ、彼女の進化を機に、ぐんと数字が動いた気配がある。
俺はアリシアの方へ向き直った。目線は顔のあたりに固定する。
――アリシア。話がある。
「はい、あるじさま」
――服なんだが、もう少し、肌を隠せないか?
アリシアはきょとんと首をかしげた。
「かくす? どうして?」
――その、見ている俺が、困る。
「あるじさま、こまる?」
彼女は自分の身体を見下ろした。それから、袖を引っ張ったり、裾をつまんだりして、真剣な顔で考え込む。
「……でも、これ、うごきやすい」
――動きやすい?
「うん。つばさ、なくなった。かわりに、うで、あしで、うごく。ひらひらしたの、じゃま」
そう言って、腕を大きく回したり、その場でとんとん跳ねたりした。……揺れる。またしても、揺れる。
――分かった! 分かったからもう跳ねなくていい!
「じゃあ、これでいい?」
――……それで、いい。
戦場での動きやすさに関する意見は、真剣そのものだった。彼女なりに、身を守る服として選んでいるのだ。
(俺の煩悩のために、この子の機動力を削るのは間違ってるか……)
自分に言い聞かせた。半分は本当に納得した。半分は敗北だった。
*
朝の光が、巣の中に満ちていく。
アリシアは、巣の入口へ駆けていって、外の景色を眺めた。翼はもうない。空を飛ぶ代わりに、彼女は地面に立って、遠くの森を見渡している。
やがて、振り返った。
逆光の中で、赤銅色の髪が金色に縁取られていた。
「あるじさま」
――どうした?
「アリシア、ちいさくなれた」
――ああ。
「あるじさまと、おなじ、たかさ、にはなれなかったけど」
――いや、俺の方がずっと小さいから。
「でも、これなら……」
アリシアはとことこと戻ってきた。しゃがみ込んで、俺の目の高さに顔を寄せる。金色の瞳が、朝日を映してきらきらしていた。
嬉しそうに、はにかんで。
「これで、いっしょに、あるけるね」
その笑顔が、あまりにもまっすぐで、俺は返す言葉を見つけられなかった。
――……ああ。一緒に歩こう。
根っこの足で、彼女の靴先にそっと触れる。
巣の外には、まだ知らない森が広がっていた。




