血に染まる日輪
太陰の霊樹の枝を咥えたまま、桜の君は大妖の姿で空を駆ける。
払暁の光に煌めくその漆黒は、一目でそうと知れるほどに透明を増していた。
霊樹の枝を得るために、己の身と妖気を削り尽くしたためである。
神域に連れ去り、神威満つ禁苑に囲ってしまえば、呪縛の糸とて皇子には届きえぬ。己の腕の中で生かしておくだけならば、この身を削る必要はなかったのだ。
だが——父の跡を継ぎ、千年の弥栄を背負うのだと、その矜持を高らかに語った皇子。
たとえ日輪の真実がおぞましくとも、皇子のその誇り高く無垢な望みを、そのまま咲かせてやりたかった。
(高御座を捨て置き、籠の鳥となることを、皇子が望むはすもない……)
皇子の魂にまとわりつこうとする呪縛。
呪縛そのものが解けぬのであれば、皇子の代わりに澱みを澄ましゆくものがあればよいのだ。
禁裏であっても、神域であっても構わぬ。
皇子がその身とその心が、無事でありさえすればーー。
そう願わせる、心のうちに生じたさざなみの名を、桜の君は未だ知らなかった。
◇◇◇
雲を蹴り、ただ皇子のもとへと駆ける桜の君。
その瞳がようやく都を捉えたのは、茜さす黄昏時のことだった。
さらに疾駆せんとしたその瞬間、口に咥えた霊樹の枝ーーその先を彩っていた薄紅が、唐突に散った。
風に舞い、砕けて光へと消えゆく薄紅を振り返ることもなく、桜の君は全霊を賭して駆け抜ける。
(皇子……!)
◇◇◇
常ならば燭台の光が満ち、優美な香の焚かれている筈の皇子の殿舎は、仕える者の一人もなく、ただ不気味に静まりかえっていた。
脇息に身を預け、茫洋とした眼差しを虚空に向けていた皇子は、桜の君の姿を捉えると、深くかすれた息をついた。
「桜の…君…無事で、あったか……」
そう言って力無く伸ばされた手からは——いや、皇子の総身からは、拭いきれぬ濃密な血の匂いが漂っていた。
よもや皇子に、怪我でもーー。
そう思いかけてはたと気がつく。
(違う、これは皇子の血ではない)
皇子自身ではなく、さりながら皇子に酷似したその血の匂い。
当代の日輪ーー皇子の父のものであった。
◇◇◇
その日は朝から桜の君の姿が見えなかった。
幼き日の自分の前に、まるで風に乗る桜の花びらのように突然現れた柔らかな仔猫。
名を呼んでも振り向かず、そっと抱き上げるたびにするりと抜け出して手の届かぬ場所で丸くなっていた。
(このところようやく心を開いてくれていたのに……)
何か気に障ることでもしてしまっただろうか、女官たちに新しい手遊びでも拵えさせようか、あるいは心地の良い臥所が良いだろうか。
あたたかな黒い毛並みを探しながらそんなことを考えていた時だった。
風に乗って微かな悲鳴と燻りの臭いが流れてくる。
およそ聞いたことのない慌ただしい衣擦れと血相をかえた足音を響かせ、駆け込んできた女官が眼前に崩れ落ちるよう額ずき震える声で告げた。
ーー主上、御乱心にございます。
◇◇◇
数日前から伏せっていた帝が見舞いに訪れた妃に突然切り掛かり、殿舎に火を放たれたのだという。
(ありえぬ…)
歴代の帝はその多くが心を狂気にのまれてゆく。
ただそれは静かに心を壊し彷徨うように己を失ってゆくもので、殿舎に火をかけ太刀を振るうような狂乱など例がなかった。
何事が巻き起こったのかと、止める女官を振り払い御座所に駆けつければ、焼け落ちる回廊で、逃げ惑う妃の黒髪を掴み太刀を振り上げる父帝の姿があった。
(父上!)
お手を汚させてはならぬ、その一心だっただろうか。
気がつけば太刀は己の手にあり、その刃は玉体を貫いていた。
鮮血が衣を重く濡らしてゆく。
「………よ、………け…も…」
己の腕のなかで顔色を失ってゆく父の囁きはついぞ音を結ばなかった。
降り注いだ熱い血潮は、肌を伝うほどにその熱を失ってゆく。
指先を凍えさせるのはその冷たさか、父を手にかけた罪であろうか。
「東宮!ご無事であらせられますか!」
途切れ果てた心はろくな思いも結ばぬまま、されどその身とその口は偽りの威容を紡いだ。
「日輪の子」はかくあれと教えられたままにーー
◇◇◇
嗚咽もなく、ただ静かに涙を流す皇子の姿に、桜の君は心のうちに生じたさざなみが、大きく姿を変えるのを感じた。
身のうちに不快な熱が渦を巻き、裏腹にその芯は氷を差し込まれたかのように凍えてゆく。
掻きむしりたいようなその衝動は形になりきらず漂い、思考を痺れさせた。
ーーそうか。これが…悲しみか。




