尊き贄
月さやけき雲の上を、大妖たる漆黒の巨躯が渡り、その影が夜に踊る。
向かう先は深山幽谷のさらに奥、神々の訪いさえ絶えて久しい霊峰の頂。
音もなく降り立った桜の君の眼差しは一本の樹に向けられていた。
どこまでも悠然と広げた枝を覆う爛漫たる満開の桜。
薄紅の玻璃が砕けるようにひらひらと絶えず散りながらも、ひとひらの花弁とて地に落ちることはない。
散る端から光のかけらとなって夜の空に溶けてゆくのだ。
桜の君はゆっくりと歩を進めると、その幹に自身の額を強く押し当てた。
妖気を巡らせれば、ぱちり、という微かな音と共に弾かれーーだが次の瞬間、魂の底まで喰らい尽くすような勢いで吸い上げられてゆく。
やがて月のあわいに照らされた、その巨躯の漆黒が薄らいでも、桜の君は躊躇わなかった。
どれほど、そうしていただろうかーー。
額を離した桜の君のすぐ足元、花びらひとつ落ちてはおらぬその地の上に、一振りの枝が落ちていた。
日輪と夜闇の境、現世と隠世を隔てる神域に在る太陰の霊樹。
その神威の顕現たる一振りをそっと咥えあげた。
(これで、間に合う。)
◇◇◇
その日、皇子は朝から落ち着かぬ様子であった。
そわそわと幾度も御簾の外に目をやっては何かを探し、そんな己を宥めるように桜の君をぎゅっと抱いて離さない。
皇子の側に仕えるものどもが囁き交わす話によれば、皇子の父、当代の日輪が皇子を訪ねてくるのだという。
(父が会いに来ることの、なにがそれほど喜ばしいのか……)
ようやっと皇子の腕から抜け出し、皇子の手の届かぬ高みでうたた寝を装う。
諦めきれぬのか皇子は幾度か己を呼んだが、知らぬ振りをしていれば、やがて女官の一人に促され錦の褥の上にそっと座し背をぴんと伸ばした。
そうするうちに回廊の奥から幾重もの衣擦れの音とともに皇子によく似た気配が近付いてくる。
皇子も気がついたのだろう、幼いなりに取り澄ました表情を装いながら、それでも隠しきれぬほどその瞳に喜びが満ちてゆく。
差し込む昼の陽光を背にして現れた帝へ、見るともなしに目をやった桜の君はーー慄然とした。
皇子とそっくり同じ美しく澄んだ白珠の魂。
その光を押し潰すように——無数の黒い糸が、まるで濡れそぼつ死人の髪のように絡みつき、深く根を張っていたのだ。
皇子と二言、三言短い言葉を交わし、帝が馥郁たる香のみを残して去ったのちも、桜の君は息を忘れ佇んでいた。
帝に絡みつき、その魂に深々と根を巡らせる無数の糸——。
それを伝って、泥の如き膨大な澱みが帝へと際限なく流れ込んでいるのが、つぶさに見てとれた。
そして——それこそは、皇子にまとわりついていた糸の端と、まったく同じものであった。
そうして桜の君は悟ったのだ。
なぜ金枝玉葉は、萌え出る芽のうちに、あるいは若葉のうちに散るのか。
なぜ日輪の化身たる帝が、例外なくその心を薄闇のうちに狂わせてゆくのかーー。
帝とは、国をあまねくしろめす天子などではない。
人の子、自らが治める民たちの醜悪な心が生み出す澱み、その猛毒を魂と引き換えに澄ましゆく……
虚ろの玉座に囚われし高貴なる虜囚、尊き贄であったのだ……!
◇◇◇
桜の君が日輪の真実、帝の陰惨たる宿命を知ってから、幾度かの花が散った。
己を呼ぶ皇子の声も、いくらか低く大人びたものへと変わる。
「桜の君」
声音が変わっても、変わらない慈しみの響きと共に、柔らかく抱き上げられる。
桜の君は皇子の腕に身を寄せる風を装い、その魂に這い上がらんと蠢く糸を、密やかに燃やし尽くした。
皇子が長じ、日輪の片鱗をより強く現すごとに糸は数を増し、少しずつ長く、不吉な湿り気を帯びてゆく。
その度に桜の君は皇子へ寄り添い、大妖の力を振るい続けた。
このところようやく桜の君が心を許してくれたのだと、口元を綻ばせる皇子とは裏腹に、桜の君は生まれて初めて、底なしの焦燥の中に身を置いていた。
禁裏のうちをどれほど探ろうとも、あるいは国中の霊脈を辿ろうとも、いずれ皇子をも蝕むであろう呪縛の源を見つけ出すことが能わずにいるからだ。
(まだ、時はある。皇子は未だ高御座を引き継がぬ、まだ、間に合う……)
呪縛を元から絶てずとも構わぬ、もとより竹の園生など、ましてや国など顧みるつもりもない。
皇子さえ無事であればよいのだ。
(この身を屠りうるその日まで)
一つだけ心当たりがあった。
神々の住まう高天原、その禁苑からこぼれ落ちた種より生じたという太陰の霊樹。
その神威をもってすれば、人如きが生み出す澱みなどたやすく祓えよう。
日輪の霊威を己の夜闇の妖威で直接覆えば、それもまた皇子の魂を損ねてしまう。
日輪と夜闇は対をなす者。決して相容れぬ相剋の理なのだ。
だが、日輪と夜闇の狭間にみあれる太陰の神威であればーー。
無論、千歳の大妖たる己であっても、神威を扱うのは容易ではない。
あるいはこの身すら保てぬ程に妖気を捧げる必要があるやも知れぬ。
だが、もとより終焉を望んだ身である。
躊躇う理由などあるはずもなく、ある望月の夜、霊峰へ向かうべく夜闇に転じた。
それは、あまりにも皇子を案じる故であったか、
あるいは人の子に関心を持たぬ故であっただろうか。
霊峰を目指す桜の君、その千里耳に、禁裏に迫る炎が立てる密やかな音は、ついぞ届かなかったのであるーー。




